気高い幻想

 ――おい!

 

 ぼくは怒鳴り声をあげました。

 それは、反射的な防衛反応でした。

 恐怖を誤魔化すための怒りでした。

 次の言葉が、喉の奥に引っ込んで、出てきませんでした。

 意志に反して、膝がギャハハと笑っているのです。

 ペニスがズボンのチャックをつん裂くばかりになって、先端がひん剥けてしまいそうな痛みでキュッとなり、否が応でも前屈みになってしまい、ちょうど目線がその地肌の透ける黒いストッキングと白いソックスの境界だったので、ますますどうにもならなくなり、そのまま前のめりに倒れ、しかし、その直前に、何かが、左頬を掠めました。

 ゾッとするような響きでした。頬の皮膚の上で何かがもぞもぞ動いているのを感じて、咄嗟に、手で触れてしまいました。

 手で触れたところが、ズルッと剥け落ちました。


《言うな! それ以上言うな!》


 と、ぼくの脳みそにパラサイトしている『気高い幻想』が絶叫していましたが、惨めな本能はそいつをメチャクチャに打ち壊して――痛ァ、い。痛ッ! いッたああああああああああああああああああい! 何でだよぉ。なんで!

 ゴロゴロのたうちながら、終わりの世界を視ました。黒光りする鋼鉄のシューズの踵から飛び出したジグザグの刃。それは微細に振動しています。その傍らで、バラバラになっている三木村さん。体操着に包まれた巻き寿司みたいな胴体の断片。彼女は今朝、朝食を食べたのでしょうか? 綺麗な女の子は、うんこをするのでしょうか? ぼくは何一つ知りません。何一つ知らないまま、終わります。真っ黒な影になっているセーラー服の少女に殺されて終わります。

 振動で熱せられたブレードに、重心MAXな状態で攻撃されると、人間の身体は、どうなってしまうのでしょうか?

 好きだった三木村さんのことを考えて泣きたくなりました。

 いったい、何が楽しいのです? 《ねえ、ジグザグに刻まれるぼくたちの姿を観て、何が楽しいのですか?》

 少女の踵が大きく振り上げられて、パンツが丸見えになりました。しかし、ぼくはパンツに興味がありません。

 だんだんと、自己憐憫が心地よくなっていました。

 ぼくは、この状況に及んで、極めてクールでした。

 校庭から響いてくる、いつものみんなの声が、とても爽やかに聞こえます。

 こんな状況なのに教室の天井は眩しくて、何にも怖くなんかないのです。

 シルエットの少女の表情を、ぼくはハッキリ認識できなくて、白い綺麗な歯並びしか見えないけれど、彼女が美少女だといいな。と、思いました。

 そうやって、ぼくのロマンチシズムは痛みという現実を忘れさせようと、必死になっていました。

 仰向けに大の字になって天井を見つめながら、ペニスを握りしめて、ぼくは祈ります。


《もっと、オナニーがしたい!》


 そして。


 電撃の如く震踏する刃が、陰部に向かって振り下ろされたとき、脳髄が炸裂するような、今まで味わったことのない絶頂を感じ、涎が口角を伝って零れ落ち、眼球が前頭葉の方向に引っ張られました。


《ぼくは、生きている》


 物凄い勢いで回転しているヨーヨーが、ぼくの股間を守ってくれたのです。そのヨーヨーの側面には《SUPER-EGO》というロゴが入っていました。


「チィッ」


 セーラー服を象ったシルエットは、焦りと苛立ちを露わにしてパッと翻り、東中のブレザーを着た三つ編みの少女と距離を取っていました。

《昼は3歩、夜は6歩》

 女性自衛官だった母が、不審者に出くわしたときの対策を教えてくれたあの日のことを思い出し、牧師の父さんと結婚して、ぼくという俗物を産んだ母さんは、マリア様のような人で、にもかかわらず教会の十字架に磔にされて頭部が切断された状態で凍りつくような冬の礼拝堂で円球状の高い天窓から射し込む光の線が首のない母さんを明るく照らしていたその日の前日にぼくは母さんにベットの下に挟んで隠していたエロ本が見つかってしまって母さんは淫らな心で異性を見てはいけませんといいその声音は哀れな罪人に対する慰めコンソレーションのような響きでその瞳はあまりにも純潔でぼくは目を合わせることができなくて、


 今、ぼくは再び、自己の所有する肉体に対する、死にたくなるような居心地の悪さを覚えていました。

 

《なんで、ぼくは生きているのだろう》


 シルエットに対峙している三つ編みの美少女は、死んだ母にそっくりでした。

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