70 七月二十日および『騒音の怪物』

 騒音の怪物

                            紫 剣吾 


『1』


 夢を見た。夢の中では私は男で、孤独だった。孤独の中に騒音があり、それは何だと原因を探していると、透明の怪獣のようなものに出会う。姿は見えないが、何故か存在だけは感じていた。

 暑い。私はサウナの中にいた。

 いや、サウナと言うのは表現の一つで私は自分の部屋にいた。私の部屋は狭く五畳半、そんな中で風も入らないから自然とサウナになる。がんばって買った扇風機も温風器となって意味がない。私は朝っぱらから水風呂に入ることを要求された。



 仕事は遅刻した。特に言及はない。私の会社は遅刻してもその分残業すれば解決するという効率的なシステムとなっている。短大を卒業した私は一人暮らしのアパートから一時間も掛かる職場に就き、働いている。一時間、一時間とは何だろう。時間の長さで言うならドラマが一話見られる。いやいや、これなら短く感じる。アニメだと三十分だから二話か。特撮も二話。しかし、一時間あれば大抵の男は満足してしまう時間だ。スポーツしている人なら二回は射精してるだろう。そんな時間を通勤に必要となるとどうしても朝は早くなる。まだ学生気分の抜けない私にはそれは大層難しい話であって、なので、私は十八時に変えるのではなく、二十時に帰るようになる。

 私がやっている仕事は社員の給与明細などを仕上げることで、誰や誰々さんが働いた時間通りのお給料、もしくはボーナスなど色々やっている。あ、あの課長は意外とこれくらいなんだ。おおう、この人は意外ともらってるな。と、誰かにしゃべってはいけない内容だが、誰かにしゃべりたくなる情報が私の中で渦巻く。とても面白い。

 しかし、めんどくさいこともある。給与明細などをパソコンの会計ソフトで作っていると、先輩である細川さんがよく注意してくる。「あ、ここ関数間違えてるじゃない」「ちょっと、手を休めないで、打つ。打つ」と、とてもうるさい。死んでくれないかなと、神さまに願う。

 だけど神さまはケチだから細川さんは死なないし、私に良い男を寄越さない。面食いなのがいけないのか。だって男は顔じゃんか。女だって顔で選ばれるなら男だって顔で選ばれたっていいだろ。だけど、このまま面食いのままで探すと良い男なんて見つからない。何だろう。顔の良さと性格の良さは比例しないのかな。私が付き合った男は大抵最低な奴ばかりだ。ひどい奴は一年くらいヒモで有り続けた挙句、他に女を作って逃げやがった。

「俺、ちょっと煙草買ってくるね」

 それっきり姿を消した。私の家でのことで、一年間もいたのにだ。住ませてやったのにだ。友人からの情報では原宿で他の女と歩いてたよと聞いたが、どうにかする気もおきない。今会った所で殺意は湧くが適うはずもないし、適っても殺したら重罪だ。私捕まり、刑務所で働く。そんなのは勘弁。ショーシャンクの空の主人公とは違い、私は根気強くない。




 ――小説の筆を止めて、休憩した。

 正確には、キーボードを打つのをやめて休憩した。

 七月二十日。

 あれから、時間が経った。道川盛行の幻が僕を化かしてきて、本格的に妖怪化したかのような事件と、本物の道川盛行はさっさと帰った事件――事件というのは大げさか。

 しかし、普通でもない。

 煙草でも吸っていたら、口元はこんなに寂しくないのかな。その代わり頭の中がいつもうるさそうだ。僕はミント味のガムをクチに三つ放り込み、きつい刺激を味わう。

「………」

 そして、ふと天井を眺め頭を整理しようとする。

「これで、いいのかな」

 少し、『騒音の怪物』に疑問を抱く。十八日、一気に小説を書こうとしたら道川のことが気になってノリ気になれなかった。僕の手はナノサイズの鎖で縛られたかのように動けなくなり、水の中にいるように沈黙してしまう。

「……ん」

 嘘。少しは話せる。

 いや、どうでもいいことを考えた。

『騒音の怪物』、編集者と話したこと。怪談や、そして怪談を僕が描くならどうするか。ぱっと思い浮かんだイメージから……僕は書き上げることが多いが、しかし、こうだったかな。最初に浮かんだものとは違うような気がする。

「んぅ……」

 とりあえず、保存だけして。

 休憩はちゃんと取っておこう。

「……ん」

 そうだ。休まなきゃいけない。

 休まなきゃいけないんだぞと僕は思うのだが、ついつい気になってしまう。

 リビングで書いていたが、気になって自室にもどる。

 途中、傘頭の幻に出くわしたが無視。机の引き出しに入れておいた叔父の日記を見てしまう。


『●●年六月六日

 道川盛行は多様性の高い小説家だ。何にでもなれる。男でも女でも若くても老いても、何にでもなれる。ある意味、役者が彼の天職かもしれない。活字の中で演じる役者だ。彼が演じる一人称はどれもレベルが高く、あらゆる作品に味を作る。

 私には無い才能だ。

 弟子に取っておいて何だが、私は彼を甘く見ていた。彼は、私が飼えるような小鳥ではなかったのだ。                                           』


 叔父が嫉妬するのも理解出来る。僕は久しぶりに小説で感動したり、笑ったり、すごいと思った。今までは勉強になると読んでいた小説が、あのときは自分が小説家であるのを忘れて楽しんだのだ。

 そう、嫉妬したのは、いつも読書した後だった。


『●●年九月二十日

 私は彼に破門を突き付けた。彼は何が何だか理解していなかったが、この日記を見れば彼も分かるだろう。私が彼に嫉妬しているのを。自分の才能がどれほど恐ろしいものか。

 小説家にとって、才能とは最強の武器であるが同時に災厄を招く蜂蜜でもある。才能に嫉妬した者は彼を蔑み、批判するだろう。彼に負けた者は何であんな作品がと、認めてもらえないだろう。過剰過ぎる才能はときとして爆弾だ。いつか、どっかで、必ず、爆破する。                                 』


 僕も、叔父と同じく嫉妬していた。同業者。僕と同じ、小説家であることに、そして、先輩にも関わらず死んでしまえと願った。こんなの、どう相手にすればいいか分からなかったからだ。


『●●年九月二十一日

 いつか、この日記を彼に見せなければならない時期が来る。彼も私と一緒。純粋の小説家だ。彼は私を忌み嫌っているようだが、その魂からは逃げられまい。彼は、小説家になるしか生きる術がない。

 そして悲しいことに、自殺する愚かさも彼は持っていない。

 小説家として誰かを殺し、蹴落とし、栄冠を勝ち取るしかないのだ。           』


 ……何だか、あの叔父にしては随分と……俗っぽいというか。

 いや、失礼な気もするが。

 まるで、凡人のように思えた。

 これじゃ、これじゃまるで……この人、人間みたいじゃないか。

 あの化け物じみた異端児は何処に行った?

「……あ」

 ふと、僕の頭にイメージが思い浮かぶ。

「騒音の怪物」

 騒音の怪物。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る