第5話

 翌朝。

「アイよ。ウェンライト殿を破ったという相手に興味はないか?」

 マーシャは、アイに尋ねてみた。アイは、しばし考えたのち答えた。

「知りたくない、と申せば嘘にるが――無理に知りたいとも思わぬ、というのが本当のところにござる」

「ふむ……」

「師の口ぶりからするに、れいの試合でなにごとかがあったのは確かにござる。しかし、その試合があったからこそ某は師と出会うことができた。いまさら過去を穿り返すことに意味はござらぬ。某はただ、この巡り合せに感謝するのみ」

「……なるほど、わかった」

 ケヴィン・ウェンライトとファーガス・ドレイク。二人が戦った試合に、なにか裏があるのではないかという疑念を抱いていたマーシャであったが――それは綺麗さっぱり忘れることにした。ケヴィンに一番近しい存在といえるアイに知る気がないのなら、部外者のマーシャがこれ以上出しゃばるべきではない。

「それで、今日はどうするつもりだ」

「はい。かねてから考えていたとおり、レンの武術道場を回ってみるつもりにござる」

「では、私が案内しよう」

「いえ、先生のお手を煩わせるわけにはいかないでござる。大丈夫、道に迷ったりはせぬでござるよ」

 アイはさまざまな場所を旅し、世慣れているようである。暴漢に絡まれたとて、四人や五人ならアイの敵ではないということは実証済みだ。

「余計なお節介かもしれないが、気をつけてな。帰りはいつごろになる?」

「今のところはなんとも……」

「食事はどうする?」

「どこぞの店で済ますつもりにござる。ご心配は無用」

 アイを見送ったマーシャは、ひとつ欠伸をした。

 昨晩は、ケヴィンのことを考えていたせいか、あまり熟睡できなかったのだ。

「今日はミネルヴァ様がいらっしゃる日か。稽古は午後からだし――一眠りするか」


「先生……またこんな時間までお眠りになって」

 と、ミネルヴァに呆れられるのも恒例のことである。

 ほんの一眠りのつもりが、気付けばミネルヴァとの約束の時間となっていた。マーシャは乱れた髪のままミネルヴァとの稽古に臨む。

 このところ、ミネルヴァは稽古の際面当てをはじめとする防具をつけなくなった。

「日常の中で、突如理不尽な暴力に見舞われたとしましょう。そんな時、『防具をつけるから待ってくれ』などと言うわけにも参りませんわ」

 というのだ。

 防具のことに限らず――あのランドール公爵の事件以来、ミネルヴァの稽古に臨む姿勢は一変した。それまでも、きわめて真面目に稽古に取り組んではいたのだが、心の持ちようが大きく変わったようにマーシャは感じている。イアンの死、そしてランドールとの一騎打ち。それが、ミネルヴァの心境を変えたのは間違いない。

 事件ののち、初めて稽古に訪れたときのミネルヴァの眼を、マーシャは今でも忘れない。悲しみを湛えながらも、強い意志の力を宿した瞳。

 ミネルヴァは多くを語らぬ。しかし、いまのミネルヴァは「強くなる」ということについて、自分なりに深く考えているのだろう。そうマーシャは見ている。

「お願いします」

 ミネルヴァは大剣を模した長大な木剣を肩に担ぐ。構え自体は以前とまったく変わらぬ。しかし、その身体から発せられる気迫は以前までのそれとは比較にならないほど烈しい。まるで、この乱取りに自身の生命を賭しているかのようだ。

 マーシャは、摺り足でじりじりと間合いを詰める。以前までのミネルヴァなら、容易く間合いに入ることを許しただろう。しかし、いまのミネルヴァはその気迫でもってマーシャを押し返さんとしていた。

 マーシャは、いったん構えを解いた。

「ミネルヴァ様、ひとつお聞きします」

 怪訝な表情を見せるミネルヴァに対し、マーシャは尋ねた。

「なんのために剣を学ぶのです」

「弱きを助け、悪を挫く――父祖より受け継ぐ、フォーサイス家の人間が担うべき責務を果たすため。それこそが私が剣を握る理由。幼少時より、それは変わっておりません」

 ミネルヴァはここで言葉を切り、目を閉じた。しばし黙考したのち、口を開いた。

「しかし――今までの私には覚悟がありませんでした。剣を持って戦うということがどういうことなのか、理解していなかったのです」

 そう言って開かれたミネルヴァの瞳――硝子細工のような碧眼が、マーシャにはまるで真っ赤に燃えているように見えた。

「人というのは無力なもの。救いを求めるすべての人を救えるわけではないことは、重々承知しております。手が届かないこともあるでしょう。しかし、自身の力が及ばなかったことで誰かを救えなかった――そんな言い訳をするようなことがなくなるくらい、私は強くなりたい。私は、領民の信頼を背負う貴族なのですから」

 イアンの死は、ミネルヴァのあずかり知らぬところで起きたことだ。彼女が負い目を感じる必要は皆無である。それでも、ミネルヴァはイアンを死なせてしまったことを、大いに悔いているようだった。

「お気持ち、わかりました。では、私もミネルヴァ様のお気持ちに応えねばなりますまい」

 マーシャは再び剣を構えた。

「ここから先は、修羅の世界。踏み込んでくる覚悟はよいですか」

 途端、マーシャの全身から殺気が迸った。

 それは凍てつく吹雪のように、心の芯まで震え上がらせる。ミネルヴァの四肢は、彫像のように動きを止めた。

 マーシャが、一歩一歩足を進める。マーシャが一歩近付くごとに、マーシャの放つ剣気は色濃くなっていく。

「……ぁ……、」

 ミネルヴァは、かすれた呻き声を上げるのが精一杯だった。

 マーシャは右手の剣を後方に引き絞ると、ゆっくりと、ごく軽くミネルヴァの胸を突いた。ただそれだけで、ミネルヴァは尻餅をついてへたり込んでしまう。

「いかがでしたか、ミネルヴァ様。世の中は広い。このような相手とも、戦わなければならないときが来るかもしれない」

 マーシャの剣気は、いつの間にか掻き消えている。ミネルヴァは、青い顔をして荒い息を吐いている。

「はぁっ、はぁつ……望むところですわ」

 ミネルヴァの瞳の輝きは、いまだ衰えていない。それが、彼女の言葉が強がりでないことを証明している。

「わかりました。以後、私もそのつもりで指導いたします。しかし――今日のところはここまでにしておきましょう。先ほどから、パメラが怖い顔でこちらを見ている」

 後ろに控えていたパメラは、腰を抜かしたミネルヴァに駆け寄る。

「グレンヴィル様。突然あのなさりようは、いかがなものかと存じます」

 と、マーシャに対し、非難がましいまなざしを向けた。滅多に感情をあらわにしない彼女としては、実に珍しいことだ。

「止しなさい、パメラ。私が望んだことなのですから」

「お嬢様……」

 パメラの手を借りて立ち上がったミネルヴァは、マーシャに一礼した。

「今日のところは失礼いたします。正直、先ほどのは堪えましたわ」

 ミネルヴァが踵を返そうとしたとき、マーシャはふとアイの存在を思い出す。

「そうだ、ミネルヴァ様。いま少々面白い武術家が桜蓮荘に滞在しておりましてね。今日は外出しているのですが、機会があれば引き合わせたいと思います」

 ミネルヴァの遣う両手大剣は、一撃の威力と長い間合いが長所だ。しかし、一撃一撃が大振りになるぶん、懐に入られると一気に不利になる。いかにして自分有利の距離を維持するか、それがミネルヴァの大きな課題である。

 アイの踏み込みの速度は、マーシャを驚愕させるほどだ。そのアイと稽古をすれば、ミネルヴァにとって得るものは大きいに違いない。

「それは楽しみですわね。ぜひ、お願いいたしますわ」


 この日、アイが桜蓮荘に戻ったのは夕飯時も大きく過ぎたころであった。

「いやあ、さすがにシーラントのみやこ。そこかしこに武術の道場がござって、あと一件、もう一件と、ついつい遠いところまで足を伸ばしてしまったでござる」

「そうか。参考にはなったかな」

「はい。わが祖国ゲトナーなどでは、そもそも道場というもの自体がほとんど存在しなかったゆえ、ひとどころに多くの人が集まり、切磋琢磨するという光景も新鮮にござった」

「それはよかった。で、アイよ。いま私が指導している教え子が一人いるのだが、今度彼女と一本手合わせをしてもらいたいのだが」

「もちろん。先生の教え子と手合わせとは、実に楽しみにござる」

 アイは、八重歯を見せて笑った。


 午前中に桜蓮荘を出て、夕飯時を大きく過ぎてから戻る。そんなアイの道場巡りが始まって、四日目の朝のことだった。

「ご免。この建物のあるじはいるか」

 桜蓮荘の門前で、大声で呼ばわる男があった。王国軍警備部の制服を着用した中年の男で、部下と思しき若い男たちを三人引き連れている。

 朝っぱらからなにごとか、とマーシャが顔を出す。

「警備部の方とお見受けするが」

「いかにも。警備部第八分隊隊長、ダリル・カーターである。こちらにアイニッキ・イコーネンという女がいるはずだ。今すぐ出してもらおう」

 カーターなる男は、居丈高に命令した。

「――アイにいったい何のご用かな」

「アイニッキ・イコーネンには、ファーガス・ドレイク殺しの嫌疑がかかっておる。速やかに身柄を引き渡すのだ」

 これにはマーシャも仰天するほかない。アイの師・ケヴィン因縁の相手、ドレイクが殺害された――そして、アイがその犯人だと疑われているのだ。

 カーターの大声を聞き、桜蓮荘の住民たちが集まり出した。そしてその中にはアイの姿もある。

「む……もしや貴様、アイニッキ・イコーネンだな」

 カーターは、すでにアイの外見について情報を得ていたのであろう。アイを見るなり、部下に命じてその身柄を拘束させようとする。

「? なんの真似にござるか」

 アイは、自分に伸びる三人の男たちの腕を、右手一本ですべて打ち払った。間髪入れず大きく後ろに跳ぶと、両手を上げて構えを取る。

「アイ、止せ!」

 アイの行動は、自らの身を守ろうという武術家の本能によって起こされたものであり、責められるものではない。しかし、官憲に手向かいするそぶりを見せるのは得策ではない。

「アイ、この人たちは警備部といって、国の治安を守るための存在だ。ひとつ落ち着いて話を聞いてくれ」

 マーシャにそう言われ、アイは構えを解いた。

「彼らはお前が人を殺めたと言っている。心当たりはあるか?」

 今度はアイは仰天する。

「とんでもない。そのようなこと、するはずがない」

 アイは首を大きく横に振って否定した。

「犯罪者はみなそう言うものだ。とにかく、われわれと一緒に来てもらおう」

 カーターがずいとアイへ歩み寄ろうとするのに、マーシャが割って入った。

「待ってください。彼女はやっていないと言っている。証拠はおありで――」

 と、アイがマーシャの肩に手を置いた。

「先生、某は彼らの言うとおりにするでござる。やましいところはござらぬゆえ、すぐに釈放されよう」

「ほう、往生際がいいな。しかし、取調べでは容赦せんぞ」

 カーターの合図を受け、アイの腕に縄がかけられた。そのままアイは引き立てられていく。

「これはいったいどういうことだ……」

 さしものマーシャも、困惑を隠せないでいた。

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