悪魔

 静寂。

 けれども、黒板の上部に掲げられた時計の秒針の音だけは、頭の中で反響を繰り返し、破裂。三つ編みの美少女がバネのように弾けて、シルエットに突っ込んでいき、ヨーヨーが猛烈な勢いで回転しながら、空中を乱舞。Braid三つ編みBladeがぶつかりあう響音が。

 グラウンドから立ち昇る運動部の暑苦しい叫声。

 逆光の朝焼けは蜜の色に燃えて、二つの影絵を教室の窓シアターに映し出し、猛攻。追撃。

 ヨーヨーの強靱なワイヤーがシルエットの美脚に襲いかかって、がんじがらめに絡みつこうと、遠心力を増しながらグルグルと距離を縮め、凶悪なエゴの塊が太腿の骨を破壊する寸前。

 セーラー服のシルエットは、空中に舞い上がって、フィギュアスケーターのように、逆回転にスピンしながら、その束縛から逃れたのでした。

「やるじゃねーか」

 三つ編みの戦闘美少女は笑っていました。

 セーラー服の少女の表情は、黒い影に覆われているため、ほとんど見えませんでしたが、三日月になったジグザグの白い歯だけは、はっきりと見てとれました。


《あなたたちを決して許さない》


 鋼鉄のように冷ややかな声が黒い影から発せられ、白い歯は笑っているにも関わらず、あまりにも怒りに満ちた響きだったので、ぼくは畏れを感じ、慄きのあまりに視線をどこへ持っていけばいいのか分からず、空中に目を泳がせて。

 ようやく焦点があったときには、少女の黒い影は消えてなくなっていました。

「ち」

 と、誰かの舌打ちする音だけが、静寂に置いてけぼりにされました。


 ぼくは心底、嫌な気分になり、みんな放ったらかしにして、見て見ぬ振りを決め込んで、さっさと逃げ出してしまおう。こんなのは、次に教室に入ったやつがなんとかすればいいんだ。と、自分に言い聞かせ、口を噤んだまま、教室を出ました。《なにもなかった。今、ぼくはなにもみなかった。なにもなかったはずだ》

 そして、ぼくは、ビビってなんかねーぞ。と、肩を怒らせ胸を張り、鼻クソみたいなプライドをアピールをしながら優雅に廊下を歩き抜けようとしましたが、だんだん足は速くなり、このまま一気に昇降口まで《そうとも! 決して怖くて逃げるわけじゃなくて》


「おい」


 心臓の裏側から、男とも女ともつかない、鋭く刺すような声がしました。

 急ブレーキがかかったように、ぼくの足は勝手に止まりました。

「逃げるのか?」

 ぼくは、振り返ることなく、――違う。家に忘れ物を。と、いいました。

 そのときの声をレコーダーで録音して再生したら、いかにも恐怖に震えた卑屈極まる掠れ声になっているかもしれません。でも、喋りながら脳内で再生されているときのぼくの声は、透明感のあるヒロイックな声でした。


 後ろから肩を掴まれて、ぼくは目を瞑ったまま、それを振り払おうと、がむしゃらに暴れて、両手を前に突き出しました。そしたらムニュッと弾力のある何かに触れて、びっくりしてすぐに手を引っ込めたのですが、両肩が潰されんばかりに圧迫されて、「目を開けろ」という声がしました。

 絶対的な声に歯向かえず、目を開いた瞬間、鼻っ面に頭突きを、1発、2発、3発。食らって、顔を両手で隠したくとも腕ごと丸ごと両肩をがしっとホールドされていたので、倒れることすらできず、もう1発、容赦ない派手なやつを食らって、そんな哀れな自分の状況を空想するとなんだか快感になってしまって《ああ。もっとやって!》と叫びそうになるのを、ぼくはグッと堪えました。

 鼻から熱いものが垂れ、上唇を伝って口の中に鉄の味が広がります。

 三つ編みの少女。

 中学生の頃の母の写真にそっくりな。

 彼女は、ぼくの両耳を塞いで、何か言いました。


「×× ×× ×× ×××××」


 ぼくは、なんだか恥ずかしくなって、女に興味ないよ。という感じで、プイっと目をそらせました。でも、ちんこは勃起していました。ゾッとしました。

《女というものを、そういう風にしか見ていないのか?》

 ――おぎゃっ。

 蹴りあげられて、金タマが口から飛び出しそうになりました。

 リノリウムの緑の廊下に昏倒したぼくは首根っこを引っ張られ、ズルズルズルと引きづられ、あの地獄みたいな教室に引き戻されて背筋が凍りました。


 が、あれは、やっぱり、現実じゃなかったのです。


 2年4組の教室に、輪切りになった三木村さんは、いませんでした。

 机と椅子がいつもどおりに整然と並んでいて、いじめられっ子の大黒くんの机には、いつものように『死ね』『チンカス』『タニシ野郎!』と落書きされていました。

 けれども、ひとつだけ辻褄が合わなくて、頬から顎にかけて、痛いのか、痒いのか、焼け爛れるような感覚が、現実の証として、残っているのです。

《誰なんだきみは》

こっちが聞く前に、彼女は言いました。


「亜門あすか。転校生。今日から《死ぬまで》ヨロシク」


 まだ、朝のHRも始まってないのに、転校生の自己紹介は、なんとも身勝手に終わってしまいました。

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