そして地獄へ

 ハッと気づくと、男子便所でした。現実。血まみれの現実。《こんな現実があってたまるか》血生臭い匂いが立ち込める男子便所でした。不知火くんが半狂乱になって、セーラー服の少女に、殴りかかっていました。

 しかし、常人に太刀打ちできるはずはなく、あっさり躱されて、不知火くんは血溜まりに足を取られて盛大にすっ転んでいました。

 冷たい目をした大黒くんが、不知火くんに駆け寄って、手を差し伸べます。

《どうしたんだ、ボクは君を助けてやったんだぞ》

 そんな感じの大黒くんの声が、聞こえたような気がしました。

 不知火くんは彼を睨みつけ、差し出された手を取ろうとしませんでした。

《こいつだ。こいつがやったんだ》

 と、彼の意識の深層は叫んでいました。その意識の底から、ヌルヌルと奇妙な憎悪と愛情が湧き出していました。

 二律背反する意識の渦に惹かれて、切り刻まれた神威くんのパーツが不知火くんの周りにズルズル引きずられるように集合します。積み木を重ねるように足からポンポンポンと組み合わさって、足や足首、ふくらはぎに太もも、腹や胸、手首に手のひら、そして指、肩に首、輪切りにされた顔、切れ目の部分にプクプクと泡になった赤い線が走って。

 突如。

 組み立てられた神威くんの目線のあたりの空間に、ミシミシミシッと亀裂が入り、青みがかった透明のハサミが飛びだして、さらに、銀色の針が追いすがるように出現しました。

 針の穴には黒い糸がへなへなとぶら下がっていて、あたふたしながら、神威くんの眼球に、ぶつ。と、突き刺さり、身体の中を出たり入ったりして、ジグザグな縫い跡を身体の表皮に刻んでいきます。チャッチャッチャッ。とハサミが余分な糸を切り取って、あっというまに、手術が終わって、それぞれくるくる回転しながら、バターのように溶けてなくなってしまいました。

 神威くんの三白眼がギョロっと動きました。ゆっくりと肘を動かし、手を握ったり、開いたりしています。黒いテカテカしたエナメルの手袋と、ごっつい鉄板でも入っていそうな黒いブーツは、いったいどこから都合よく湧いて出てきたのでしょうか。《イドなんだよ、あいつも》と、亜門さんが言いました。腰まで届く長い髪の毛は銀色に染まって、不良の象徴である長ランの裾が、体の周囲から発せられる青い炎によって舞い上がっていました。


「か、神威くん?」


 と、不知火くんが涙をいっぱいに溜めて、口をへろへろに歪ませていました。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、怖がっているのか、笑っているのか、苦しんでいるのか、純情可憐な女の子が、好きな男の子に責め苛まれているような、めちゃくちゃアホみたいな顔をしていました。

 フランケンな神威くんが、不知火くんの頭をくしゃくしゃにかき回して言いました。

「おまえがおれを神威であるというなら、おれは『カムイ』だ」


《うふふ。うふふふ。あっははは》


 と、亜門さんがぼくの膝の上で腹を振りながら下品に笑っていました。

 大黒くんが、神威くんの亡霊を睨みつけています。

 不知火くんは、乙女のように目をキラキラさせながら、神威くんの横顔に見惚れています。

 そしてぼくは、胸のドキドキが止まりませんでした。

 人がいっぱい死んでいるのに、ぼくの心は痛くもかゆくもないのです。

 だいたい、三木村さんがバラバラになって死んでたことなんか、すっかり忘れていました。

 バラバラになってしまった彼らは同級生で、あんな酷い死に方をしたというのに。なのに。それなのに、ぼくは全然危機感を覚えず、心も痛まず、それどころか、死者に対する圧倒的優位性に、快感すら覚えてしまっているのです。

 もうダメです。だれか、許してください。だれか、罰してください。

 ぼくは罪の重荷に耐えきれず、言ってしまいました。


「こんなのやめようよ」


 クソみたいに安っぽい台詞を。

《あーあ、言っちゃった》と、亜門さんが言います。

 大黒くんがこめかみに血管を浮かばせながら「あ?」と睨みつけてきました。

 そうです。ぼくと亜門さんは便座の上でイチャイチャしていたのでした。

 気まずくなって「あは」と、笑ってしまいました。

 ぼくは亜門さんを、強引に押しのけて、大黒くんと対峙しました。気を取り直して言いました。


「大黒くん、きみの妹さんはこんなこと願ってないよ」

「はあ?」

「きみの妹さんは、悲しむよ」

「あの。キミは、殺されたいのかい?」大黒くんの唇がひくつきます。「死んだ妹が、悲しむわけないだろ?」

「きっと、天国で、悲しんでいるよ。復讐なんか誰も望んでないよ」

「おちょくってんのか?」大黒くんが、静かな怒りを発して、ぼくの胸ぐらを掴んできました。「そりゃあ妹が復讐なんか願うわけないだろ? もう妹は悲しんだり喜んだり泣いたりすることも怒ったりすることもできないんだよ。トンチンカンなこと言ってんじゃないぞ。クソが!」

「言ってんじゃねえ」と、不知火くんが横から割り込んで言いました。「神威くんをこんな目にあわせて、てめぇ。言ってんじゃねえぞ」

 不知火くんの充血した眼球が、大黒くんを抉るように睨みつけます。

「なんだ? なにも知らないくせに」大黒くんが冷たく言い返しました。

「知るか」不知火くんが吐き捨てるように言い放ちました。「人殺しの化け物どもめ」

「化け物はそいつだろうが!」フランケンの神威くんを指差して言います。

 亜門さんがヨダレを垂らして「ウキャキャ」と、笑いました。


 空気が澱んでいました。血生臭い、便所の落書きでした。もう、めちゃくちゃでした。


《なあ、変態くん》


 亜門さんが、神威くんに声をかけます。


《わたしたち、手を組まなァい?》

《唐突に、なにを言ってんだ? このアバズレは》

《まあ、そういうなよ。うちの主も、あいつを消したがってるからさ? ね?》《ちょっと待って。そんなこと、ぼくは》《しゃっ、らあっぷ》

《あんなやつらのことはどうでもいい》《カムイくん大好き》

《でも、あいつらはあんたを殺したいみたいだけど? あんたが死んだらシラヌイちゃんが悲しむぜ? だから、ね?》


《カムイくんに触れるな。このメス豚》


 と、不知火くんが無自覚に本音をもらしてしまい、亜門さんがにこやかに拳を飛ばします。が、神威くんが彼をヒョイと持ち上げて間一髪。《こいつに手を出すんじゃねえ》

《ほら、あんたの主人の首を見てみな》

 神威くんがハッと息を飲んで不知火くんを見ると、その首にヨーヨーの強靭なワイヤーが絡まっていました。《これくらいの動きに気づかないようじゃ、ご主人を守れないぜ》


 ひゅるり。


 と、ワイヤーの張力が緩まって、『SUPER-EGO』のヨーヨーに引き込まれていきます。

「ち」と、神威くんが舌打ちします。

 ヨーヨーの側面についている時計の針から、カチコチカチコチと規則正しい音が響いています。

 嵐の前の静けさでした。

 セーラー服の少女が静かな殺気を放っています。微動だにせず、胡乱な気配を発して。ぼくたちは誰一人、身動き一つできませんでした。

《こっちのご主人も、さっきイッちゃったばかりだしなぁ》

 亜門さんが、ヘラヘラしながら、ぼくの股間を下からギュッと握ってきました。「や、やめッ!」淫乱。ドS。品性下劣。ああ。ですがもう、ぼくには、彼女の下品さを否定できる余裕がありませんでした。

 この惨事を見なければ、ぼくは、この先も、可愛い女の子に殺されることを想像しながらオナニーすることができたのでしょうが、生臭い血の匂いのなかで転がっている人間の断片を見てしまっては、もう、そんなことはできそうもありませんでした。

 想像上の死と、現実の死は、あまりにも違っていました。

 ぼくは、想像のなかでは、いつだって死にたいと思っていたのに。

 いや、死ななければいけない。と、幼稚園児の頃から思っていたのでした。


 ぼくは、礼拝堂で、牧師だったお父さんの死ぬほど退屈な説教を真面目に訊いているふりをしながら、前に座っていた名前の知らない女の子のツヤツヤしたふくらはぎを見つめて、Hなことを妄想していました。お父さんは《汝、姦淫するなかれ》と言っています。お父さんは《情欲を抱いて女を見る者は心のなかですでに姦淫を犯したのである》と言っています。Hなことを妄想してオナニーしただけでも、地獄に堕ちなければならないくらいの罪だとお父さんは言っているのです。その日の夜、ぼくは布団のなかで《ごめんなさい神さま。もう悪いことは考えません》と、祈りました。祈ったはずなのに、翌日には、そんなことすっかり忘れて女の子のタイツを履いた脚を見つめてHなことを考えていました。そして、《やはりぼくは死んで地獄に堕ちるべきなんだ》と、悟りました。

 だから、セーラー服の美少女から、


「あなたは裁かれるべき邪悪な存在」


 と、言われて断罪されたとしても、それは仕方がないことだと分かっているつもりなのですが、面と向かって本気でそんなことを言われると悲しさのあまり、悔しくなって、自分で自分を否定しきることができないことに気づき、


「ちくしょう」


 と、ぼくは声に出していました。

 亜門さんが振り向いて言いました。


「安心しろ。優しく地獄に連れてってやるよ」


 彼女は、爽やかに笑いました。

 セーラー服の少女の黒いブーツの刃が、ギラッと空中に飛翔し、ぼくたちを標的にしていました。


《逝っくぞ!》


 と、亜門さんが合図して、不知火くんを肩に抱きかかえた神威くんが頷きました。

 女の子とは思えない怪力でした。

 腕が引っこ抜かれるんじゃないかというくらいに引っ張られ、同時に彼女のヨーヨーが宙を舞って、便所の壁を突き破り、神威くんがタックルしてさらに壁をぶちぬき、ぼくらはその穴から地獄に向かって落ちていき、綺羅星のごとく天から降り注ぐコンクリの破片によって少しだけ罰を受けながら、おでこの薄い皮膜がめくれて、ヌルっとした液体が頬を伝い、


《現実は痛すぎる》


 ぼくは、地獄の苦しみなんて、屁でもないと思っていたのに、それは甘いロマンチックな幻想で、実際にそれを味わうことになれば泣きわめいて、きっと許しを乞うことになるんだろうな。と、思いました。

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