第6話
桜蓮荘までは、すぐだった。騒動があった場所から道を挟んだ隣の区画であり、ヴァートは曲がる道を一本間違えたらしい。迷ったおかげでファイナの危機を救うことができたのだから、結果的には良かったのかもしれないが。
「ほら、あそこだよ。……どうしたの?」
懐かしい場所までもう少し、というところでヴァートの足が止まった。
「いや、その……」
と、どうにも煮え切らない様子である。
「あ、もしかして緊張してる?」
誤魔化しても仕方ないので、ヴァートは素直に頷いた。
「ふふっ、随分男らしくなったのに、かわいいところあるんだね」
悪戯っぽく笑うファイナに、ヴァートはなんともばつが悪い思いだ。
「さて、あたしはそろそろ戻るね。感動の再会に水を差しちゃ悪いし、仕事もあるしね」
「仕事?」
「あたし、今もおじいちゃんのところで働いてるの」
ファイナは現在医師見習いとして、ホプキンズから医術の手ほどきをうけているという。
「怪我や病気したらあたしが診察してあげるから、いつでも来てね」
手を振りながら、ファイナは小走りで去って行った。
「さて……俺もそろそ……いや、もう少し様子を見よう」
心の準備が整うまで、まだ時間がかかりそうだった。
敷地の中からは、剣が振るわれる音が聞こえる。誰かが稽古をしているのだろうか。
ヴァートは、建物を囲う古い石塀の一角に、穴があるのを見つけた。そこから、恐る恐る中を覗きこんでみる。
桜蓮荘の中庭では、二人の女性が相対していた。
一人は、美しい金色の巻き毛の女性だった。身長は女性にしては高く、ヴァートと同じくらいあるだろう。長大な両手大剣を模した木剣を手にしている。
一人は、赤毛を短く切り落とした女性。身長はかなり小さく、十代半ばの少女にも見える。こちらは、得物を持たず無手であるが、両の拳にぐるぐると布を巻きつけている。
「乱取りをするのか……?」
変わった光景だった。
まず、女性が両手大剣を使うのは珍しい。シーラントには武術を学ぶ女性は多い。しかし、腕力で男性に劣る女性は、速度と手数で勝負できる軽めの得物を選ぶことが多いのだ。
そして、もう一人。なぜ、得物を持たないのか。シーラントには武術の流派が星の数ほどあるが、徒手空拳を旨とする武術はごく少ない。
そんな奇妙な取り合わせの二人を見守る人物がさらに二人いた。ヴァートに対して背中を向ける格好になるため、顔かたちはわからない。
一人は、紺の侍女服に身を包んだ、ほっそりとした女性だ。頭には、侍女服と対となるブリムが乗っている。
そして、もう一人。長身で、黒髪の女性――見間違えるはずもない。マーシャだ。
「さ、ミネルヴァ様、どこからでも参られよ」
小柄な女性が構えた。両足を広く開き、半身はんみで立つ。両手を軽く挙げ、顔の前あたりで拳を握った。
「よろしくお願いしますわ、アイさん」
ミネルヴァと呼ばれた女性は、大剣の剣身を肩に担ぐように構える。
「始め!」
マーシャの合図。
先に動いたのはミネルヴァであった。一気に間合いを詰めると、肩を支点にして一気に大剣を振り下ろす。
ヴァートが思わず瞠目するほど、鋭い一撃だった。それに比べれば、先ほどヴァートが戦ったごろつきの攻撃など児戯にも等しい。
「なんの!」
しかし、アイと呼ばれた女性はその凄まじい斬撃を紙一重で避けた。そして地面を蹴ると、ミネルヴァの懐に迫った。
これまた速い。ヴァートが速いと感じたミネルヴァよりも、さらに数段速い。
重い大剣を振り下ろしたことで、ミネルヴァの重心は前方に流れてしまっている。体勢が崩れては、懐を取ろうとするアイに対しなす術なし――ヴァートの判断は、誤りだった。
「せいッ!」
ミネルヴァは、振り下ろした大剣の勢いをそのままに、軸足を中心に回転。そのまま横薙ぎへと攻撃を繋げたのである。
一見すると剣の重みに振り回されているように見える。しかし、ミネルヴァは重心の移動を巧みに利用し、重い大剣での連続攻撃を実現させているのだ。
アイは、身を沈め横薙ぎを回避する。そこへ、さらにミネルヴァの斬り下ろしが迫った。
今度はアイが絶体絶命――そう思ったヴァートだが、勝負はまだつかなかった。
なんとアイは、右拳でもって肩口に迫る剣身を横合いから殴りつけ、斬撃の軌道を強引に変えたのだ。
「はぁッ!」
拳を振りぬいた勢いで踏み込んだ右足で、アイは跳躍。後ろ回し蹴りを放つ。ミネルヴァは身を反らしてこれを避ける。蹴りがかすめたミネルヴァの頭髪が数本切断された。
ミネルヴァは剣から片手を離し、アイに向けて掌打を放った。自ら位置を変えられぬ宙空にいる間は、人は無防備となる。
今度こそ勝負あり――しかしヴァートの予想は、三たび外れることになった。
アイは宙空でミネルヴァの掌打を受け止めると、その力を利用して空中で姿勢を制御し、下からミネルヴァの顎を蹴り上げたのだ。
顎の先端を正確に捉えた蹴りは、ミネルヴァの脳を強かに揺らす。
「くっ……!」
そうなると、もはやまともに立っていることはできない。片膝をついたミネルヴァの眼前に、アイの拳が突きつけられた。
「勝負あり」
マーシャが宣言した。
ヴァートは思わず大きく息を吐く。わずか数合の立会いだったが、その間に勝負が二転三転する、まさに息詰まる戦いだったのだ。
と、それまで控えていた侍女服姿の女性がミネルヴァに駆け寄って、肩を貸そうとする。
「パメラ、大丈夫。自分で立てますわ」
ミネルヴァは剣を支えに立ち上がると、アイに一礼した。
「ありがとうございました。今日こそはアイさんから一本取れると思ったのですけど」
「
アイは八重歯を見せて笑う。
「ミネルヴァ様、いい勝負でしたよ。しかし、詰めが甘い」
と言ったのはマーシャである。
「相手が不用意に跳躍したときは、確かに好機ではあります。しかし、アイほどの遣い手を相手取るなら、あからさまな隙は罠と思わねばならない」
しかし、鍛えこまれた武術家ほど、相手に隙を見せられた場合反射的に身体が動いてしまうものだ。相手をしっかりと観察し、それが罠なのかそれとも本当の好機なのか、瞬時に判断する。一定以上の腕前を持つ相手と戦うときは、この判断力が勝負を分ける。そうマーシャは講釈した。
「では、今日はここまで。それから――」
突如、マーシャは振り向くと、塀に開いた穴に視線を向ける。
「そこの人、いつまで見ているつもりかな。用があるなら遠慮なく入って来るといい」
マーシャはここまでヴァートのほうを一度も見ていない。ヴァートも、物音は全く立てていないつもりだった。しかしその気配は、ずっと前からマーシャに察知されていたようだ。
ここへ至っては仕方がない。ヴァートは心を決めると、正門を潜った。
「お久しぶりです、先生」
片膝をつき、深く一礼する。
恐る恐る顔を上げる。と、みるみるマーシャの顔に喜色が浮かんだ。
「ヴァート! ヴァートではないか!」
顔立ちも体格も随分変わったはずだ。それなのに、マーシャは一目で自分を自分だと気付いてくれた。ヴァートにとって、それがたまらなく嬉しかった。
「大きくなったな」
マーシャが、ヴァートを優しく抱擁した。ヴァートの両目に、熱いものがこみ上げる。
「先生……俺……ただ今、戻りました」
マーシャは抱擁を解き、ヴァートの全身をまじまじと見つめた。
「うむ。よく鍛えたな。それに――自分のことを『俺』、だなんて、あのヴァートがずいぶん骨っぽくなったものだ」
マーシャの目は、わが子の成長を喜ぶ母親のそれであった。途端に気恥ずかしくなったヴァートは、赤面して顔を背けてしまう。
「それにしても、手紙の一つも寄越さず突然帰って来るとは」
「いやあ、先生を驚かせようと思って」
「馬鹿者、生意気なことを」
マーシャがヴァートの頭を小突く。
「ハミルトン殿のお許しは得たのだろうな」
「はい。これを」
ヴァートは、荷物の中から一通の手紙を取り出した。
『まず、それなりのものにはなっただろう。あとはそちらで経験を積ませるがいい』
とだけ書かれた、ハミルトンらしい実に簡潔な手紙である。マーシャはうむ、と一つ頷く。
「それで先生、その殿方はどちら様でいらっしゃいますの?」
先ほど乱取りをしていたうちのひとり、ミネルヴァが尋ねてきた。対戦者であったアイも、興味津々といった表情だ。
「ああ、すまない。遠くに出ていた息子が、久しぶりに戻って来たのだよ」
「息子!? 先生、それはいったいどういう――」
ミネルヴァが、目を白黒させる。
「いえ、俺は四年ほど前、先生に拾われてお世話になってたんです。名は、ヴァート・フェイロンといいます」
「なんだ、そうでしたの。よく考えれば、先生の年齢でこんな大きなお子がいらっしゃるわけがありませんものね」
ミネルヴァはヴァートに向き直ると、優雅なしぐさで一礼。
「私は、エージル公爵ギルバート・フォーサイスが娘、ミネルヴァ・フォーサイスと申します。ゆえあって、ここへ寄宿させていただいております。以後、よしなに」
実に折り目正しい挨拶であった。
手入れの行き届いた金髪に、宝石のように輝く碧眼。公爵家の娘だけあって、無骨な剣術稽古用の服装であっても、内側から滲み出る気品は隠せない。
貴族というものを初めて目にするヴァートは思わず恐縮してしまって、
「よ、よろしくお願いします、フォーサイス様」
と、しどろもどろになってしまう。
「そのような呼ばれ方はこそばゆいですわ。この桜蓮荘にいる間は私の生まれなど気にしないでいただきたいのです。どうぞ気軽に、ミネルヴァとお呼びください」
「わかりました、ではミネルヴァさんと」
そのとき、ヴァートはミネルヴァの右頬に刀痕が残されているのに気が付いた。随分前のものだが、見たところかなり深い傷だったようだ。
剣術を学んでいるのだから、稽古中何かのはずみで生傷を作ることは避けられない。実際ヴァートも顔にこそ大きな傷はないものの、身体には無数の傷跡が刻まれている。
しかし、貴族令嬢で、まるで人形のように整ったミネルヴァの頬にある生々しい傷跡は、いかにも場違いであるようにヴァートには感じられた。
「……この傷が気になりますの?」
「あ、その、すみません」
いくら武術家であっても、うら若き女性が顔の傷を気にしないはずはない。ヴァートは慌てて謝罪した。
「まあ、大したことじゃありませんわ。それと――初対面の女性の顔をじろじろ見るなんて、マナー違反ですわよ」
と、ミネルヴァは笑った。
あとで聞いたことだが――ミネルヴァの生家、エージル公フォーサイス家はシーラント有数の大貴族である。
シーラントでも特に武勇を尊ぶ気風の強い家で育ったため、ミネルヴァも幼い頃から武術を学んできた。さらなる上達を目指したミネルヴァは、二年ほど前からマーシャに師事するようになった。そして、いちいち通うのも大儀だと、一年ほど前からこの桜蓮荘で住み暮らすようになったのだとか。
歳は今年二十になるというから、推定で十六から十八あたりだと思われるヴァートより、二つか三つは年上ということになる。
ちなみに、フォーサイス家とマーシャの生家であるグレンヴィル家は昔から主従に近い間柄にあり、マーシャとミネルヴァがが知り合ったのもその縁からである。
「某は、アイニッキ・ウェンライトと申しまする。某のことも、お気軽にアイとお呼びになるがよろしい」
次に、アイが自己紹介した。
前述したように、十代の少女にも見える体格であるが、彼女はそれでいてミネルヴァより一つ年上だ。
目はくりっとしていて愛嬌があり、顔立ちもとても二十一には見えぬ。
その言葉遣いがどこか時代がかっていて慇懃に聞こえるのは、彼女が異国育ちであり、時おり異国の言葉の文法が混じるからである。
アイは、大陸にあるゲトナーという国で生を受けた。彼女は生まれて間もないころ起こった戦争により孤児となったが、修行の旅をしていたシーラント出身の武術家、ケヴィン・ウェンライトなる人物に拾われた。彼は、オネガ流というシーラントでも珍しい徒手空拳の武術の達人であり、アイはオネガ流を習いながら育ったのだとか。
師ケヴィンが病死し、遺髪の埋葬のためシーラントへ渡ったアイは、そこでマーシャと知り合い、桜蓮荘で暮らすことになった。
「某も、マーシャ先生のご厄介になっている身にござる。よろしくお願いいたしますぞ」
と、アイが右手を差し出す。
ヴァートが握ったアイの掌は硬く引き締まっており、厳しい修練の跡が覗われた。
「さあ、パメラもご挨拶なさい」
ミネルヴァに促され進み出たのは、侍女服姿の女性である。
濃い茶色の髪を三つ編みにしており、前髪は目元を隠すように長く垂れている。
「パメラ・オクリーブにございます。ミネルヴァお嬢様の身の回りのお世話をさせていただいております」
パメラは、スカートを軽く摘み上げ一礼した。声には抑揚が少なく、表情もほとんど動かさぬ。
「それでパメラ、申し訳ないのだが一つ頼まれてくれるか」
「なんなりとお申し付けを、グレンヴィル様」
「ありがとう。実は、二階の一番東の空き部屋を片付けて欲しいのだ。ヴァートが寝泊りする場所がないのでな」
「承知いたしました。では今すぐに」
パメラは踵を返し、桜蓮荘の玄関に向かう。
「あ、あの、ありがとうございます!」
ヴァートの謝辞にも、パメラは軽く振り返って小さく礼をするのみであった。何か気に触ることでもしてしまっただろうか、とヴァートが心配したのも無理からぬことだ。
「気にするな。ミネルヴァ様以外の者に対しては、いつもああなのだよ」
「まったく、愛想のない娘で申し訳ありませんわね。怒ったりへそを曲げているわけではありませんのよ」
ミネルヴァも困り顔である。
「さて、ヴァートよ。長旅で疲れたろう。まずは身体を休めよ――と言いたいところだが」
マーシャは木剣をヴァートに渡す。
「ひとつ、修行の成果を見せてもらおうか」
と、自らも剣を手にした。
ヴァートは、ごくりと喉を鳴らす。マーシャに成長した姿を見せる機会が早くも訪れたのだ。思わず、身体に力が入る。
「さあ、構えよ」
ヴァートは、中段に構える。
途端に、マーシャの身体から殺気が噴き出した。三年前のあの日と、全く同じであった。
「くっ……!」
ヴァートの身体が硬直する。しかし、それは一瞬のことだ。鼻から大きく息を吸い込み、下腹に力を入れる。
刺すようなマーシャの視線を受け止め、押し返すようにねめつけ返す。
恐怖感を完全に消すことはできない。しかし――
――こころは流れる水のようなもの。流れを自ら望む方向に制御し、操る術を身に付けよ。さすれば、負の感情さえもお前の力となろう。
ハミルトン師の言葉を思い出す。
マーシャから叩きつけられる奔流のような殺気。正面からぶつかれば、こころが打ち砕かれる。しかし、受け流しその方向を変えることならできるはず。
マーシャが剣をすっと上段に構える。ヴァートは、剣先を下げた。
「ほう、あの中で動けるとはなかなか……」
二人を見守っていたアイが、顎を撫でながら呟く。
「私も、
ミネルヴァも、感嘆を隠せずにいた。
「ふむ。この三年間、無為には過ごさなかったようだな」
マーシャの口元に、微笑が浮かんだ。
「そりゃあ、あのハミルトン師匠にしごかれましたから」
マーシャは、満足げに頷く。
と、マーシャの身体が陽炎のようにゆらめいた。目の錯覚であろうが、ヴァートにはそう見えた。直後、ヴァートの視界からマーシャの姿は掻き消えた。
(来る! 右――いや違う、左だ!)
マーシャは右に動いた。視覚はたしかにそう告げている。しかし、それが高度な
とっさに剣で左を庇う。
二人の剣がかち合う音が響いた。
マーシャの剣を、ヴァートはすんでのところで受け止めていた。
「うむ。今日のところは合格としておこう」
鍔競り合いの状態から、マーシャは剣を引いた。ヴァートの全身からどっと力が抜ける。
「にしても先生、久しぶりに再会した息子に対し、随分手荒な歓迎をなさる」
「アイよ、ヴァートにはなすべきことがあるのだよ。そのためには、この程度で音を上げられては困る」
「なすべきこと……?」
ミネルヴァが怪訝そうな表情を見せる。ヴァートは初対面の人たちに話していいものなのか迷う。ちらりとマーシャの顔を覗った。
「この二人――パメラもだが、彼女らは信頼に足る人物であり、今では私の家族も同然だ。お前の秘密を他者に漏らすことはない。しかし――その話はまた今度にしよう。今日はお前が帰ってきた祝いをしなければならないからな」
ヴァートの過去は、決して明るいと言えるものではない。これから祝いをするというときに適切な話題でもないだろう。
「ヴァート、腹が減っているのではないか?」
「はい、とても」
日は既に低く、西の空は紅く染まりつつあった。荷馬車の農夫に芋を蒸かしたのを分けてもらって食べたきり、ヴァートは腹には何も入れていなかった。
「今日は外で食べるとしよう。皆も来るといい」
「先生、もしや奢りでござるか」
マーシャが頷くと、アイは手を打って歓声をあげた。
「ヴァート、済まないがパメラを呼んで来てくれ。彼女のことだ、部屋の掃除も既に終わっていよう」
パメラが掃除に向かってから、まだいくらも時間は経っていない。そんなに早く掃除が終わるものなのだろうか。マーシャの言葉に疑問を覚えつつも、ヴァートは教えられたとおり二階の一番東にある部屋に向かう。
部屋は既に隅から隅まで塵一つ残さず清められており、備え付けのベッドには清潔な敷布が一つの皺もなく敷かれていた。
「すげえな……でも、パメラさんは?」
部屋に、パメラの姿はない。ヴァートは窓を開け、中庭のマーシャに問いかける。
「先生、パメラさんがいないんですけど」
「ああ、それなら自分の部屋に戻ったのではないか。彼女の部屋は、私の部屋の三つ右だ」
「わかりました」
三階に上がったヴァートは、かつて自分がそこで住み暮らしていたことに感慨深いものを感じながら、パメラの部屋に向かう。
「すみません、パメラさん――」
ヴァートは、何も考えずノックもなしにパメラの部屋に足を踏み入れた。
「――ッ!?」
ヴァートの目に飛び込んできたのは、肌色。しかし、ヴァートが認識したのはそれだけだった。なぜなら、その
「痛つうっ……!?」
「動くな」
背後から押し殺した声が聞こえ、同時にヴァートは自らの首筋に冷たいものが押し当てられていることに気付いた。
「何用ですか」
目はいまだ開くことができないが――ヴァートは背後に回りこんだパメラが、自分の首筋に刃物のようなものを突きつけているらしい、ということはわかった。
「いや……先生が、パメラさんを呼んで来いって……」
「用件は承りました。それで――なぜノックもせずに部屋に立ち入ったのですか」
ハミルトン道場に暮らして三年数ヶ月、周りは荒々しい男だけの生活であった。寝泊りするのも相部屋であり、私的空間というものが存在しない環境で暮らしていたため、ヴァートの頭からはノックという概念自体が抜け落ちていたのだ。
「えっと、その……」
しかし、それを一から説明する余裕はヴァートにはなかった。
「もしや、婦女子の着替えを覗くような趣味をお持ちで?」
「と、とんでもない!」
なるほど、ヴァートがパメラを肌色の何かと認識したのは、彼女が着替えの途中だったからなのだ。部屋の掃除で着衣が汚れたのだろうか。
「まあ、いいでしょう。今回は、ノックもせずに入って来ることを想定しなかった私の油断もあります」
パメラは刃を突きつけたまま、ヴァートの肩をつかんで後ろを向かせる。
「目を閉じたまま部屋を出てください。こちらを見ようとは、ゆめゆめ思わないように」
相変わらず声に抑揚は乏しい。しかし、パメラから発せられている殺気は本物であった。
「は、はい! すんません!」
ヴァートは急いで部屋を出ると、背中でドアを閉めた。
「それから」
ドア越しに、パメラの声が響く。
「もし、お嬢様に対し同じような行為を働いたら――命はないと思ってください」
凍てつくような声音には、パメラの本気が伝わる凄みがあった。
「わかりました! 肝に銘じます!」
ヴァートは慌ててその場から逃げ出すのだった。
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