三章 遠く失くしてきたモノ達は願い
038 ひとり
――拒絶された。
当たり前だ。
この両手は既に血みどろで、彼の隣に立つには、私は汚れすぎていた。
初めから、そう伝えていればよかったのだ。
そうすれば、断られるにしろ受け入れられるにしろ、あれほど彼を苦しめはしなかった。
浅ましい自分に嫌気が差す。
あるいは少し時間を置いた頃でも良かった。自分の身の上を話すタイミングはいくらでもあった。
それをしなかったのは、拒絶されたくなかったからだ。
彼が後ずさった一歩、その砂を踏みしめる音が木霊する。
その一歩は自分に置かれた信頼からくる一歩で、その音は信頼に背いたことから生まれた音だ。
それは抗いようもなく、愚かな私の背信行為の結末だった。
私は何をしているんだろう。
こんな所で蹲っている時間も権利も、ないはずなのに――。
「寝たふりで凌げるものだね」
「大事なくてよかったよ。それよりいいの、声かけてあげなくて」
「優秀な姉、強くなった親友、兵器だった相棒、突然現れた天才……ただの少年には荷が重い、けれど」
「けど?」
「こればっかりはね。修二自身が一人で超えていかなきゃならない問題だ。姉の出る幕はあんまりないよ」
「そうかな? まぁ、瞳さんがそれでいいなら」
「修二も夏希と同じだ。勝利というものを絶対視している。そこが私には分からないからね――立ち入れないよ」
「……先に退院しといて。僕は修二さんに用事がある」
「というと?」
「同意見ってことだよアドレー。だから同類をぶつけるのさ。それと――頼まれたモノを渡してないからね」
捕獲された構成員から情報を引き出し、サード、セカンド両アクアポリスからエイリアス・ドミナントは排除された。
イスカの正体は秘匿され、対外的には巻き込まれた修二の機転と公安部総務課第十一係の活躍ということになり、修二は警察から表彰されることになった。
翌日、修二は病院に来た。
瞳は意識こそ失っているが、それは粒子機械の修復に注力しているせいだという。
弾丸の摘出は彼女が自力で済ませたし、粒子機械の複製と再調整が済めばすぐにでも目を覚ますそうだった。
シリコノイドにとって外傷は一時的なものでしかないというが、ここまで顕著だと拍子抜けしてしまう。
昼頃には治ると言われて、修二は手持ち無沙汰になってしまっていた。
――夏希の病室に行く気力はなかった。
修二は中庭のベンチに寄りかかって、ぼーっと空を眺めていた。
修二の周りにあったものが、一週間で様変わりしていた。変わらなかったのは親の顔くらいだった。
姉は修二に黙って公務員として働いていて、相棒は軍事兵器だという正体を修二に隠していて、カーンは修二の知らない内に強くなっていて。
命にかかわる病気のくせに、しょっちゅう外に出ては楽しそうに街を巡って、ゲームをして、食事をして、V.E.S.S.では鬼神もかくやと暴れ回る、太陽のような愛らしい少女が。気がついたら隣に来て、追い抜いていった。
皆先へ進んでいた。
修二は、ぽつんと一人で立っていた。
どっちつかずで、格好悪くて、勉強も出来なければ運動もそこまで得意ではなくて、わがままで向こう見ずで馬鹿でどこか抜けていて、甘ったれたクソガキの自分は、何一つ成長していなかった。
――隣にいると言ったイスカは、肩を借りようと思った相棒は、隣になんていなくて。
現実が破城槌となって、ちっぽけな修二の城を何度も何度も打ち据えてくる。
修二は、城の中で頭を抱えて震えている。
分かっていた。
何をすればいいのかは、分かっていた。
甘えているだけなのも、分かっていた。
それでも、踏み出したら戻れない。――普通ではいられない。
分かっていた。イスカは裏切ったわけじゃない。
軽々と切り出せるような話でもない。下手をすれば軍の機密に関わる話だ。
イスカの登録はすでに抹消されていて、彼女は表舞台には「いなかった」事になっている。
だから修二はイスカを伴うことを許されていた。
逆だ。鷲崎瞳の弟である修二だから、イスカを伴う事ができた。つまりそれは、監視が常についていて、サーバーの強行確保が可能だからだ。
イスカと雇用契約を結んだことすら、修二の手柄ではなかった。
恐らく放浪していた彼女を見つけた段階で、誰かがそうしなければならなくて、都合が良かったのが修二というだけ。
事情を知らず、たいそれた事を考える性格でもない、力もない知恵もない一少年だから。
それが偶然鷲崎瞳の手元にいたから、そうなっただけ――。
分かっている。それでも、イスカと出会ったことは真実だ。
イスカの命を救い、彼女を介抱したのは、他ならぬ修二だ。
だからそんな負い目は必要のないもので、気にするだけ馬鹿らしいことで。
それでも、修二は思ってしまう。
結局自分は、自分の力で何かを成したわけではない。
分かっている。ならば自分はどうするべきなのか。
踏み出したら、戻れない。
行くべきだと思う。それでも、躊躇ってしまう。
それじゃあ今までと何も変わりない――。
「カーンの言うとおりだ……」
自覚していたことだから、それを暴かれてしまったから、見せつけられてしまったから、逃げられない。
今まで目を背けていた現実が、修二に牙を突き立てた。
空は青い。くすんだ青。塵のような粒子機械が大気に蔓延する以上、空の色はくすむし、夜になっても星は見えない。
背の高くない、深緑の鮮やかな木々の狭間、呆と見上げた空には、まるで柱のようにアリーナの光が伸びている。
ここにはそれしかない。
『……いいところよね』
同じベンチの、少し離れた所に、セレネが腰を下ろしていた。
「……そう、だな」
顔を合わせづらいはずなのに、不思議と、拒絶する気持ちにはならなかった。
『前に一度来たわ。夏希と一緒に』
「前?」
『夏希をV.E.S.S.に誘う、その前よ。セカンドじゃ精密な調整は出来ないから』
脛を抱いて、頬を膝に乗せて、セレネは遠くを見ていた。
『人が来なくて、静かで、綺麗で……サードってそういう場所滅多にないでしょ。どこに行っても熱気に溢れてて』
そう言われると、そうかもしれない。
修二が生まれる直前に、両親は完成したばかりのサードへ引っ越した。修二はサードと共に生まれて、生きてきた。
その熱気というやつに親しみながら……打ちのめされながら。
心安らかにぼーっとしていられるような場所は、自宅を除けば確かに少ない。
『今思えば、当てられたのかしらね』
修二は答えられない。
『昔の夏希は、酷い顔だったわ。笑いも泣きもしない、ろくに人の顔も見ない……医者に色んな事を止められてて、出来る事は散歩くらい』
目を閉じてみる。
風と葉擦れの音。鳥の鳴き声は環境音声だろうか。遠くからごおんごおんと低く響く機械の作動音。その向こうに話し声と足音。
もっと遠く、敷地の外側に、無数の人々のうねりを聞き取る。
ずっと近く。セレネの微細な息遣い。衣擦れの音。
『まるで、人形を見ているみたいで……』
林の中に鳥の影はなかった。
それきり喋らなくなったセレネに変わって、修二がその先を引き継いだ。
「……イスカとは、偶然出会ったんだ」
何の変哲もない帰り道。地下へ繋がるマンホールの小さな隙間から、彼女は這い出て、倒れた。
全身原型を留めないほどウィルスに侵食された彼女を、修二は助けてしまった。
その後は大変だった。
オートマトンは犯罪防止のため、国の認可を経て経営される斡旋所を通して入手する必要がある。
成り行きでウェアコンに彼女を入れてしまったが、バックアップデータを保存することは許されない。発声すら不可能なほどに破壊された、彼女の素体も修復する必要があった。
姉の計らいで、修二は斡旋所の一つへ向かい、まだ名前も知らなかったオートマトンの女性を手渡した。
そこで本来、修二と彼女の縁は切れるはずだった。
――俺に、引き取らせて下さい。
どうしてそう言ったのかも分からない。
素性も知らない、安全性も確認していない、まして人となりさえ分からない彼女を、修二は何故か引き取っていた。
その半分破壊された頭部で、助けを呼んでいたような気がしたのだ。
泣いていたような気がしたのだ。
今彼女に問いかければ、顔色一つ変えずに何を馬鹿なと一蹴することだろうけれど。
それでも、彼女の涙を見た時に生まれたそれは、修二にとって久方ぶりの自発的な欲求だった。
そうして修二は、全身修復された彼女と向き合った。手を取り合って、雇用契約を結んだ。
……けれどそれも、修二自ら掴みとった掌ではなかった。
修二にとってイスカは、たった半年でも、かけがえのない存在だった。
V.E.S.S.を始めたのは、彼女がそう言い出したからだ。修二が望んで始めたわけではない。
それでも、楽しかったのだろう。
負ける度に悔しくて、イスカの体が傷つくのが嫌で、それでも、イスカの心遣いは朧気に感じていた。
勝ちたいと願って膝をついたあの日の少年の、その悲鳴じみた残響を、イスカはちゃんと拾ってくれた。
――それが自分にできるたった一つの恩返しだと、イスカがそう思っているのを知っていた。
だから、続けていた。
だからやっぱり、修二の戦いは全部イスカのためだった。
「ちぐはぐだよな。ばかみたいだ」
イスカは、修二が勝利を得られるようにと願っていた。
鷲崎修二は、イスカが自分を許せるようにと願っていた。
その二つの願いは、結局、たった一言の暗黙の了解として、二人の胸に仕舞われていた。
決して口には出さない、きっと誰にも分からない、二人を繋ぐ魔法の言葉――。
イスカも修二も、それを破った。
それは、互いが互いに、してはならないことだったのに。
「ばかだよな……何をしてるんだろうな」
修二はふと、傍らに視線を向けた。
普段控えているはずの、あの怜悧で瀟洒な従者の姿は、どこにもない。
「俺は、何してるんだろうな」
裏切ってしまった。
互いにそう感じたから、こうしてイスカはいなくなってしまった。
言葉に出さないある約束で担保されていた二人の関係性は、どちらかが身を引けば終わってしまう、儚くて脆いものだった。
こうしてどこかに消えてしまったイスカの事を思うたび、修二は苦しくなる。
もうどこもかしこも苦しすぎて、慣れてしまったくらいに苦しい。
修二はひとりぼっちだ。
もう誰も助けてくれない。
だから、修二は踏み出さなきゃいけないはずなのだ。
「何……してるんだろうな」
それきり、言葉はなかった。
修二は揺れる木の葉を眺めながら、細く長く、息を吐いた。
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