episode14 青春とは傷を負うて鈍く光るもの(参)
裏庭に出たタイラは、また煙草を口にくわえる。麗美はそれを見て、「吸いすぎじゃない?」と控えめに忠告した。「肺ガンになるよ」と宝木が、まるでそれを望むように目を輝かせて言う。
そんな3人のもとに、男子生徒が1人歩いてきた。その顔は怒りと羞恥で染まっている様子だった。「なんで来ちゃったかな」と宝木が笑う。それは、長谷川と言う少年だった。
「あんたたちのせいで」
子どもって苦手だなぁ、と宝木は呟く。「お前は罪を問えない人種は大抵嫌いだな」とタイラは肩をすくめた。麗美はどうでもよさそうに目を細める。
「どうする? なんだか反省してないみたいだし、私があの子のやったことを記事にでもするか、宝木警部補から厳重注意以上に注意してもらうか、タイラが樹海に埋めるかどれかにしましょうよ」
「うーん、ぼくは個人的に瀬戸ちゃんの記事が1番いやかな」
「俺も、お前に記事を書かれるなら樹海に埋まった方がマシだと感じる」
「そう? じゃあ、久々に筆を執ろうかな」
腕が鳴るぅ、とにやにや笑って、麗美は長谷川を見た。長谷川少年が怒りに震えながら、「あんたら何なんだよ」と吠える。卒業生だよ、とタイラがあっさり言ってのけた。
ただ黙って睨む長谷川少年の背中から、人影が現れる。あら、と麗美が口を押さえた。肩を掴まれた長谷川少年は、驚いて目を見開く。そのまま押し倒され、人影が長谷川少年に馬乗りになった。
スズキノゾム、とタイラが意外そうに呟く。
ノゾムは長谷川少年に馬乗りになったまま、そのまま殴り始めた。何度も、何度も殴る。長谷川少年が半泣きで「やめてください」と言っても殴った。血が飛んでも、ノゾムは必死な顔で殴り続ける。
不意にタイラが、宝木に言った。「あのガキ貰っていいか」と。
「あのガキってどっち? 殴ってる方? 殴られてる方?」
「殴ってる方だ」
「そうだろうねえ。ぼくは別にいいよ、爆弾なんかないし。花火だったんでしょう? ぼくはあの子に何の興味もないなぁ」
「後でメシ奢るよ」
「スイパラ行きたいや」
タイラはゆっくりと歩いていき、殴り続けるノゾムの腕を止めた。ノゾムは、振り返ってタイラを睨む。
「何すか」
「それ以上殴ると死ぬかもしれないぞ」
だから? とノゾムは言った。「別に? 教えてやっただけだ。後で知らなかったと泣かれても困るからな」とだけ言って、タイラがノゾムの腕を離す。ノゾムは少し黙って「色々考えたんですけど」とため息まじりに長谷川少年をじっと見た。
「こいつのことは殺しておこうと思ったんですよ」
「へえ?」
「だってこいつ、素直に反省するタマじゃないし。じゃあこれからも同じ事するかもしれないし、そのまま社会に出ると思うと吐き気がするじゃないすか」
「で、そいつと同じところに堕ちてまで未来の被害者を守ろうってのか。さすが正義の者は違うなぁ」
じゃあ殺せよ、とタイラは言う。簡単に言う。まるで蚊でも潰すよう促すみたいに。ノゾムは一瞬目を丸くして、うろたえた。長谷川少年をじっと見つめ、「死にたい?」と問う。長谷川少年は泣きながら、首を横に振った。
「でもさ、シュンも死にたくなかったと思うんだよ……。だから長谷川がさ、死にたくないって言ったから殴るのやめるのって、シュンに悪いっていうか。平等じゃなさすぎてさ、なんかもう頭ぐちゃぐちゃだよ」
そう困ったように言って、ノゾムは頭を抱える。「でもオレ、人を殺すのもヤなんだよ。シュンのためにできることなんてこれぐらいしかないのに」と、ぶつぶつ言った。それを聞いたタイラが、思わずという風に笑う。無邪気に、ただ明け透けに。そして言った。「俺が殺してやろうか?」と。
「え?」
「お前が人殺しできないけどそいつ殺したいって言うなら、俺がやってやるよ」
静かに近づいて行って、タイラは長谷川少年の髪の毛を掴む。それを強引に引っ張るタイラを見て、ノゾムは思わず長谷川少年から飛びのいた。タイラはずるずると長谷川少年を引きずり、池の前まで歩く。そして、一瞬ノゾムを振り向きニコッと笑った。次の瞬間には長谷川少年の頭を、池の中に突っ込んでいた。長谷川少年がありったけの力をもってして暴れる。しかしタイラの力は緩まない。ただ、ノゾムを見て笑っている。
口を半開きにして、ノゾムはそれを見ていた。目の前で憎たらしいいじめっ子が、別の悪人に殺され行くのを。力が抜けて行き、段々と動かなくなる級友を。ノゾムは、思わず空を見て、陽の眩しさに目をつむり――――そして、足を引きずりながらタイラにつかみかかった。
「やめろよ! なんなんだよ、あんた。意味わかんねーよ! 人を殺していいわけないだろ!」
へえ、と言いながらタイラは長谷川少年を引き上げる。少年は何度かむせて、泣きながら逃げようとした。それを踏みつけて止めながら、「殺したいんじゃないのか?」とタイラはノゾムに問う。ノゾムは言葉を失ったようにただじっとタイラを見て、一度だけ瞬きをした。
「でも、そいつだけを殺すのは平等じゃないし」
「『こいつのことは殺そうと思った』とお前は言った」
なあ、とタイラは試すようにノゾムを見る。「素直に行こうぜ」と。
「お前は人が死ぬところを見たくないだけだろう。“シュンのためにできること”? 違うね。お前は、自分の気が済まないからこいつを殴っただけだ。一瞬の気の迷いでこいつを殺せるかもしれないと気が昂っただけだ。その程度の自己満足が、人の死ぬところを目の当たりにする覚悟になると思ったか。お前はお前のためにこいつを殴った。でも、それだけの気持ちじゃ人は殺せない。人が殺されるところにも立ちあえやしない」
拳を握りしめたノゾムが、「オレは」と何か言いかける。しかし言葉は続かないまま、宙をさまようばかりだった。違うというのなら、とタイラは言う。
「馬場瞬のためにこいつを殺してみろ。もしくはこいつが死ぬのを容認してみろ。見殺しにしろ、いや、俺にこいつを殺せと言ってみろ」
黙ってしまったノゾムを見て、「できないだろう」とタイラは首をかしげた。
「お前はわかっている。重要なことを、それなりにきちんと理解している。言ってみろ。お前が、馬場瞬のためにできることはなんだ? お前の自己満足でなく、お前の怒りの言い訳でもなく、憂鬱のとばっちりでもなく、死んだ馬場俊のために何ができる。何をする」
ノゾムはうつむいて、唇を強く噛む。
「ないよ」と答えた。
それはあまりに悲しい敗北宣言で、声が震えるのをどうしたって止められない。
「シュンのためにできることなんて何もないよ。シュンは死んでるんだから」
柔らかく笑ったタイラが、「そうだ」と肯定する。「死人のために、と口にするのは傲慢以外の何物でもない。二度と口にするな」ときっぱり言った。それから、まだ泣いている長谷川少年にちらりと視線をやる。
「もしかしたらこの長谷川っていう生徒は死ぬべきかもしれない。でもそれを判断するのは誰だ? 少なくともお前じゃないはずだ。お前はこいつにイジメられた馬場瞬ではない。それを理解した上でお前がお前の都合により、もしくはお前の感情や欲求に正直になって、こいつを殺そうというのなら俺は止めない。止める義理がないからな。でもお前は、『人を殺すのは嫌だ』と言った。それならやめておけ。無意味に過ぎる」
堪えるようにうつむいたノゾムを見ながら、タイラは長谷川少年の背中を蹴飛ばして解放した。長谷川少年が、悲鳴をあげながら逃げていく。それを、「やれやれ」という顔で宝木と麗美が追いかけた。「まったく、フォローするこちらの身にもなってほしい」とタイラに抗議しながら。
「騒ぐと記事を書くぞ、と脅しに行くのがフォローか?」
「まさか。騒いだって別にいいんだよ、少年暴行の罪は重いぞお、タイラ」
「でもそれであのイジメっ子が被害者面し始めるのも癪じゃない」
怖い大人に目をつけられたもんだ、と白々しく言いながらタイラはノゾムの前で屈む。「何すか」とたじろぐノゾムの、足首を見た。「無理して歩くから腫れてるぞ」と笑って言う。
「家まで送ってやる」
「は? いいっす、いらない。てかあんたに家を知られるのが純粋に怖い」
「賢明だな」
快活に笑って、タイラは無理やりノゾムを肩に担ぐ。「いらないってええ!」と喚くノゾムに、「家を教えられないってんなら仕方ねえ」とタイラが勝手に納得して歩き始めた。
「回復ポイントは宿場と決まっているからな」
「は? え、この人RPG時空の人?」
暴れるノゾムをものともせず、タイラは歩いていく。
長谷川少年を捕まえた宝木と麗美が、その様子をぼんやり見ていた。
「いいの? 警部補さま」
「よくないよねえ。罪には罰が鉄則だもの。でもぼくは冤罪が怖いから」
「その目で見ていて冤罪も何もないでしょうよ。暴行に誘拐、現行犯逮捕よ」
「んん? タイラのこと言ってる? あの須々希って子のことかと」
そうだねえ、と少し考えるようなそぶりを見せて、宝木は不意に笑う。「よくない」ときっぱり言った後で、細い目を開いた。
「それでもタイラは、絞首台に上ることすら許されないだろう。あの強さを買っている連中がいる限り、あれは望まれて生きる凶器だ」
「……救えない」
目を細めて、「えへへ」と宝木は笑う。「そんな救えない男を追いかけてるような女を、ぼくは生涯追いかけ続けなきゃならないんだなぁ」と、柔らかく言って麗美を見た。麗美は少し肩をすくめて、「会長の好きな人って、タイラに気があるの? 趣味悪いわね」と言ってみせる。ほんとにね、と言って宝木は苦笑した。
「趣味の悪さだけ、どうにかなってくれればなぁ」
☮☮☮
ノゾムを担ぎながら酒場の戸を開けたタイラは、「帰ったぞ」と真顔で声をかける。カウンターの向こうから「なんで?」とカツトシが返事をした。それを無視して、タイラは窓際のソファにノゾムを下ろす。
「つーかそれ誰よ」と言いながらユメノが近づいてきた。「ここどこっすか」と、ノゾムは辺りをきょろきょろと見る。「お客さんですか?」と言って、ユウキが水を運んできた。
「カツトシ、こいつになんか……オムライスでも出してやれ」
「なんでオムライスなんすか!」
「子どもは好きだろ。カレーの方がよかったか?」
「馬鹿にしてらっしゃいますよねあんた」
はいはい、と言いながらタイラはどこからか救急箱を持ってくる。ノゾムの足首を見て、手際よくテープを巻いて固定し始めた。「足が攣ったようなもんだったのに無理して動かしたから腫れたんだぞ、大人しくしてろ」と言って最後にポンとノゾムの膝を叩く。そして、一切の説明もなくまた外に出て行った。
ポカンとしているノゾムの前に、カツトシがオムライスを出す。
「はい、お待たせ」
あの、と口を開いたノゾムも、何を言っていいかわからない様子で唇をなめた。「名前」とユメノが仏頂面で言う。
「あんた名前なんてゆーの。あたしユメノ」
横でじっとノゾムを見ていた少年が「ぼくはユウキです」と自己紹介した。オムライスを運んできた青年は「カツトシよ、愛染勝利。アイちゃんって呼んでね」とウインクして見せる。はあ、と言いながらノゾムは頭を下げた。
「スズキノゾムと申します……」
それで? と興味津々にユメノが顔を寄せる。「タイラとはどこで会ったわけ?」と楽しそうに尋ねた。ノゾムは頭をかきながら、「それがなんか、よくわかんないんすけど」と口を開く。出来たてのオムライスが、温かく香った。
☮☮☮
少しやつれた様子の馬場瞬の母は、それでも柔らかな笑顔でノゾムを迎える。ノゾムは居間にあるシュンの遺影の前に座った。
「ノゾムくん、梨好き?」
「あ、お構いなく」
そう断ったはずが、シュンの母は綺麗に剥いた梨を持ってくる。「ありがとうございます」とぽそぽそ喋りながら、ノゾムはそれを口に運んだ。沈黙が痛くて、ノゾムは思わず「公表することにしたんですね」と言葉を紡ぐ。そうねえ、とシュンの母が目を細めた。
「学校が、いきなり『シュンくんはイジメを受けていたようです』なんて言ってきたときにはびっくりしたわ。こっちはそんなこと、2年前に散々訴えていたのに。今さら……。お父さんなんて怒って危うく乱闘騒ぎだったんだから。……たくさん色んなことを考えたわ。シュンのことを思えば、私たち家族のことを思えば、もう放っておいてほしかった。でも、」
ぼんやりとシュンの写真を見て、彼女は穏やかに微笑む。「きっと今も、シュンのように苦しんでいる子がたくさんいて、その子たちのために公表するのは無意味なことじゃないって考えることにしたの」と、小雨が降るような優しい声で言った。
あれから2年。いくつも夜をこえてきた人の、星を指すような言葉に聞こえた。
不意に苦笑して、「でもごめんなさいね」と彼女は言う。
「学校があんな状況じゃ、勉強もままならないでしょう」
学校が事実を公表してから、何度も会見を開いて、毎日マスコミが学校に来て生徒にまで話を聞いていた。それでも生徒たちは、面白半分かもしれないけれど、『これで学校捨てるのはダサい』とまだ音を上げた者はいない。
「オレはもう、卒業するんで」とノゾムが言えば、シュンの母は驚いたように目を丸くした。「もう卒業なのね」と言って、微かに握りしめた拳に力を入れる。「ダメよ、ちゃんと卒業しなきゃ」と。ノゾムは静かにうなづいた。
あのね、とシュンの母が意を決したように口を開く。
「ずっと聞きたかったの。ノゾムくん、あなたが進学しなかったのは、シュンのせいなの?」
反射的にノゾムは「違うよ、おばさん」と答えていた。ぎゅっと目をつむって、そして開いた。最初に飛び込んできたのはシュンの遺影。はにかむような笑顔で、ノゾムを見ていた。あの写真は、たぶん中学の修学旅行で撮った写真だ。彼の笑顔はそこまで遡らなければ見つからなかったのだろうかと思い、そして拳を握る。
「違うんだよ、おばさん。オレが、オレの勝手で、大学なんて行く意味がないって、行かないって決めたんです。学校行かなかったのもオレがあいつらと生きてく自信なかったからだし、うちの親父はそういうのちゃんとわかってたから、呆れて置いて行ったし。なんかもう、めちゃくちゃ自業自得なんですよ。でも……」
ノゾムは膝を立てて、シュンの顔をよく見た。
こんな顔してたっけ、あいつ。まだ2年なのに、もう2年だ。
「おばさん、オレこれから、サイテーに自分勝手なことシュンに言っていい?」
シュンの母は肩をすくめて、「母親としては息子を守りたいところだけど、おばさんに止める権利はないものね」と笑う。
ノゾムは息を吸い、そしてうつむいた。静かに、吐き出すように、「お前が死ぬのも悪いんだぞ」と呟く。
「なんで死んじゃうんだよ、死んだらお前のために何かしようとしても自分勝手にしかなんないじゃん。自己満足やりたいわけじゃないんだよ」
ごめん、シュン、ごめん。お前が死んでからやっと、何かしてやろうと思うような馬鹿でごめん。
「死ぬ前にどうして欲しいか言ってくれよ。そんなに信用なかったかよ」
オレがもうちょっと頼りがいのあるやつだったら。
「友達じゃなかったのかよ」
辛いのをわかっていて見殺すようなやつを、誰が友達と呼べるだろう。
全部理由がついているような文句を、今さら吐き出さなければならなかった。そうして一つ一つ、楔を打っていかなければならなかった。自分で逃げ道をふさいでいくような感覚を覚えながら、それでも縋るようにシュンへ言わなければならなかった。
ノゾムは不器用に腕で涙を拭いながら、「だから」と言ってシュンの笑顔を睨む。
「今日はオレは、お前とまた友達になりに来たんだ。お前はもうオレのこと友達だと思わないだろうけど、オレはお前のこと、勝手に友達だと思うから。一生友達だと思ってるから」
文句があるなら生き返って言えって言ってんだよ、と吐き捨てて、ノゾムはまた涙を拭った。それからシュンの母に「すみませんでした! 梨ごちそうさまでした!」と言って踵を返す。呆気にとられたシュンの母が、それでも「ノゾムくん」と声をかけた。ノゾムは振り返り、言葉を待つ。
「来てくれてありがとう。体に気をつけて。また、いつでも来てね」と、彼女は言った。声が震えていた。ノゾムはその顔を見ないようにうつむいて、「おばさん、おじさんも、体に気をつけて」と言って玄関のドアを開けた。
よく知った道を、泣きながら走る。初めてシュンの家に行った日のことを思い出した。片親のノゾムに、シュンの父も母も優しくしてくれたっけ。その日の夕飯は、シュン曰く『非常に奮発したすき焼き鍋』だった。シュンの母はおおらかで穏やかで、シュンにそっくりだったと記憶している。そうだ、今もその印象は変わらない。よく似た親子だ。雨に打たれて耐えながら笑う強さを持った、ささやかだが綺麗な花だ。
目の周りを拳で拭いながら歩いていると、拍子に何かぶつかった。それが人であることは明白だったので、ノゾムは「すみません」と頭を下げながら避けようとする。
「おい、スズキノゾム」
ぶつかった人物にそう声をかけられた。驚いて顔を上げると、相手も驚いたようにこちらを見ている。
「タイラ……さん?」
肩をすくめて、タイラは「なんつう顔をしている」などと眉をひそめた。別に、と答えたその声が震える。
「別に。死んだやつに自分勝手なこと言ってきたんです」
「……馬場瞬か? 余計なお世話だろうが、馬場瞬の家族は生きているんだろうからあまりお前の勝手に付き合わせるなよ」
「余計なお世話っす」
ついでに、痛いところを突かないでほしい。というか、この男にそのような正論を言われたくはない。
ノゾムはふんと鼻を鳴らして、「あんたに会ったら聞きたかったことがあるんですけど」と言ってやる。タイラは眉を上げるだけで促した。
「あの家、家賃は?」
「宿場のことか? 知らねえな、家主さまに聞け」
「あんたが家主じゃないんすか」
「俺は飼われてるだけだ」
何を言っているかわからない、と言う顔でノゾムは一瞬きょとんとする。しかしすぐに気を取り直して、「自分、あそこに住みたいんですけど」と言い切った。今度はタイラの方が、『何を言っているかわからない』と言う顔をする。
「住みます、あそこに」
「お前……ホームがレスしていたとしてもあそこに住むのは考えた方がいいと俺は言うぞ」
「そんな権利なくないですか、家主じゃないらしいし」
「だから『考えた方がいい』程度の警告をしている。治安が日本最低値だぞあの辺は」
しかし表情を変えず、ノゾムが「住みます」と言い切った。タイラはあきれ果てながらも、「好きにしろ」と笑う。しばらく無言で歩いていたが、やがてタイラが口を開いた。
「それでもまあ、理由くらいは聞いておこうか。なぜあんな場所に住みたがる」
「あんたの近くだから」
「俺の?」
ノゾムは立ち止まり、すかした表情でタイラを見る。「オレ、あんたのこと倒すんで」と、言い放った。はあ? とタイラは顔をしかめる。
「倒すんですよ、あんたのこと。死人のためにできることがないならさ、未来のために何かするしかないじゃないですか。そしたらさ、どう考えてもあんたが邪魔なわけ。だってあんた、絶対犯罪者じゃん。生きてちゃいけないと思う。だから倒します」
「また小難しいことを言いやがって」
「じゃあ率直に言いますね。心からあんたが気に入らないんで、倒します」
タイラは観察するようにノゾムを見て、「俺が倒れるのは死ぬ時だ」とだけ静かな響きで言った。「じゃあ殺します」とノゾムは重ねて言う。
「ちょうどいいですね、あんたを殺したら、あんたの説教全部否定できますもんね」
「甘ったれが、そんな宣言をするな。無意味だぞ」
ノゾムは、タイラを睨んだ。不意にタイラが笑う。「俺もお前に聞いておきたかったことがあるんだった」と、目を細めた。身構えるノゾムに、片目をつむってタイラは言う。
「お前は言ったな。『自分が何者なのか答えられますから』と。尋ねよう。学校を卒業し、進路も決まっていない。お前は一体何者だ」
思わず喉を鳴らして、ノゾムはうつむいた。答えようとして口を開き、しかし言葉がまとまらずに拳を握る。タイラは、ずっと身じろぎもせずに待っていた。「オレは」と言いかけて、「自分は」と言い直す。
「自分は……何者でも、ないです。でもあんたを殺したら、あんたを殺したやつ、になると思います」
なんだそりゃあ、とタイラは呆れた。「そんな肩書き、どこで語る気だ」と。しかし言葉とは裏腹に、楽しそうに笑う。そしてノゾムの頭に手を伸ばし、滅茶苦茶に撫でた。
「俺はお前のことが、案外気に入ってるんだけどな……。まあ期待して待ってるよ、名無しくん」
顔を真っ赤にして手を払いのけながら、ノゾムはまた歩き始める。タイラはしばらく、その場でノゾムの背中を見送った。やがてノゾムが振り返る。そういえば、と言った少年は子供らしく笑っていた。
「あんたの名前、平和一ってほんとですか?」
「だったら?」
くすくすと笑って、ノゾムは指さす。「
「言っておくがお前の名前もなかなかだぞ、
「自分はまだいいんすよ、希望ある若者なんで。でもあんた、平和さんって」
「次そう呼んだら、学校の鯉の餌にするからな」
じゃあなんて呼べば、とノゾムはふてぶてしく尋ねた。「タイラと呼べばいいだろう」なんて言われて、考えるそぶりを見せる。ニヤッと笑って、ノゾムは人差し指を立てた。
「そしたら、先輩って呼びますよ」
「先輩……? 何のだよ」
「だって、卒業生なんですよね。嘘ですか?」
「いや、確かに俺はお前の学校の卒業生ではあるけどな」
何か勿体つけるようにタイラを見て、ノゾムは小首をかしげる。「よろしくお願いしますね、せーんぱい」と、からかうような響きを以ってタイラを呼んだ。タイラは頭をかきながら、困ったように天を仰ぐ。
「可愛くねえ後輩だこと」と呟きながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます