混沌

「そしてわたしは、おまえに召喚された『イド』なのさ。にしし」


 亜門さんが、嘘っぽく笑います。

 不快でした。胃酸が食道を駆け上がり、頬が風船みたいに膨らんで、慌てて口を手で押さえて、ごっくん。と、苦い液体を飲み込みました。


《ぼくは至ってフツーの人間なのに、どうしてこんなことに巻き込まれなくちゃいけないんだ》

《嘘つくなよ。ほんとは特別でいたいんだろ? 刺激的な世界で、最強の主人公になりたいんだろ?》


 彼女はぼくにのしかかるように抱きついてきました。

 そのまま体を押されて、扉を閉められ、かちゃりと鍵の音がして、クソッタレな恩寵を感じながら甘美な重力に引き寄せられて、汚れたスワンの背中にお尻がくっついて、膝の上にまたがった亜門さんの体温を感じながら、吐息のような呟きを聞きました。


「おまえの思念は殺戮者を引き寄せ、おまえを殺しにくる」

「なんで? なんでぼくが殺されなくちゃいけないの?」

《おまえが異端だから》


「おらてめえ!」「このクソ虫が!」


 誰かが便所に入ってきました。


「てめえ、がんつけてんじゃねえぞ!」「なめてんじゃねーぞ。ゴミが」 

「や、やめッ《ボクはほんとは強いんだ》」


 いじめられっ子の大黒ダクロくんの声です。


大黒くん。「い、痛ッ《おまえらなんか、一瞬にして殺せる。でもボクはそれをしない》 」

名無しの少年A。「なにニヤついてんだ。てめえ」

名無しの少年B。「ぶるってんじゃねえかこいつ」


 がんがんがんがんがんがんがん。ぶつかる音。


大黒くん。「いだ、いだ、いだ、やめて!《ボクはおまえらとは違う》」

名無しの少年A。「ギャハハ《あれ? おれらなんでこいつのこと殴ってんだっけ》」

名無しの少年B。「ゲハハハ《だってムカつくだろこいつ》」

名無しの少年A。《にやけてる》

名無しの少年B。《へらへらしてる》

名無しの少年A。《おれらのこと馬鹿にしてる》

名無しの少年B。《雑魚のくせに》

名無しの少年A。《グズのくせに》

名無しの少年B。《馬鹿なくせに》

名無しの少年A。《おれらを馬鹿にして》

名無しの少年B。《許せない》

名無しの少年A。《こいつ、おれらより上だと思ってる》

名無しの少年B。《こいつ、自分だけが特別だと思ってやがる》

名無しの少年A。《許せない》

名無しの少年B。《許せないな》

名無しの少年A。《罰だ》

名無しの少年B。《そうだ。罰を》

名無しの少年A&B。《そうだ》《そうだ》


 そして、不良のリーダー神威カムイくんの、鋭い刃物のような声がしました。


 神威くん。「おい、裸になれや《社会グループにおいて異端な者がいれば、種の保存に悪影響を及ぼさないように、それを抑制せねばなりません。ただし、抑圧が行きすぎて排除的になると、これは逆に社会の枠組みを大きく壊しかねない。というのもその社会グループから一人減ると言うことは、社会を存続させるための因子が一人減るということでもあります。ですから、できるだけ構成員が減らない形で、これを抑制せねばならないのです。具体的に言えば、ちょっと輪を乱す者がいたら、次に調子づかない程度に仕置きをしてやればいいのです。そうすれば我がグループはリスクを負うことなく、円滑に存続することが可能なのです。わたくしはその長、神威でございます」


 亜門さんがニヤニヤしながら、ぼくの耳たぶをかじります。


亜門さん。《どんな感じがする?》

ぼく。《や、やめて!》

亜門さん。《素直になれよ。変態め》

ぼく。《ああ!ああ!》

亜門さん。《声だしたらだめだぞ》


 彼女は、ぼくの口を手で押さえながら、猥褻なワルツを踊るように腰をゆらします。《やらしいこといっぱいしたいのお!》と、言っているのは、ぼくの声なのか、それとも彼女の声なのか、よく分からなくなってしまいました。


《しっこ、しっこ、おしっこ》と、不知火くんの声が便所に入ってきました。


名無しの少年A。「取り込み中だ出てけ。見せもんじゃねえんだ《おれはカムイさんの右腕だぞ!》」


不知火くん。「え?《あ。カムイくんがいる》」

名無しの少年A。「おら、出てけ出てけ《おれはこいつを追い出す》」

不知火くん。「ちょ、ちょっとなにすんのさ《カムイくんの瞳は冷徹で、怖いけれど、僕はトイレに引き返す》」

名無しの少年A。「なんだてめえ。取り込み中だっつってんだろーが《排除されないために排除しなければ》」

不知火くん。「や、やめなよ!《カムイくんの長い指が、オオグロ君の首を雑巾のように絞っている》」

大黒くん。「ぐえっ《ボクは全然悔しくなんかない》」

名無しの少年A。「てめえも痛い目にあいてーのか!《頼むから、さっさとどっか行ってくれ》」

不知火くん。「先生を呼ぶぞ!《腰巾着はどいてろ。僕は神威くんにしか興味ない。カムイ君のボタンの開いた学ランの下に見える灰色のTシャツに汗が滲んでいる》」

名無しの少年A。「チキン野郎が、センコーにチクるって? だっせ《お願いだから余計なことしないでくれ》」

神威くん。「なんだ、不知火。呼べるもんなら呼んでみろ《が、しかし、教師とか警察とかいうものはあまり頼りになりませんよ。むしろ彼らはわれわれの側にいるのですから。彼らは常に多数派の味方です。たった一人の異端児を救いはしません》」

不知火くん。「僕は本気だ。先生呼んでくる。《その手で僕の首がつぶれるまで締めあげてもらいたい。大黒くんが羨ましい》」

名無しの少年A。「こいつ《カムイさんを睨み付けてる。馬鹿な奴だ。強がって》」

不知火くん。《僕はカムイくんに殺されたい》

大黒くん。《ボクはほんとは強いんだぞ。弱いフリをしているだけで》

神威くん。《なにゆえに、弱者である君が敗北を認めず、ニヤニヤしているのか、よく分かっています。それゆえに、わたくしは徹底的にきみを痛めつけなければならない》

名無しの少年A。「おいウンコしてんの誰だ。出てこいや!《俺だけなんもしてないから、なんかしないと》」ガンガンバコバコガキンガキン。


 ちんことまんこの相合傘がガタガタ揺れて、亜門さんが、ぼくの耳をハムハムしながら、《おまえはいじめられる方? それともいじめる方?》と訊いてきました。ぼくはぼくより強い者には従順で、ぼくより弱い者に対しては支配的でした。力はいかなる場合においても強い方から弱い方にしか流れないのです。

 ぼくは、被害者になったり、加害者になったり、それでも死にたくなるようないじめにはあわず、死にたくなるようないじめをしたくなるほどに退屈だったこともなく、のらりくらりと生きてきました。

 初めて大黒くんが声をかけて来たのは、今年の春。最初の体育の授業の時でした。体育の授業は憂鬱でした。50m走は九秒後半で、男子の中ではほとんどビリです。走る前はいつも胃を丸ごと吐き出しそうになり、その日も下腹部からわき上がる胃酸を抑えながら、グラウンドに出るために靴を履き替え、そのとき、靴の中に噛み終わったガムが入っていることに気がつきました。ゾッとしました。苛立ちと同時に恐怖を感じました。50m走をしなければならない緊張感と、いじめを受けてる絶望感がミキシングされ、体の中はグチャグチャになりました。

 青ざめてゲロを吐き出しそうになったそのとき、


「あ、あの」


 と、後ろから声を掛けられました。

 ビクッとなって振り返ると、魔太郎みたいな大黒くんがふるふるしながら立ってました。「ボ、ボクと友達になってくれないかな?」彼はボソボソ呟きました。唐突だな。と、思いました。でも、悪い気はしませんでした。むしろ気分がよくなりました。「友達って、そういうの、あえて頼むもんじゃないだろ?」なんてなことを嘯きながら、ぼくは手を差し出しました。大黒くんはうどんみたいな目をパアッと輝かせてぼくの手を取りました。主従関係の出来上がり。ぼくは彼をひとりぼっちから救った英雄なのです。 

 ぼくらには共通の趣味がありました。それは小説を書くことでした。ある日の昼休み、ぼくはご自慢の小説を彼に渡しました。「つまんなかったら、正直に言って欲しい。忌憚のない意見をちょうだい。批判的な意見の方が嬉しいんだ」と、これっぽっちも思っていないことを言いました。というか、ぼくの小説は完璧なので、絶対につまんなかったなどと言われないはずでした。ところが大黒くんはぼくの小説を読んで口をへの字に曲げて言いました。


「つまんなかった」


 世界がガタガタになって、崩壊しました。なんてことを言うんだこのクソガキは。いじめられっ子の癖にぼくの小説がつまんなかっただと? ふざけんな。ぼくは手渡した四百字詰め原稿用紙10枚をもぎ取って、「まあ、ぼくの小説は難しいから、君のように頭の悪い奴には分からないんだろうな。それじゃ、もうぼくには話しかけないでくれよな」彼は「あっ」と言いかけて、目に涙をためて、ぼくはそれを見て《ぼくの小説を馬鹿にした報いだ》と清々しい気分になったのと同時に、真っ黒塗りのドロ人形に成り果てました。それからというもの、大黒くんがエアガンでバラバラバララと撃たれても、見て見ぬフリをしたし、一緒に給食を食べようと言われても、他の子と約束してるからと言って彼を仲間はずれにしたし、掃除の時間に彼がほうきで尻穴を突かれて右往左往しているのを見て、みんなと一緒にクスクス笑っていたのでした。


《くはは》


 と、亜門さんが心の中で笑っていました。


《そんで、おまえは罰を受けたいっての?》


 ぼくは心を噤み、思考を押さえ込んで思念が漏れないようにしました。すると彼女は意地悪に、ぼくの唇に口づけをして、舌を突っ込んで、猿のように腰を振りだして、言いました。


《地獄に逝っちゃえ》


 栗の花の匂いがして。

 閂がはずれ、ガコガコパコパコ揺れていた卑猥な扉が開いて、便所でエッチぃことをしていたぼくたちの姿が、みんなの前に晒されます。

 大黒くんの顔がボコボコに殴られてトマトのように腫れていました。

 腫れあがった肉に埋もれたつぶらな瞳と目があってしまいました。


《どうしてボクを見捨てるんだ?》


 大黒くんの憎悪に満ちた声がするのと同時に、


 ばつん。


 と、音がして、

 大黒くんの顔面に突き刺さろうとしていた神威くんの握りこぶしがボトッとサニタリウムの緑に落っこちました。


「あ?」


 水平になった手首を、神威くんは口を半開きにして見つめ、

 不知火くんが真っ先に床に転がった神威くんの手の塊を目で追って、

 二人の子分もそれに続いて目で追って口をあんぐり開けて、

 大黒くんだけが、セーラー服の少女の、足を見つめていました。

 黒いブーツの踵から鋭い刃の突き出した。

 鈍い灰色に光った、その靴を。

 神威くんは、泣きも叫びもせず、目の前で不敵にニタニタしている大黒くんを睨みつけていました。

 世界は神の望み通りに動き出すのです。

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