透明の身体

 校舎の時計。

 あの針は、何時を指しているのだろう。

 わたしはどこに立っているのだろう。

 どの位置からその時計を見ているのだろう。

 灰色のグラウンドには何があるのだろう。

 風が吹いている。

 この風はどんな匂いがするのだろう。

 涼しいのか、暖かいのか、寒いのか、暑いのか。

 今、何月なのだろう。

 蝉はどんなふうに鳴くのだろう。

 わたしは誰なんだろう。

 わたしが見ている空の青は、本当に青色なのだろうか。


《きみはどこへ行ってしまったんだ!》 


 校庭の真ん中に立ち尽くすあなたは、歯を食いしばって、しゃくりあげている。


 泣かないで。

 あなたはこの世界の救世主なのだから。

 さあ、歩いて。


 あなたは涙を拭う。風景が動く。青暗い校舎の入り口を。簀を踏む。カタリと音がする。廊下は緑でツルツルしている。上履きのゴムが擦れる。キュッキュと音を立てる。下駄箱のすぐ斜め左向いに職員室がある。職員室には誰もいない。右手に進む。生徒会室があって、その隣に階段がある。それを昇る。急な階段を。手すりを触る。左手。スベスベしている。心臓がドクドクしている。息を切らせている。逆方向に階段を昇り続ける。左手に進む。まっすぐ。2年1組。掲示板にポスターが貼ってある。スカートの短い女の子の絵が『痴漢ダメ!ゼッタイ!』と手をクロスしている。2年2組。窓の外を見る。海のような空があり、緑の田んぼが広がっている。風が吹いて、緑の田んぼが海のように靡く。2年3組。掲示板に希望という字の習字が並んでいる。優秀な作品には金色の折り紙の切れ端が、それに準ずる作品には銀色の折り紙の切れ端が。そして、2年4組。教室の後ろの扉の窓から、緑色の掲示板が見える。黒く焦げた跡がついている。それは、自分を知ってもらいたがる不良少年が火をつけた痕跡だった。


《嫌だ。入りたくない》


 震えのせいであなたの内臓は、溶けてしまいそうだった。


 だいじょうぶ。

 あなたはこの世界で一番強いのだから。


 あなたの男になりきれない髪の生え際から冷たい汗がこぼれ落ちる。その汗は甘い蜜の味がした。

 あなたは扉のアルミに手を触れたまま、凍りついてしまう。

 扉の四角いガラスから見える教室に、透明の気配が、ぼんやりとゆらめいている。ガヤガヤと音が聞こえる。あなたはそれを言葉として認識できないでいる。

 あなたの喉から、唾を飲み込む音が聞こえる。扉を開く。静まりかえる。机に向かう。視線を感じる。拳を握る。震える。全身の血液がなくなりそうになる。

 死ね。クズ。チンポ。

 と、笑ってしまうほど幼稚な言葉が、机の上に彫られていた。

 あなたの隣に、透明の気配がやってくる。


「ひどいやつらだなあ。こんなことするなんて」


 透明の存在が、あなたの耳のすぐ近くで、甘い香りの蜜を垂らしながら囁く。

 透明の手の形の中で、汚れた雑巾が不気味に浮いている。

 落書き塗れの机を拭いている。

 雑巾が机を拭うたび卑猥な落書きが増えていく。

 ちんちんシュシュシュ。おまんこキモチー。死ね死ねポコチン野郎。


「さ、綺麗になった。屋上へ行こうか。メロンパン買ってきたんだ。一緒に食べようよ」


 透明の存在が手を取って廊下に出る。

 階段を昇る。

 しかし果たして屋上の鍵は開いているのだろうか。でも、そんな差し出がましいことを言って、彼をイラつかせるのが怖い。と、あなたは思っている。


「大丈夫さ。日村先生に鍵を借りたから」


《日村先生と仲いいの?》


「父さんの知り合いなんだ。親戚みたいなもんさ」


 あなたは校舎でもっとも危険な場所へいざなわれる。普段は鍵がかかっている扉が開く。白い闇の中へ入っていく。


「ひやー。きっもちいい。いい風だね。ほら、これ食いなよ」


《ありがとう》


 と、言って、あなたはそれをキャッチする。袋の先端に巻きつけてある赤いシールをちぎって、おそるおそるパンを袋から取り出す。そして、申し訳なさそうに、メロンパンを齧る。


「ところでさあ、きみ、兄弟はいる?」


《うん。いたよ。妹が。いたけど、死んじゃった》


「ごめん。知らなかった」


《去年自殺したんだ》


「え?」


《団地から。二十五階から飛び降りて》


「ほんと、ごめん」


《うん》


「どんな妹さんだった?」


《いつも、朝になるとボクを起こしに来るんだ。妹は、ちょっとエロくて、ボクに隠れて変な本とか、難しい本ばかり読んでた。単純なようで複雑だった。要領が悪いというか、頭はいいと思うんだけど、必要以上に物事をこねくり回して考えていた。いつも他人のために物事を考えて、必死にニコニコして、誰に対しても異常なくらいに親切だった。時々、透明のバリアが張られてるみたいに感じることがあった。妹はいつだったか、こんなことを言っていた。《死ぬってどういうことかな。人間は死んだら終わりなのかな?》そしてボクは「うーん。ピアノでも弾いてればそんな嫌なこと考えなくて済むよ」と、呑気な返事を返してしまった。そういえば妹は、難しいわりに報われないピアノ曲ばかり弾いていた。その譜面を見せてもらったことがある。三段譜になって一番上の段のト音記号の右横に『Ⅴ』を逆さにした記号がついていた。音符の数が多すぎて気持ちの悪い譜面だった。ボクも小さい頃に両親から無理やりピアノをやらされていたけれど、バイエルの上巻で止めてしまったから、あまり音楽には詳しくない。けれど、それがフツーの曲じゃないことだけは分かった。曲調は極めて混沌としていた。不協和音が散乱していた。高い音はキラキラして美しいのに、複数の旋律がメチャクチャに絡みすぎていて、聴いていると、頭がグラグラする。でも、それを弾いている妹の存在は、透明で美しかった。ボクは妹に対して近親相姦の幻想なんか抱いてなかったはずなのに、その時ばかりは彼女がこの世で一番美しいと思ってしまった。妹は本当に可愛かった。そしてグロテスクだった》


「素敵だなあ」


《素敵?》


「素敵だよ。近親相姦だって、愛の在り方の一つだ。世の中の多くの人たちは倫理がどうとか道徳がどうとか言って近親相姦を異端視するけどね。だいたい近親相姦を忌避するのは、倫理や道徳のためじゃなく、本能が先立ってそれを拒絶するだけのことじゃないか。何が倫理だ。何が道徳だ。ボケが。気持ち悪くて嫌なだけだろうが? 事故で顔が焼けただれた人を気持ち悪いって思うのと一緒じゃないか。そういう単なる生理的な嫌悪感に、社会の秩序を守るためだとか、たいそうな御託を並べて自分を正当化し、その異端者を排除するなんて残酷すぎる。だいたい人類の先祖を辿ってみれば、近親相姦の歴史が人類をこうして存続させているんじゃないか? 古代エジプトじゃ近親婚を奨励してたっていうし。まあ、現代において、近親相姦ってのは、遺伝子欠損の子が産まれる可能性があったり、親族間における強姦を誘発する可能性もあるわけだから、確かに危険だ。しかし、どうしてもその欲求を抑えられない異端者はどうすればいいんだ? 社会から不要と断言されて死ぬしかないのか?」


《あの。ちょっと、よく分かんないんだけど》


「ごめんごめん。そんなことはどうでもいいんだ。実を言うとね、ぼくは、きみの妹さんのことを知ってるんだ」


《どういうこと?》


「昔の話さ。ぼくは、このクソ田舎に住んでたことがある。子供の頃にね。そして、ぼくは、きみの可愛い妹に虐められていたんだ。母さんのためにツツジをあつめていたのに、それをきみの妹にグチャグチャにされてしまったんだ。ぼくはそれがずっと憎くてね。復讐を誓ったんだよ。しかしこの程度のことじゃ、誰もぼくの復讐心に共感してくれないな。だったら、もう一つ教えてあげよう。きみの妹は、ぼくの母親の首をチョン切って教会の十字架に磔にした殺人鬼だ」


《嘘だ。なんでそんな嘘をつくんだ》


「嘘なもんか。ぼくの言葉は全て真実だ。ぼくはきみの妹のせいで、今まで別の土地に身を隠していたんだ。だが、ようやく、復讐の算段がついた。で、去年、東中に転校する前に下見をしようと思ってやって来たんだよ。日村センセの家に泊めてもらってね。さっきぼくは父が日村先生の知り合いだって言ったけど、本当はそれ以上の関係なんだ。日村先生の家には三人の不良が監禁されていた。みんな、鋼鉄のワイヤーでがんじがらめにされて猿のようにほたえていたよ。日村先生はホモでサディストだったから、なんかのホラー小説の拷問シーンを真似て、半田ゴテであいつらの顔を穴だらけにしようとしていたんだ。でも、ぼくにはそういう趣味がなかったから、もっと面白いことをしましょうって言ったんだ。ちょいと映画を撮ろうと思ってね。最高のノワール映画を。そういや、きみ、ぼくの小説をつまんないって言ったんだっけ? そりゃもっともだ。そもそもぼくは、映画監督志望だったんだ。いい絵を撮りたくてうずうずしてたんだ。小説なんか書いてる場合じゃないんだ。ところで、きみの一年の頃の担任って、日村先生だったよね?」


《どうしてそんなこと? どうして? どうして?》


「日村先生が言っていたよ。きみが不登校になって、家庭訪問に行ったらしいんだけど、そのとき、お茶を出してペコリと挨拶をするきみの妹はとても親切な子だったって。殺人鬼のくせに外面は完璧だって。美しくて残酷な悪女だって。ああいう悪魔みたいな女には、罰を与えなければならないって」


 心臓が絶叫する。


「だから、日村先生とぼくは、悪魔みたいな美少女が三人の不良に強姦されるバイオレンス映画を撮ったのさ。役者は揃ってる。あの不良たちに手伝わせたんだ。手伝わないとおまえらの顔面を半田ゴテで穴だらけにするぞって脅してね。でも、あいつらなかなかいうこと聞かなくてね。仕方ないから、不良の統合者だった神威くんの耳と鼻に半田ゴテで穴を開けてジャラジャラした鉄製のチェーンをつけてやったんだ。いっやー、さらに悪そうな不良って感じになって、いい映画になりそうな気配がしたよ。で、他の二人も改造してやろうと思ったら、神威くんが泣きながら懇願したんだよ。言うことを聞くからこいつらだけは酷い目に合わせないでくれって。なにを言ってやがる。ちくしょう。いいやつぶりやがって。小学生の同級生の下顎に鉛筆を突き刺すような酷いやつが今更、何を言ってやがるんだ。これはおまえの罪に対する報いなんだよ。気取ってんじゃねえ。ふざけんなよってぼくは何度も肝臓を蹴り上げてやったよ。はは。まあそういうわけで大変いい映画が完成したからきみの妹に郵送してやったんだ。そしたら自殺なんかしちゃってさあ。自殺はいけないよな。自殺は。不良どもには、このことは誰にも言うなって口止めした。他人にバラしたらおまえらみんな輪切りにするぞって。ところで、きみ、知ってるかなあ? この世界の話じゃないけれど、深夜零時にインターネットにつながる恨みの掲示板の噂があってそこに憎いヤツの名前を書くと黒いセーラー服の美少女が出てきて地獄に落としてくれるらしいよ? そういえば、不良どもの姿を今日は見かけないなあ。もしかしてセーラー服の女の子に地獄に送られちゃったのかなあ? いっぺん死んでみる? って感じ? その世界じゃなんでも人を呪わば穴ふたつってことで復讐を依頼したやつも死後に地獄行きになるらしいよ。酷い話だよ。依頼人が可哀想って言ってんじゃないぜ? そんなもんは自業自得さ。しかしね、呪われた方、復讐された方はたまったもんじゃない。そうだろうが? 人を呪わば穴二つっていうけれど、なに勝手に穴を二つ掘ったつもりになって満足してんだよ。そりゃあないぜってぼくは思うんだよ。だってそれは不公平だ。地獄に落とされる方は、自分の意志とは無関係に地獄に落とされちゃうわけだからさ。相手を地獄に落とす方は自分で勝手に地獄に堕ちるからいいだろうけれど、落とした相手はそうじゃないんだ。ぜんぜん、まったく、公平じゃない。そうじゃないか?」


 あらゆる内臓が、獣のように叫んでいた。


「なあ、罪を背負うってことが、どういうことなのか、ぼくに教えてくれよ? 人を呪わば穴二つってのを、ぼくに示してくれよ?」


 透明の存在が、果実のように甘い声で囁く。頬にキスをされる。手を握られる。塔屋の小さな扉をくぐり抜ける。フェンスのない段差へと誘われる。

 淵に立ち、下を見る。深淵だった。見入ってしまう。煮え滾った黒い液体が、太陽のフレアのように踊り狂っている。


 そいつに従ってはならない。


《ボクは罪を背負わないといけないんだ》


 あなたは誰も殺してはいない。


《ボクは殺してしまった。きみに復讐を願ってしまった》


 わたしはそんな願いを引き受けた覚えはない。わたしは三木村真希の名において、自分自身の手で、名前のないあの子を殺したんだ!


 わたしは、六芒星の刻まれた拳で、透明の存在をぶん殴った。

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