二十一 本性

「右京、どうしたの? 何を言っているの?」


 結子は、痛いほどに手を握りしめてくる右京の、その縋るような眼差しを見つめ返した。微かに震える右京の手が結子を必死に引き止めようとしているかのようで、思わずぎゅっと握り返す。うら寂しく荒れた庭からの風が二人の間を通り抜け、結子のすすきの襲*を揺らしてどこかへと吹き抜けていく。

 やがて、秋風の音とともに簀子の方からさわさわときぬの擦れる音が近づいてきて、美しく生けた秋草を抱えた弥生が戻ってきた。弥生はその花をそっと古めいた文机の上に置くと、静かに母の許へとにじり寄り、右京が凭れる脇息を脇に退ける。


「姫さま、わたしからお話しいたします。……母さまは少し、横になって」


 弥生はそうして結子の許から母の手を離し、その痩せた肩を労わるように支えながら横たわらせてふすまをかけた。そして、改めて結子の方に向き合い、じっと結子を見つめたあと、何ともいえぬ面持ちで、ほ、と息をついた。


「……姫さま、母が大変なご無礼を」

「無礼なことなど何も。それより、これはいったい……」


 結子はそこまで言うと、横になった右京の方を見た。いつだって、何よりも結子のことを思い、見つめてきてくれた瞳がそこにある。


「姫さまと右京大夫さまのお噂を聞いてからというもの、母はいても立ってもいられぬという様子で」


 そう言いながら、弥生もまた困ったような視線を右京に向けた。じっと結子を見ていた右京は、弱く微笑むと疲れたように無言で目を閉じた。


「年老いて、心弱くなってしまったのですわ。誰よりも大切な姫さまのことが気になって仕方なく……何やら思わせぶりな文を書いて寄越したりしておりましたでしょう?」


 ───これからはきっと、姫さまもそうそう、こちらに参られることもなくなるのではと思うております。


 あれは、結子が元亘の妻となるのを心配してのことだったのか。そんなことありえぬのに、と結子は苦笑し、右京の細い手を安心させるように握り締める。


「それにしても、いったいなぜそれほどまでに?」


 結子にそう問われて、弥生はまた困ったように頬に手を遣り、ため息をついた。


「本当に、何からお話すればよろしいのやら……。姫さま、もう一度お尋ねいたします、大夫さまとその……お心を通わせておられる、というようなことはないのでございますね?」

「ないわ、断じて」


 結子がきっぱり否定すると、ようやく弥生も右京と同じように安堵の息を零し、意を決したように口を開いた。


「実は姫さま、わたしは、右京大夫さまをよく存じ上げているのです」


 結子はほんの少しだけ考え、すぐに何ごとか閃いたように視線を上げた。そう、なぜ今まで気づかなかったのだろう。


「弥生、もしや伊予で……」


 弥生は大きく頷いた。


「ええ姫さま、そうです。わたしが伊予にいた時にあの方も下って来られたのです、伊予守いよのかみさまの娘婿として。あの頃の大夫さまは、お父君を亡くされ後ろ盾を失われて、無官でいらっしゃいました」


 伊予は豊かな国だ。弥生の夫である伊予介は、遙任ようにん*の国司として都に留まった伊予守の代わりに赴任し、それなりに富を得て、羽振りのいい暮らしをしていた。やがて数年が経ち、伊予での暮らしにもすっかり馴染んだ頃、突如、現れたのが元亘だったのだという。


「もちろん、わたしたちは喜んでお迎えしました。夫は気のいい人でしたから、ずいぶんとあの方のために心を配り、親しくしておりました。この鄙でいい友人を得た、と申していたくらいです」


 そこまで言うと、弥生は曇った視線を鈍色の袖に落とした。


「物腰のやわらかな、穏やかなお方のように見えました。来られてすぐの頃にはよく一緒に過ごし、たくさんお話もいたしましたわ。ですからまさか──」


 何かを言いかけ、弥生は言葉を呑み込んだ。


「弥生?」


 何か、不穏な話が始まるのだろうことは容易に予想できる。結子は訝しげに瞳を歪め、くちびるを引き結んだ弥生の顔を見た。


「いえ……今から思えば、あの方は財を得るためにだけ、伊予にいらしていたのでした。すぐに気づけなかったわたしがいけなかったのですけれど。あの方がお金のためなら何でもなさる方だということをはっきり思い知ったのは、夫が流行り病で世を去ってからでした」


 無官であることを理由に、長らく金銭的に弥生の夫に頼りきりだったと聞いて、結子は首を傾げる。


「だって、北の方は裕福な伊予守どのの姫君だったのでしょう? あなたがたの財など、あてにせずとも……」


 それを聞くと、弥生は首を横に振った。


「そう思われるのはごもっともですわ。でもね、姫さま、あの方の目的はすべてお金、お金だったのです。ご身分の釣り合わぬ、仲睦まじいわけでもない北の方を娶られたのもお金のため。姫さまと同じく由緒正しいお血筋ですから、すでに五位の位をお持ちでした。けれど、いつだったかご自分で仰っておられましたわ、位など興味はない、と。わたしは最初、お辛い境遇ゆえにそう仰られたのかと考えたのですけど……違ったのです、あの方は本当に、財を成すことしか考えておられなかった。ですから、ご自分のお金に手をつけることを厭われたのです」


 一年ほど前に伊予守の姫である北の方もまた流行り病で世を去り、元亘はその財産も受け継いだ。彼は望みどおり、伊予で充分過ぎる財を得たわけだ。

 その話を聞いても、結子はすべてがすとんと腑に落ちたような気こそすれ、不思議なほど驚かなかった。

 誰もが手に入れられるわけではない氷室の氷を惜しげもなくふるまい、己の財をひけらかすが如く父たちに見せつけていた彼の姿。目の前にいながら、その笑みに隠されてまるで実体を掴めぬ朧のようだった元亘の真の姿が、今ようやく少しずつ形になってきたように結子には感じられる。少なくとも、あの非の打ちどころがない態度をとる元亘よりは、人間味は増したような気がした。


「……だから、お父さまやお姉さまにあんなひどい仕打ちをなさったのね。我が家の婿君になったって、決して望むような裕福な暮らしはできないもの」


 そう呟いた結子に、弥生はそっと胸元から一通の文を出した。


「姫さま、こちらをご覧になってくださいませ。あの方が夫に宛てた文です。これをお読みいただければ、それだけではないということがご理解いただけるはず」


 結子は、その皺だらけの文を受け取るとそっと広げて読み始めた。確かに見覚えのあるその手蹟を追う結子の瞳は、やがて困惑に翳り、ついには怒りに見開かれる。

 そこには、伊予介のに感謝の意を伝えた上で、父 義照と姉 晴子を愚か者扱いし、婿にと請われたことを嘲笑あざわらう元亘の言葉があった。どうすればあの忌々しい二条堀川に行かずに済むかと知恵を巡らし、妻を得て伊予に来た、あの父娘と親戚であるという不名誉を忘れたい、大姫の婿になる権利を売れば金になるだろうか、とも。

 あまりの不愉快さに心の臓が早鐘を打つ。ひどい内容を端正で優雅な文言に隠したその文は、結子の知る元亘の姿そのものだ。くちびるを噛みしめ文から視線を上げると、心配そうに様子を窺う弥生の視線とぶつかった。


「……これをお見せするべきか、悩みました。本当にひどいことが書かれておりますもの。でも──」

「大丈夫よ、弥生」


 結子は、己を奮い立たせるかのように呟いた。


「呆れるわ。ここまで仰っておきながら、なぜ今になってお父さまと親しくなさっておられるの?」


 解せぬ、と結子が首を傾げれば、弥生はそれも分かります、と続けた。


「充分に財を得た大夫さまは、今こそ名誉を得ようとなさっておられるのです」


 当初の目的を達成した元亘の次なる標的は、かつて興味がないと公言して憚らなかった身分と名誉に移っていった。父亡き今、官位を得るための後ろ楯として利用できるのは叔父である義照しかおらぬと分かっていた元亘は、伊予で虎視眈々と計を練った。そこで現在の状況を知る。東宮亮の姫が、何らかの目的を持って義照に近づいている、ということを。

 万が一にも亮の姫君が義照の妻となり、跡継ぎとなる息子を生めば、元亘はその邸や財を受け継ぐことができぬだけでなく、官位を得る機会も失ってしまうだろう。そのことに気づいた元亘は、妻の喪が明けるやすぐに都へと戻ったのだった。


「お分かりいただけますでしょうか? あの方がただ、打算と私利私欲だけで動いておられる、ということを。夫を亡くして独りきりのわたしに手を差し伸べてくださることもなく、本当に急に、まるで逃げるように伊予を離れて行かれました。ちょうど、年が改まったばかりの頃のことです」


 それからのことはきっと、姫さまがよくご存じのことと思います──弥生はそう言って、力なく微笑んだ。


「……ということは、あの方が今、お父さまの許に足繁く通うておられるのは」

「恐らくは、後ろ盾を得るために殿との関係を立て直しつつ、亮の姫君が妙なことをせぬよう、目を光らせておられるのだと思います」


 結子は、つと視線を上げた。

 あの、亮の姫君の好む侍従の薫り。そして、その薫りを衣に纏わせた元亘。

 これまで敢えて考えぬようにしてきたけれど、衣に移り香が漂う理由は恐らくひとつ。元亘は亮の姫君をもたぶらかしているのかもしれない、何としてでも彼女が義照の北の方に収まるのを防ぐという、己の目的のために。

 亮の姫君がすでに元亘に籠絡されているのだとすれば、なぜあれほどまでに元亘の肩を持つのかも分かる気がする。そして、初めて元亘とまみえて以来、いつも結子の心のどこかがざわざわと落ち着かなかった、その理由わけも。

 昨夜の、髪にくちづけてきた元亘の視線を思い出し、結子はまた嫌悪に震え、ああ、と息を零した。


「姫さま。人を悪しざまに申すのはよくないことと存じておりますが、それでも言わずにはおれません。あの方──あの、今は右京大夫となられた方は、本当に、優しさや良心などかけらも持ち合わせておられぬ人です。卑劣で、冷たくて、己のことしか考えておられぬ。あのような方が姫さまの婿がねなどと……そんな恐ろしい噂を耳にして、わたしたちはもう、どれだけ悩んだことか」


 静かな怒りを滾らせる前で結子は少しの間だけ考え込み、それからふとあることを思い出して弥生に尋ねた。


「もしかして、あの方にわたくしのことをお話した? ずいぶん以前からわたくしのことを知っていた、と仰っておられたわ」


 弥生は顔を上げ、申し訳なさそうに頷いた。


「ええ、話したこともありました。あの頃は、姫さまとあの方は従兄妹のご関係だからと警戒もせず……。そのことで姫さまにご迷惑をおかけしたのなら、わたしは大きな過ちを」

「妻に、と言われたの。昨日」


 ぽつりと結子が言うと弥生ははっと息を呑み、右京は閉じていた目を開いて半身を起こした。


「まことにございますか?」


 弥生は心底驚いたように結子を見つめる。


「ええ、でも心配しないで、お受けする気などないから」


 結子の言葉に弥生は右京と顔を見合わせ、それから信じられぬというように首を振った。


「では、あの方はまこと姫さまを……? いえ、そのお心までは分かりませんもの。姫さまをも利用なさるおつもりなら、許せることではありません。どうか、よくお考えになって。ね、姫さま」

「考えるも何も、元亘さまとなど、思いもよらぬことよ」


 愛情もなく幸せではなかったという伊予守の姫との日々、その中で聞かされたのだろう従妹の噂。あの賀茂祭での出来事と、それからのこと。それらがどのように元亘の心を動かしたのか、それを結子に知るすべはないし、知りたいとも思わない。ただ、想像していたより複雑に絡んでいるらしい各々の思惑に、結子は言葉少なに考え込んだ。

 ふと気づくと、弥生が申し訳なさそうに結子を見つめている。結子は一度大きく息をして、それからやわらかく微笑みながらわざと明るく言った。


「教えてくれて、本当にありがとう。これからどうすべきか、考えてみる必要がありそうね。いずれ、お父さまにも話さねばならないでしょうし」

「──姫さま」


 それまで黙っていた右京がその時、褥の上に座り直し、静かな声で問うてきた。


「姫さまはこれから、殿とともに葛野かずらのに行かれるおつもりでございますか?」

「……そうね、そうするしかないと思っているわ。いつまでも、宮の方さまのところに居続けるわけにもいかないもの」

「では、先ほど仰っておられたお方とは……」

「え?」


 今、そのことを問われるとは思ってもみなかった結子は思わず口ごもり、そっと右京の方を窺い見る。その目が言っている、この右京に隠し事はなしでございますよ、と。

 気まずさに結子はしばらく視線を泳がせていたが、やがて小さく息をつき、観念したように口を開いた。


「──にお会いしたの」


 僅かに視線を揺らした右京は、だけど何も言おうとはしなかった。それでも、ただその言葉だけで結子の心のうちをすべて理解したようだった。


「さようにございましたか」


 探るような視線を結子に向けていた右京は、やがて噛みしめるようにそれだけを言った。ほんの少し寂しげな瞳が、どのようなことがあろうとも右京は姫さまの味方でございますよ、といつくしむように結子の心を抱きしめてくれているのを痛いほどに感じる。

 文机の上では母の好んだ花たちが、秋風に絶え間なくその身を震わせていた。



──────────


薄の襲

蘇芳〜浅蘇芳〜青(今の緑)〜薄青(今の薄緑)〜白の、秋の襲。


遙任

国司に任命された者が赴任せず、代わりの者を任地に派遣して、自身は都にいたまま俸禄や租税などの収入だけを得ること。

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