035 足跡が音を立てて崩れていく



 


『……それは』


 イスカは動かない。

 伸ばした手がぱたりと音を立てて地に落ちて、それからイスカは溜息を吐いた。


『貴方様の美徳でもあり、欠点でもあります』


 イスカは表情を外に出さないことを美徳としている。

 だから、この感情は殺しきろうと思っていた。


『……修二様。私は、貴方様に救われた身です。貴方様の為ならば、どのような行為でも致しますと、そう答えました』


 半年前。修二は、ウィルスに食われたオートマトンを見つけた。

 買ったばかりのウェアコンを一つダメにしてでも、修二は咄嗟にそのウィルスを格納してウェアコンごと破壊し、オートマトンを助けた。


『その時、貴方様は「何でもは困る」とおっしゃいました』


 修二は小さく頷いた。


『あの時、私は心身共に消耗しきっていました。あれ以上の放浪は無理でした。支えになるものが必要でした。体にも、心にも……』


 イスカは決して、感情に乏しいわけでもなければ、共感性に欠けるわけでもない。

 喜ばしいものには(素直でなくとも)喜び、非道には怒りを覚え、戦闘の最中は高揚し、……苦しむ人を見ているのは辛い。


『あの時、修二様は私に何を言い渡すも自由でした。私も、随分と意志薄弱でした。体を売れと言われれば売ったでしょうし、非道を働けと言われれば、それを成したでしょう。ですが、貴方は私の弱みに付け込むようなことはなさらなかった』


 それが分かったから、修二はイスカへ持ちかけたのだ。

 俺に雇われないか、と。


 彼女はその時恐怖に怯えていて、修二は彼女の支えになるには弱すぎて、だから、修二はイスカに職務を与えた。

 それに従事している間は、帰る場所を保証する、と――修二がV.E.S.S.を始めたのは、彼女を支えてあげるためだった。

 職務という形があれば、修二にもどうにか彼女を助けてあげられた。


『貴方はいつもそうです。鷲崎修二という人格は、何にだって釣り合いを求めている』

「……悪い、ことかよ」

『美徳でしょう。ですが、正しいことが良いわけではない。現実は、綺麗に帳尻が合うほど優しくは出来ていません』


 そんなことは分かっている、と修二は言いたかった。

 分かっている。それを、ついさっき教えられたばかりだ。


 誰かに寄りかかられるだけなんて、自分が重いだけ。逆も然りだ。そんな関係は長く続かないに決まっている。修二はそう考えている。


「人と付き合うなら、その関係がどうであれ、健全な方がいい」

『それで、今は不健全な関係だと? それならやめてしまえばいいでしょう。夏希様に一言断りを入れて、V.E.S.S.から一時降りればいい。幸い、今は試験も近いですから。勉強しなければならない、というのは名目と言うよりは真実でしょう?』


 修二が何か言うよりも早く、イスカは二の矢を継いだ。


『――でもそれを、欲求と、プライドと、良心が許さない』


 本当なら、こんなことを言ってしまうのもよくないことだと、イスカは思う。

 全ては修二の問題で、それは修二にしか解決出来ない、――誰にでもきっとある、乗り越えなければいけない壁との戦いだから。


 それでも、イスカは見ていられなかった。彼が苦しむ姿を見せ続けられるのが、耐えられなかった。

 それがイスカの苦しみだった。


『……難儀な人です。好きだから彼女といたい。彼女に寄りかかるばかりでは嫌だ。彼女の好意を無下にするのも気が引ける。……それで、身を引くにも引けなくなっている』


 修二は顔を背けた。図星だった。


『その状態すら格好悪くて、苦しいなどとは。まるきり子供です』

「……分かってるよ、そんなこと」

『それでも、動けない』


 イスカは、修二の隣に腰を下ろした。


『やはり、まだ主の器ではありませんね』


 きっと修二の周りにいる誰もが、修二を癒やすことは出来るけれど。

 修二の心の奥に根付いた原因を取り払うことは、修二にしか出来なくて――それは修二が自ずから向き合い、乗り越えなければならないものだから。

 それがイスカには苦しかった。取り除いてあげたかった。けれどそれは出来なかった。


 イスカにとって、修二は恩人だ。

 愛や恋ではなく、恩義と忠信を持って跪くべき人間だ。

 そうするにはまだまだ修二は幼く、だからイスカはそうしないけれど。


 戦いを望んだのは自分だ。それしか彼に返せるものがなかったから。

 初めから、彼の渇望は知っていた。少年は誰よりも勝利を望み、その度に挫折を繰り返していた。

 けれどイスカは強い。それはある意味では『反則』と言っていいほどに、現行型のオートマトンとは場数が、用途が、魂の出来が違った。


 ――元々、戦うことが生業だった。

 元より、勝利だけを望まれてきた。

 この穂先は、勝者を選定するためにあった。かつて誰も勝たせないことを選んだこの槍を、今彼のために掲げる事に否やはなかった。


 けれど。

 この脆弱な――再生可能の体が傷つき、壊れるたび、修二は苦しそうにイスカを見ていた。

 その表情に、何より心が傷んだ。


 だから従者として強くあった。

 己の仕事に十全に。それくらいしか出来なかった。


 修二の前に立ちはだかるそれは己から克服しなければならない彼の性根で。

 だからこそ、苦しささえも押し殺して、見守り続けた。


 彼は気付いているのだろうか。彼の姉もまたイスカと同じだ。

 修二を助けてあげたくて、それができないから、必死に手を回している。


 バランスなどと言うならば、彼は出会うヒト皆から愛され続けていて……彼もまた、そんな皆に無自覚に、幸せを返している。

 これ以上ないほどに幸福な釣り合い。

 それはある種の理想と呼んでいいほどに、彼も、彼の周りにも、暖かな感情だけが花開いていた。


『天秤ではなく、振り子だと思えばいいのです』


 だから、見守る皆に少しだけ謝罪して。

 イスカは、少しだけ、彼の背中を押そうと思った。


「振り子……」

『バランスの取り方の問題なのです。貴方は弱い。弱くて、子供だ。ならば、他人を頼って当然でしょう』


 修二は子供と大人の間の子だった。まだまだ子供で、甘えた考えで動いているけれど、一本筋の通った価値観はちゃんと持っている。

 そういった彼の中の大人と子供の部分がいつも相反するから、傷ついて、苦しんでいる。


『私を頼って下さい。瞳様を頼って下さい。夏希様を、頼って下さい。カーン様を、マルファスを、ライラウスを、或いは委員長や名も知らぬ他人でだって構いません』


 何処にでもいる思春期の少年だ。認められたくて背伸びをする少年。その甘えた殻を割るまでは、そう遠くはないだろうけれど。

 今その殻に押し潰されたら、きっともう出てこれないから。

 これくらいは従者の業務の一環だと誤魔化して、イスカは今までしなかったことをした。


『そして修二様、貴方が強く、優れた人間になったとき、私は貴方を頼るでしょう。皆、貴方を頼るでしょう』


 そうだ。彼は皆に正直に過ぎた。人の事を気にしすぎていた。もっと意地汚く生きてもいいはずなのだ。

 善意の前借りくらい社会では当たり前のことだ。修二はもっと、自分に正直になるべきなのだ。


 カーンは言った。お前はどうしたいのかと。

 修二は言った。俺はどうしたらいいのかと。


 イスカは思う。欲しい物を全て望めばいいと。


『――それで、いいのです』


 微笑むイスカに、やっぱり修二は見惚れてしまった。


 こんなに綺麗な少女だったのか、と修二は今更驚いていた。戦いの最中で見せる鋭く冷たい美貌とは全く違う、優しくて柔らかい表情で。

 そんな顔を見せてくれることがどれだけ運の良いことか、修二はおぼろげにそれに触れて……。


「……頼ってばかりだよ、俺はさ」

『ならば、もっと頼って構わないのです』

「いつ返せるのかも、分からない……」

『大丈夫ですよ』


 イスカはもう一度だけ微笑んだ。


『その時まで、皆貴方と共にいますから』


 ナノマシンは潮風を検知して、仮想の世界に風を吹かせる。

 港の灯りが彼女の褐色の肌に深い陰影を落としていた。

 イスカはその赤金色の髪を風に靡かせて、遠く水平線を見つめた。


『私は貴方を裏切らない。貴方を否定は、しません。貴方もまた、敬虔な勝利の信奉者なのですから』


 少し乱れた髪を整えて、イスカはヘッドドレスを付け直す。

 そこには、毅然と修二を見据え、黙して語らず、常に修二を助け続けるいつもの相棒がいた。


『差し出口を利き、失礼しました』


 イスカは無表情に一礼した。

 修二は自然と身を起こしていた。


「……そこまで言われて、腑抜けてるわけにはいかないよな……」


 こんなに強くて気高い相棒に、心から認めてほしい――そう思って、あぁ、とようやく修二は受け入れた。

 結局、誰かに認めてもらいたいのだ。修二はずっと否定されて育ってきた。それは言葉や態度ではなく、努力の結果としてだ。

 その方法はいくらでもあるだろうけれど、恐らく今するべきことは。


 修二は立ち上がって、イスカと正面から向き直った。

 ちゃんと、修二の隣にイスカはいるのだ。今この瞬間、彼女の肩を借りていいのだ。

 いつか彼女の手を引いていけるように。そのために。


 いつか――落ちていく彼女をそっと受け止められるように。その、ために。


「イスカ、俺――」




 そのとき、背後から足音がした。

 嫌に不吉な音だった。





 振り返ると、シリコノイドの男が一人立っていた。ベージュのロングコートで体を包んだ、ごく普通の、どこにでもいそうな外見。

 その狂気にギラついた目を除けば。


「な、なんだ、あんた」


 修二が気圧されながらもそう問いかけるのに合わせて、イスカは修二をかばうように前へ出た。

 いつの間にか、その身は鎧に包まれている。格納領域から引きぬかれた得物が三度円を描いて停止した。


「MAM019-S、『戦闘適応知能』」


 イスカの姿を見て、男はその体をぞわりと蠢かせた。


『――まさか』

「おお、我らが導手よ。ようやく、お迎えすることが出来ます」


 そのコートが解けて落ちた。その中身に、修二は愕然とした。

 拘束具のような衣装と、胸元に揺れる三つ葉に円のネックレス――ロザリオ。シリコノイドの幾何言語によれば、その意味は『超越者』。

 波打つ肌はシリコノイドの証。


「嘘だろ」


 そしてその手の、仮想の世界で慣れ親しんだ暴力の塊が――拳銃が。


「エイリアス・ドミナント……?」


 凶悪な音と共にコッキングを終えると、修二の額をぴたりと照準した。

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