学士アイザックの受難

第1話

 日もどっぷりと暮れた夜道。通行人の姿は皆無であり、あたりを照らすのは己が手にしたランプのみである。暗闇に対する恐怖というものは、人間が持つ本能に基づいた感情だ。独り歩くヴァート・フェイロンが、

(どうにも心細い……)

 と思ってしまうのも決して恥ずべきことではない。彼が武術家として厳しい修行を積んだ身であるとしても、である。

 夏の訪れを感じさせる、じっとり蒸し暑い夜であった。

 これは、ヴァートがマーシャの使いで王都レン郊外にあるローウェル道場をおとなった帰り道での出来事だ。

 道場主であるマイカ・ローウェルが、ヴァートの師の一人であり保護者でもあるマーシャ・グレンヴィルおよび、ヴァートが三年数ヶ月の間師事したラルフ・ハミルトンの師であることは、いくつかの挿話にて述べられている。

 マット・ブロウズとの対決によって受けた傷も、すっかり良くなった。本格的な稽古を始めたヴァートであったが、同じ相手とばかり手合わせするのではどうしてもやることが単調になる――そうマーシャに言われ、機会をみてはローウェル道場に赴き、稽古に参加させてもらっているのだ。

 マイカはヴァートのことをいたく気に入っており、稽古を終えたあともしきりにヴァートを引きとめようとする。結局夕飯までごちそうになったヴァートが道場を出たのは、陽が完全に沈みきってからのことだった。同様のことが過去に一度あったため、マーシャも彼の帰りが遅くなることは織り込み済みのはずである。

 ローウェル道場があるあたりは、いまだ都市化が進んでいない農村地帯だ。行政区分的にはレンの内にあるのだが、ヴァートが暮らす下町とも、王城のある新市街ともまったく様相が異なっている。なにしろ九割九分が農地と森林・原野であり、その中にわずかな家屋が点在するだけ、という状態だ。

「なんだかエディーンの村を思い出すなぁ」

 と、ヴァートがかつて三年数ヶ月を過ごした寒村に思いを馳せていると、怒号とも悲鳴ともつかぬ異様な叫びが夜のしじまを引き裂いた。

 声が聞こえてきたのは、ヴァートの前方である。なにごとかとヴァートは耳を澄ます。叫びとともに、複数の乱れた足音が響いている。

 ただならぬ気配を察したヴァートは、身を低くして走り出した。

 果たして、その先には複数の人間がもつれ合い、争っている姿があった。

 ヴァートが察するに、四人の男が一人の男に寄ってたかって襲い掛かっているようである。さらに言えば、襲われているほうは無手なのに対し、襲っているほうは手に手に武器を携えている。

 いかなる理由があろうとも、このような暴挙が許されるはずがない。仮に襲撃者たちに正当な理由があるならば、なおのこと、かような無体をせねばならぬ道理はない。

「待て!」

 ヴァートが鋭く言い放つと、襲撃者たちの動きが一瞬止まった。襲われていたほうの男は、その機を逃さず囲みを抜け出すと、一気に襲撃者たちから距離を取った。すかさず、ヴァートが割って入る。

「大丈夫ですか」

 背中に庇った男に、ヴァートが声をかけた。中背で痩せ型、年のころは二十代後半であろうか。暗がりゆえ、面立ちははっきりと見えない。

「ああ、助かったよ。しかし、このままでは君の命もあやうい。悪いことは言わない、早く逃げるんだ」

 九死に一生を得たばかりだというのに、男の声は不思議なほどに落ち着いていた。なかなか肝が据わった人物のようである。

「お気遣い感謝します――でも、連中に逃がしてくれる気はなさそうだ」

 男たちは顔を寄せ合い、小声で何かを話している。

「……どうする、見られちまったぞ」

「構うこたぁねぇ、二人まとめて殺っちまえばいいだけの話さ」

 などという声が、わずかに漏れ聞こえてくる。近くに人家はなく、通行人もいない。他に目撃者がいないのをいいことに、ヴァートもろとも殺してしまおう、という算段らしい。

「しかし君――」

「大丈夫。下がってください」

 この短いやり取りの間にも、ヴァートは襲撃者たちの様子をつぶさに観察している。

 荒事には慣れているようだし、四人中二人にはそれなりの武術の心得があるようだ。ひとりは長剣、二人は短剣。そしてもうひとりの得物は棍棒か――

(四人というのは多少厄介だが――それだけだ)

 男たちは、かつてヴァートも戦ったことがある暗殺者ギルドの者どもと違い、殺しの専門家というわけではなさそうだ。男たちの放つ緩慢な殺気がそれを物語る。

 襲撃者たちは武器を構えなおすと、ヴァートと痩せ型の男を取り囲むように動いた。そして、互いに目配せして呼吸を合わせ、まさに襲い掛かろうとした瞬間である。男たちが踏み出すよりも早く、ヴァートが正面の男に向かって一気に間合いを詰めた。

「んなっ……!?」

 動作の起こり・・・を潰された男は、ヴァートの動きに全く反応できずにいた。手にした長剣を振りかざす間も与えずに男に肉薄したヴァートは、全体重を乗せて体当たりをぶちかました。体当たりをもろに食らった男は、後ろに跳ね飛ばされて地面を転げる。

「次!」

 ヴァートは早くも二人目に狙いを定めている。抜き放ちざまに剣を振るうと、男が手にした短剣は大きく弾かれ、道の脇の茂みの中に消えた。

 ここへきてようやく、残り二人の男が反撃を試みた。しかし、その動きはヴァートにとって遅すぎた。ひとり目が繰り出した突きを苦もなく避けると、みぞおちに柄頭の一撃。二人目が放った横薙を後ろに跳んで避け、跳びながら放った斬撃は敵の手の甲を深く切り裂いている。

「つ、強えぇ……!」

 ヴァートが加えた攻撃は、直ちに致命傷となるものではない。しかし、男たちの意気を挫くのにはそれで十分であった。

「おい、話が違うじゃねぇか! 生っちょろい学者を一匹殺るだけの仕事だったはずだろ!」

「そうだ、これじゃあ割りに合わねぇ!」

 男たちは大きく動揺しているようであった。ヴァートは、一旦攻撃の手を止める。降参の余地を与えてやっているのだ。

「しかし……しくじったと旦那に知られたら……」

「馬鹿野郎、警備部にとっ捕まっちまえば同じことだ」

 ヴァートたちに聞こえているのも構わず、男たちは言い争う。そうして出した結論は、

「ずらかるぞ!!」

 尻尾を巻いて逃げ出すことだった。

 みすみす取り逃がす気など毛頭ない。ヴァートが男たちを追おうと一歩を踏み出したその時である。最後尾の男が、足をもつれさせて転倒した。男たちがヴァートに注意を向けている隙に、抜け目なく道の先に回りこんだ痩せ型の男が、足を引っ掛けたのだ。

 痩せ型の男は転倒した男に馬乗りになると、腹に拳を突き入れた。

「むうん……」

 と短く呻き、その男は気を失った。

「さしあたって、ひとりを捕えておけば十分だろう」

 痩せ型の男は、衣類の土埃を叩き落としながら立ち上がった。その鮮やかな手腕に、ヴァートも思わず感嘆し、ひゅうと口笛を鳴らす。

「いや、助かったよ。君が現れなかったらどうなっていたことか」

 相変わらず落ち着き払った様子で、男は謝辞を述べた。

「若いのに大したものだ。君の腕前は賞賛に値するよ」

「いえ、俺なんて全然です」

「謙遜することはない。私も一応は剣術をかじった身。君の実力が相当なものだということはわかるさ」

 そう褒められて、ヴァートは照れくさそうに頭をかいた。

「そ、それより――さっきの連中は?」

「それが、皆目見当もつかないのだよ」

「ただの強盗、でしょうか」

「それはどうだろうか。ともかく――この男を警備部に突き出さねばならない。このまま転がしておくわけにもいかないな」

「それなら、どこか手近な家に運び込みましょう。そこで警備部を呼んでもらうというのは?」

「うむ、それがいいだろう。ならば――私の実家うちに運ぶとしよう」

「ご実家はこの近くに?」

「ああ。もうすぐ大きな仕事が始まるのでね。しばらく忙しくて里帰りもできなくなるだろうから、その前に両親に顔を見せておこうと思ったのだ。その矢先に、この有様というわけさ」

「なら、俺が担いでいきますよ。済みませんが、こいつを頼みます」

 ヴァートは自らの剣を男に託すと、剣の帯を使って気を失った襲撃者の手足を縛り上げた。

「なにからなにまで済まないな。見ての通り、腕力にはまったく自信がないものでね」

 その口ぶりは飄々としており、自虐しているふうでもない。

「それで――ご実家はどちらに?」

「ああ、この道をまっすぐ進み、大きな一本杉が生えている辻を右に曲がった先だ」

「あれ? それって……」

 ヴァートが首を傾げる。男が告げたのは、今しがたヴァートが進んできた道をちょうど逆に辿る道筋だったからだ。

「君、その腕前といい、この道を通ってきたことといい――私の実家うちからの帰りだったのではないかな?」

「……ええっ!? もしかして――」

 ヴァートは、男の言わんとしているところを察した。

「命の恩人に名も名乗っていなかったとは、とんだ失礼をした。私はアイザック・ローウェル。マイカ・ローウェルは私の父だ」

 ランプに照らされたアイザックの顔には、確かにマイカの面影があった。

 マイカには一人息子がいるが、剣士としての才には恵まれず、武の道を歩むことを諦め文官として城勤めをしている――そんな話はマーシャから聞いてはいたが、まさかこのような場面でその息子に出会おうとは、夢にも思わぬヴァートであった。


 程なくして、ヴァートとアイザックはローウェル道場に辿り着いた。ヴァートが肩に担いでいる男は、気絶したまままだ目を覚ましていない。

 アイザックが門を叩くと、大柄な男が二人を迎え入れた。男は八人いる住み込みの弟子の一人でアーデンという。ヴァートも何度か一緒に稽古をしたことがあった。

「これはアイザックさん、お久しぶりです。おや、そっちはヴァートじゃないか。さっき帰ったばかりじゃ……むっ、その担がれているのは――」

「すまないが、父上を呼んでくれるかな」

 アイザックの言葉からただならぬものを感じたようで、アーデンは慌てて廊下を走っていった。

「まったく、久方振りに顔を見せたと思えば――どうやら、厄介ごとのようじゃの」

 現れたマイカは、苦々しげな表情でそう言ったものである。


 ヴァートとアイザックが事の顛末を語ると、マイカはヴァートに対して

「不肖の倅の命を救ってくれたこと、感謝するぞ」

 と礼を述べた。

 マイカは、マーシャ、ハミルトンというヴァートが敬愛してやまない二人の師にあたる。そんな人物が深々とこうべを垂れたものだから、ヴァートは恐縮するしかない。

「それにしても……わしの息子ともあろう者が、ごろつきの四人や五人、自分の手で撃退できずにどうするのじゃ」

 マイカが苦言を呈するけれども、

「それを私に言うのはいまさらというものですよ、父上」

 と、アイザックはまるで気にするふうでもなく肩を竦める。

「お前という奴は、まったく変わっておらんようじゃの」

 これにはマイカも毒気を抜かれたようになって、大きくため息をつくのみだ。

「あのー、話の邪魔をするようですけど……早く警備部を呼んだほうがいいんじゃないでしょうか」

 玄関口に転がされたままの襲撃者を眺めつつ、ヴァートが話に割って入った。

「おお、その通りじゃ。おおい、アーデンよ。ひとっ走りして、第十九分隊の詰め所まで行って来ておくれ」

「はい、かしこまりました」

 第十九分隊とは、王都レンの治安を守る警備部のうち、ローウェル道場がある場所を含む地域を管轄とする部隊である。

「今日は、たしかエド・・の奴の勤務日のはず。奴ならば上手く取り計らってくれるじゃろう」

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