純然な愛

 お腹を壊して途切れ途切れにウンコが出るような時は、その度にジャブジャブ水を流します。というのも、ウンコの臭いがトイレに充満するのが嫌だったからです。誰かがトイレに入ってくる前に、一刻も早く、その証拠を隠滅したかったのです。それなのに、


「おらおら。返事しろ。さっさと出てこい」《お父さん、お父さん!》


 亜門さんのぶっきらぼうな声が、チンコとマンコの相合傘で埋め尽くされた扉の向こうから聞こえましたが、ぼくは自分の体内から生まれたウンコの臭いを、穢れなき美少女に知られてしまい、何もかもが嫌になって、だんまりを決め込みました。


「さっさと出てこねーと水ぶっかけるぞ!」《わたしは地下室にガソリンを撒いて火をつけた》


 扉の下の隙間から、彼女の上履きが見えました。三日月の先端が赤く、穢れのない白い上履きが。


「おい! 便所でシコってんじゃねーぞ!」《父の最後の思念は時間を超越し、純然な自我を持つ男の精子となって、ある女の卵子に入り込み、》


 そこは教会でした。穢れのない純白のベッドの上で。ハニーサックルの匂いが立ち込めるドーム状の狭い空間で。その天窓から射し込む光が二人を照らして彼らを祝福しています。男は牧師でした。完璧主義者でした。あらゆる悪意に敏感で、これっぽっちの過ちも許せませんでした。道端に落ちてる千円札をこっそり拾ってポッケにしまうクソガキにすら、天罰をくだしたいと思うほどでした。聖書には、寛容であれ。と、書かれているのに、男はちっとも寛容になれませんでした。男は寛容になれない自分を許せませんでした。彼は自分を愛していないので、他人を愛することができませんでした。そんな愛せない男が、女と契りを結ぼうとしていました。今、目の前にいる、光のヴェールに覆われた三つ編みの女と。男は女の脇の下に接吻しました。そして、彼女の甘い汗のにおいを感じたとき、世界が突然、紫色の暗い光に包まれました。雨粒の叩きつける音がはじまり、一瞬。白い光が視界を埋め尽くし、遅れて黄色い神鳴りが耳を貫きます。男は苛立ちを覚えました。《穢らわしい。これは純然な愛ではない。僕は彼女を真実に愛しているのではない》男は己の醜さを恥じました。「僕はきみと結婚できません」男はつぶやきました。「汗臭い女は嫌い?」「そうじゃないんです」「じゃあ、なぜ?」「愛せないからです」「わたしはあなたを愛してる」「それは嘘だ」「なぜそう思うの?」「人は人を愛することなどできない」「それでもあなたを愛してる」「錯覚だ」「真実なのに」《君は僕の何を愛しているというのだ》《あなたの血色、美しい目、背の高さ。知恵に秀で、知識に富み、思慮深い、その精神を》《罪人め。呪われるがいい》「どうか僕を憎んでください」「あなたのそういうところが嫌い」「もっと言ってください」「変態」「もっと」「むっつりスケベ」「殴ってもいいですよ」女は男の右頬を殴打します。男はすぐさま左頬を差し出しました。すると女は「てめえふざけんじゃねーぞ」と、下顎にフックをかまし、白目をむいてひっくり返った男に馬乗りになって陰嚢を掴みます。「てめえはただ自分のことが好きなだけじゃねーか。自分を嫌ってる自分に悦に入って酔ってるだけなんだよ。ナルシストが。笑わせんじゃねーよ。何が愛だ。何が罪だ。てめえの罪悪感を押し付けてんじゃねーよバーカ」「ああ痛い痛いやめて!」「死ね潰れろインポになれ!」「ああ!愛してる愛してる愛してる!」「あんたなんか大嫌い死んじまえ!」「好きです!好きです!大好きです!」「きらい!きらい!大きらい!」《Do You Love Me?》《YES》

 ぐちゃ。と、音がして、男は存在理由を喪失し、女は赤子を身ごもりました。


《でたらめだ》


 ぼくは、ここにいることが耐えられなくなり、閂をスライドして猥褻な落書きだらけの戸を押しました。

 彼女が、扉を引っ張りました。

 顎を皺くちゃにして、歯を食いしばって、泣き笑いするようなブサイクな表情をしていました。

 亜門さんは、ぼくの両の頬に手を添えて、言いました。


「おまえは、この世界の救世主なんだよ」


 恥ずかしかったのです。

 だから、視界の境界にあった鏡に目を逸らし、ぼくの頬は、傷ひとつなく、つるつるで、綺麗だな。と、思いました。

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