第5話
毛織物商ハリントンの住まいは、ラング街にある。
ラング街は、マーシャの暮らすロータス街から北にいった場所にある、レン最大の問屋街である。ハリントンはそこに、店舗を兼ねた住居を構えているのだ。
日は西に傾きつつあった。
走り通しでハリントン宅にたどり着いたマーシャである。息を整える間も惜しいとばかり、荒い息を吐きながら取次ぎを頼む。
「おや、本当に『雲霞一断』のお訪ねとは。使用人からその名を聞いたときは、いたずらかと思いましたぞ」
ハリントンが、驚きの表情を浮かべつつ玄関口に現れた。ほっそりとした体型の、上品な老人だ。
その様子から察するに、とりあえずは、この家で異常な事態は起きていないようだ。マーシャは、ほっと胸をなでおろす。
ハリントンがマーシャを邸内に迎え入れようとするが、マーシャはそれを断り、すぐに本題を切り出す。
「ハリントン殿、つい数日前、バックスという男から剣をお買いになりませんでしたか」
「ええ。どうしてそれをご存知で?」
「まことに失礼なことと承知の上でお願いするのですが――その剣、どうしても手に入れなければならぬ事情があるのです。どうか、私に譲っていただけないでしょうか」
「ううむ。なにか、差し迫った理由がおありのようですな」
「はい。危急のことゆえ、詳しくお話しする暇もないのです。ことが片付きましたら、きっと理由を申し上げに参りますので――この通り」
と、マーシャが頭を下げた。
「あなたにそこまでお願いされては、聞かないわけにはいかない――と言いたいところなのですが――あの剣、人に譲り渡してしまったのです」
「いったい誰に?」
「キース・ギャレットという、私が目をかけている若い剣士です。このほど、彼がとある大会で優勝しましてね。祝いの品として贈ったのですよ」
その名は、マーシャも聞いたことがあった。最近、王都で話題となっている武術家で、かなりの有望株ともっぱらの評判だったはずだ。
武術試合の後援者として、武術家と広く親交のあるハリントンだ。バックスの店の帳簿からは、この男がバックスの上得意であったことが察せられた。付き合いのある武術家への贈答用として、バックスから武具類を購入していたのだろう。マーシャはそう推測する。
「しかし、一歩遅かったですな。ギャレット殿のお宅に、あの剣を届けさせたのが今日の昼ごろの話。その前に来ていただいたなら、お力になることができたのですが」
「昼ごろ、ですか」
マーシャが唇をかむ。しかし、まださほど時間は経っていない。ギャレットがまだ剣を手にしていないことを祈るしかない。
「祝いの品として贈ったものを、私のほうから返せと言うわけにも参りませんでな。どうしてもその剣が欲しいと仰るならば、本人と直接交渉なさるがよろしい」
「わかりました。ギャレット殿の住所をお教え願いますか」
ギャレットの住所を聞いたマーシャは、挨拶もそこそこにハリントン邸を出た。
ギャレットの住まいは、シスル街にあった。このラング街と隣接する区画だから、そう遠くはない。
早速マーシャがシスル街に足を向けようとした矢先、けたたましい馬蹄の音とともに、一騎の騎馬がハリントン邸に向かって来た。
「あれは――シェインではないか」
「先生! 先生!」
シェインは、馬の手綱を引きつつ、血相を変えてマーシャを呼ばわった。その焦りようは、普通ではない。
「どうしたシェイン、なにがあった」
「それが――大将、コーネリアス隊長が大変なんです!」
「どういうことだ?」
「詳しい話は、詰め所に向かう途中で。乗ってくだせぇ」
どうやら、尋常ならざる事態が起きているようだ。マーシャは、シェインとともに馬に飛び乗った。
手綱を繰りつつ、シェインが事情を説明する。
「先生の指示通り、十一分隊かられいの剣を受け取りましてね。大将に届けたんです。そしたら大将が――」
マーシャの手を煩わせてばかりでは申し訳ない。ひとつ、魔剣という話が本当なのか、実験してみよう。コーネリアスは、そう言ったのだとか。
マーシャの背筋が凍った。
「それで、詰め所の中庭でその実験をやってみよう、ってことになったんです」
要するに、誰かが剣を抜いてみて、変化が出るかどうか確かめる――そういう話らしい。
「で、誰が剣を抜くのか、ってことになって――」
剣が持ち主にとてつもない力を与えるというのなら、なるべく弱い人間が実験台になったほうが安全である。そこで、コーネリアスが自ら名乗りを上げた。コーネリアスの腕っ節の弱さは、自他ともに認めるところだ。
そこまで聞いて、マーシャはシェインの異常な焦燥の原因を理解した。
「馬鹿な……ドネリーという男は、バーグマン殿をも圧倒するほどの力を見せたのだぞ」
「いや、俺たちも用心はしたんですよ。万が一のことを考えて、大将には手枷をはめて、足にも鉄球つきの鎖もつけて」
何かが起きたとしても、その状態ならばすぐに取り押さえられるはず。コーネリアスが自ら提案したという。その状態で剣を抜き、経過を見てみようということになった。
悪党を取り締まるはずの警備部隊長が、まるで囚人のような格好をしているなど滑稽な話だ――コーネリアスは、はじめは自虐的な冗談なども言う余裕があった。
しかし、剣を抜き放ってからしばらく経つと、コーネリアスの様子が変化した。
「まずだんだんと口数が減ってきたと思ったら、目がぎらつき始めて――なにかぶつぶつと呟いたと思ったら、いきなり暴れだしたんでさ」
手枷と重りをつけた状態ながら、コーネリアスの暴れぶりは凄まじく、見守っていた隊員たちも容易に近づけぬほどだった。
逆に言えば、四肢を拘束していない状態であったなら、恐ろしい事態に発展していたやも知れぬ。
「いま、詰め所にいる人間総出で、なんとか大将を中庭から出さないようにしてるとこです。こうなったら、先生の力を借りるしかねぇ、ってことで俺がこうしてお迎えに来たってわけです」
「話はわかった。急いでくれ」
夕闇迫る中、二人を乗せた馬はレンの街を疾駆する。
「大将はどうなった!?」
まず、シェインが詰め所の中庭に飛び込んだ。
「おおシェイン、グレンヴィル殿はどうした」
それに気付いた隊員の一人が振り返る。
「私はここに。コーネリアス殿は」
「あちらです! どうかお急ぎを。隊長を抑えるのも限界です!」
コーネリアスは、十人ほどの隊員に包囲されていた。隊員たちは捕り物に用いる長柄のさすまたを手に、遠巻きにコーネリアスを取り囲んでいる。
コーネリアスはといえば、低い唸り声を上げつつ、獣のように歯をむき出しにしている。そのさまは、まるで周囲を威嚇するかのようだ。
温厚で、いつも微笑みを絶やさぬコーネリアスの姿は、どこにもない。怒りとも、憎しみとも、悲しみともつかぬ、醜く歪んだ表情を浮かべている。
「あの左手は――」
コーネリアスの左手首は、あらぬ方向に曲がっている。
「手枷をはめたまま、無理に剣を振り回したものだから……グレンヴィル殿、お恥ずかしい話ですが、いまの隊長はわれわれの手には負えません。どうかお力添えを!」
「わかりました。みなさんはお下がりを」
マーシャは迷いなく、しかし慎重に前に進み出た。隊員の一人から、さすまたを借り受ける。
「コーネリアス殿……」
マーシャの声に、コーネリアスが反応する。天を仰いで咆哮を上げると、マーシャに突進した。
鉄球を引きずっているにも関わらず、その速度はかなり速い。一気に間合いを詰めると、右手の剣を鋭く薙ぐ。
後ろに跳んで回避したマーシャに、コーネリアスはなおも追いすがる。
(これがあのコーネリアス殿とは――信じられぬ)
コーネリアスの斬撃を避けつつ、マーシャは驚愕を禁じえない。コーネリアスが剣を振るたび剣先は唸りをあげ、叩きつけるような刃風が巻き起こる。
きわめて鋭利な剣であるから、一撃でも喰らってしまえばバックスの妻と同じ末路を辿るだろう。隊員たちが遠巻きに包囲するのが精一杯であったとしても、それは責められぬ。
(時間をかけていては、コーネリアス殿の身体が危うい)
その左手首を見れば分かるとおり、いまのコーネリアスは、自らの身体が傷つこうがまるでお構いなしだ。マーシャの目からすると、まるで痛みを感じていないようにも見える。
そもそも、重い鉄球を足につけられながら、身軽に立ち回れることが普通ではない。本来不可能なはずの挙動を繰り返すたび、コーネリアスの筋肉や骨に過剰な負担がかかっているはずだ。
「ぐろぉぉぉあぁぁーーーッ!!」
猛り狂ったコーネリアスが、大上段から剣を振り下ろす。豪と風を切って迫る刃を、しかしマーシャは紙一重のところで見切った。
「御免!」
さすまたをくるりと回転させ、石突を鋭くコーネリアスに突きこむ。
「ひゅう……」
みぞおちを強打されたコーネリアスの肺が、一時的に動きを止める。
いくら痛みを感じぬ状態でも、呼吸なしに人は動くことはできない。コーネリアスの四肢が硬直する。
「はッ!」
さすまたの柄でコーネリアスの右肘を強打。コーネリアスの手から剣が離れたところで、マーシャは彼の側頭部に掌を打ちつけた。
脳を強かに揺すられ、コーネリアスは白目をむいて倒れこむ。
「やったぞ!」
隊員たちがコーネリアスに駆け寄る。左手首の骨折以外、コーネリアスに大きな怪我はないようだった。
マーシャは件の剣を拾い上げると、素早く鞘に収めた。
「先生、申し訳ねぇ。先生の言いつけどおり、剣を抜かなきゃこんなことにはならなかった」
悔しげな表情を浮かべ、シェインが言った。
「反省はあとだ――急がねば」
コーネリアスの介抱をする隊員たちをよそに、マーシャは走り出す。
「先生、どこへ?」
シェインが、マーシャを追いかけながら問う。
「馬鹿者、私が先ほどまでなにをしていたか忘れたか」
「あっ!? もう一本の剣――」
「そういうことだ。あの剣がおかしいとわかった以上、もはや一刻の猶予もならぬ。馬を借りるぞ」
「なら、俺も行きます!」
警備部の馬に飛び乗ると、マーシャとシェインは一路シスル街を目指す。
目的の番地に着いたのは、ちょうど日が西の空に沈んだころであった。
キース・ギャレットは、シスル街裏通りに面した小ぢんまりとした借家で一人暮らしをしているという。
「御免。キース・ギャレット殿はご在宅か」
ドアを叩きながら、マーシャは大声で呼びかけた。しかし、返事はない。
「出かけてるんですかね」
「いや、二階の窓から灯りが漏れているだろう。それに――確かに、人の気配がする」
ノックを繰り返すマーシャであったが、依然反応はない。
「面倒だ。踏み込んじまいましょう」
と、シェインがドアノブに手をかけたそのとき。
「ッ!? シェイン、危ない!」
マーシャがシェインの首根っこを掴んだのと、ギャレット邸のドアが
「んなっ!? いったいなにが――」
間一髪であった。マーシャがとっさにシェインを引っ張っていなければ、シェインはドアともども真っ二つにされていただろう。
家の内側にいた人間が、剣でドアを両断したのだ。
「先生――!」
「下がっていろ」
半分になったドアを蹴倒し、一人の男が姿を現した。
歳のころは二十五、六か。平均的な成人男性よりも身長のあるマーシャが、見上げるほどの巨躯。全身が、鍛えこまれた筋肉で覆われている。
どろんと焦点を結ばぬ双眸は、異様な光を湛える。だらしなく開かれた口からは涎が垂れるが、ギャレットはそれを拭おうともせぬ。足取りは、いかにも覚束ない。右手には、銀色に光る刃――それがなんなのか、いまさら書き述べるまでもないだろう。
「不味い状況だ。ギャレットは既に、剣の魔性に取り込まれてしまっているようだ」
シェインを背にかばい、マーシャはギャレットと対峙する。
ギャレットの足が止まる。オルゴールの人形のごとく、ぎこちない動きで首を巡らせ、マーシャを見た。口の端が、大きく切れ上がった。
「どうやら、私を獲物として認識したらしい」
マーシャが、腰の剣を抜く。
ギャレットはぐるると喉を鳴らすと、マーシャに向かって大きく跳躍した。
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