彫刻

―――この、かすかな天空の異変を目の当たりにして

美佳とは違って鋭敏とは言い難い俺の直感にも、漠然と訴えかけてくるものがあった。


「・・・美佳。

 さっきお前、『ここ』は現実世界から遠いから、あの三本楠に『近づく』前に『近づか』なきゃいけない

 ・・・・・・みたいなこと言ってたよな」

「・・・うん」

「それって・・・つまり、そういうことか?」

「・・・たぶん・・・」


・・・いや、まあ、『そういうことか?』とか知った風な口利いてる俺自身、

まだどういうことなのかはっきりと理屈で理解したわけじゃないんだけれど。


俺はふいっと、裏門から見て西側にある切り株群へと視線を移す。

三本楠のうち最もこちら側に近い一本は、裏門から60m~80mほどの距離にあった。


「・・・」


依然変わりなく、楠はその場に悠然と立っている。


・・・ように見えた。

少なくとも、樹木の部分は。


「高加君、加賀瀬君。

 楠が・・・」

「・・・ええ」


今は7月。

多くの樹木が、一年の内でも特に青々と葉を生い茂らせる月の一つだ。

当然、常緑樹である楠も例外ではない。

だが・・・。


「・・・枯れて、きてる・・・?」


最初に裏門を踏み越える前は青々と茂っていた楠の葉が、今はくすんだ黄緑色へと変色している。

ちょうど、漆黒から深藍色へと変わったこの空のように。


「先生!

 ・・・美佳!」



本当に、今度こそ迷いはなかった。



三たび踵を返し、四たび裏門へと飛び込んでいく美佳。続く俺と先生。

四度目の刹那の闇。


・・・結果、六体にまで膨れ上がった、亡者の群れ。


だが俺たち三人は、もはやそれに対していちいち反応を示すことをしなかった。


裏門を踏み越えた途端、そのまま美佳は立ち止まらずに華麗なターンを決め

今やこの空よりも深い闇色の長髪を大胆にはためかせながら五度目の突入を慣行する。

一瞬遅れて俺が、さらに一瞬遅れて先生がそれぞれ不恰好なターンを晒し、さらに美佳の後を追う。




六度目。




七度目。




八度目・・・。




まるでこういう運動部の練習でもしているかのような奇妙な反復運動を繰り返すたび、

ヒル人間もまたきっちり八体、九体、十体と増殖していく。

だがお構いなしだった。

手応えのようなものを感じ始めていたからだ。

裏門を踏み越えて漆黒の帳を抜けるたび、少しづつ、少しづつ空は明るくなっていった。

それに伴い、右手に見える楠の葉がくすんだ黄緑からくすんだ黄色へ、さらにくすんだ黄色は緋色へと、緋色から鮮やかな紅色へと次々変色していく。


そして十度目辺りの突入後、ついに『それ』が起こった。


「!

 葉っぱが・・・!」


そう。落葉を始めたのだ。


・・・と言っても、楠を覆う葉が目に見えて少なくなっているのに反して

地面には一枚たりとも落ち葉が見当たらなかったので、

果たして『落』葉という表現が適切かは微妙なところだったが。

とにかく、楠は常緑樹にあるまじき禿げ頭を覗かせ始めたのだった。


「美佳・・・!」

「うん。

 ・・・でも、まだだいぶ『遠い』!」


その後、恐らくは十一度目と思われる突入で葉の大半が消え失せ、十二度目の突入後にはついに一枚も残らず禿げ上がってしまった。

つまりは枯れ木と化したのだ。


『とぉお・・・りゃん・・・』

『・・・か・・・がぁぁ・・・』

『・・・・・・ち・・・・・・を・・・・・・』

『・・・・・・・・・ほ・・・し・・・いぃいいぃぃ・・・』


今やヒル人間は十数体からなる大部隊と化しており、まるで田園地帯のカエルの鳴き声のように

怨嗟の大合唱が無人の校庭に響き渡っている。さながら海外のゾンビパニック映画の光景そのものだ。

さすがに恐怖と重圧を感じずにはいられなかったが、さりとて今さら中断するわけにもいかない。


唯一救いだったのは、ヤツらが校舎下のアスファルト地帯からグラウンドの土へと踏み出した辺り――

つまり俺たちが最初に裏門へ突入した辺りから、なぜかさほど前進していないという点だ。

もしかして、俺らが裏門を踏み越える瞬間はヤツらもこちらを見失ってしまうのだろうか。


「・・・っふ!」


十三度目。

裏門を踏み越えた俺は、すぐさま右手の枯れ木へと目を向ける。


「!!」


・・・なんと、今度は枝が一本残らず切り取られていた。

いや、切り取られたのか、へし折られたのか、勝手に朽ちたのかはよく分からないが。

本来、楠は枝部分もかなり太い樹木なので、幹の部分だけが残った状態で立っていると異様な景観だ。


・・・まあ、亡者の大部隊やフェンス先が全く見えない校庭ほどではないけれど・・・。




十四度目。

奇妙な埋没現象が起こっていた。

残った幹が、先ほどまでよりも数十cmほど地中へと沈下していたのだ。


・・・が、ある意味でこれこそが最も異様な変化だったにも関わらず、もう俺たちはさしたる反応を見せなかった。

異変に対してある種の免疫がついたのか、・・・それとも、俺たちの精神も少しづつ『こちら側』に引きずり込まれてしまっているのか。


・・・前者だと思いたいが。


十五度目。

同様の沈下によって、今度は幹が中腹部辺りまで埋没する。

これにより、地上部分の全長は枝葉が備わっていた頃の1/4以下にまで縮小していた。


「もう・・・少し!」

「・・・ああ」


空はもはや深藍色からくすんだ藤色へと変わっており、『その時』が近いことを告げているようにすら見える。

さすがにここまで来ると、この反復運動によってもたらされる結末がどのようなものなのか

俺も――そして恐らくは西宮先生にも、うっすらと見え始めていた。



――『遠い』から『近づく』前に『近づく』、か。

なるほど、美佳らしい要領を得ない・・・だけれど、的確な表現だ。


・・・つまり、俺たちは

『横』――単純な物理距離的にあの三本楠に到達する前に、

『縦』――平行次元的に現実世界に近づかねばならなかったのだ。


SF的に解釈するならば、俺たちが元いた異次元世界と現実世界との間には

それらに酷似した・・・いわゆる並行世界のようなものが幾重にも横たわっているんだろう。

そして、この裏門はすぐ隣の平行世界への橋渡しとなる出入り口であり、それを連続で通り抜けるということは

隣の平行世界へのドアを次々と開けて、徐々に現実世界へと近づいていく・・・という事なのだと俺は理解した。


「・・・惜しいな。

 こんな状況でなければ、なかなか痛快な現象なんだが・・・!」


十六度目。

沈下はさらに進行し、今や地上部分の全長は地面から1m弱程度の哀れなものとなっていた。


十七度目。

枝の切除によって激しくささくれ立っていた木肌が削り取られており、そして・・・


・・・遠目ながら、楠にはわずかばかり整形されたような形跡があるように見えた。

その変わり果てた形状に、かすかな人工性を見出して確信する。




――次だ。




もはや俺の耳には、亡者の合唱など届いてはいなかった。


十七度目の反転。十八度目の――そして、恐らくは最後の突入。

十八度目の暗転。


敷石を踏み越えた途端、俺たちは特に示し合わせたわけもないのに、みな同時に立ち止まった。


一面の藤色の空。

右手の切り株群へと振り向くと、そこには・・・。


「・・・・・・。

 ・・・こういうことだったんだな・・・」

「・・・ああ」

「・・・・・・だね」






・・・そこには。


元の楠から葉が枯れ落ち、枝を折り取られ、地中に引きずり込まれて・・・

そして、残った部分を研磨して整形された、大きな丸太が地面に埋まっていた。




・・・そう。

まるで、巨大な杭が地中目掛けて深く打ち込まれているかのように。

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