第21話「静寂と私」
外に吹く風よりも、屋内に流れる時間を愛する。
小山内 誄はそんな内向的な少女だった。
ただ毎日が平凡に過ぎてゆくことを望み、その希望を鏡に映し取ったような人間だった。
学校から帰ると、珍しく小山内家は騒然としていた。
誄の遅い帰宅を誰も咎めようとしない。
一体何が起こっているのか。否、起こったのか。
両親は誄に説明する気は無いらしく、何処かへ電話したかと思うと忙しく身支度を整えてから慌てて出掛けてしまった。
誄はその様子をまるで喜劇芝居でも観ているかのように眺めながら、眼鏡の奥で瞳を緩ませるのだった。
制服から簡素だが清潔な部屋着に着替えると、誄は用意された夕御飯を手早く済ませる。
家の中でも三つ編みを解かないのが彼女らしい。
そして二階にある自室へ上がると、行灯を点けて膝を抱えた。
すると何だか急に可笑しくなって、誄は控えめな調子の笑い声を紅引かぬ薄い唇の間から漏らすのだった。
先程の両親の慌てぶりを思い出したのだ。
「あんなに騒ぐことなんか、何も無いのに……」
自分の中に、何か別の意識のようなものが棲みついていることを誄は知っている。
ソレは一ヶ月くらい前に自分の中へやって来た気もするし、ずっと以前から居たような気もする。
曖昧になってゆく記憶と意識の中で、不意に壁へと伸びた影が揺れた気がして誄は口を開いた。
「おかえり。
誄は行灯の橙が伸ばす自分の影に向かって囁く。
すると影が不自然に揺れながら、誄に言葉を返してくる。
『お前の結婚相手は不味かった……』
さながら二重人格のように、どちらの声も誄の喉を通して出ているのだ。
傍から見れば、一人二役の奇妙な会話である。
影が誄の声で
その声には黒いペンキを塗りたくったようなネットリとした感覚があって、聞く者の耳の中にこっそりと闇の耳鳴りを残していく。
「何?」
『人と云うのは不思議な生き物だな』
「そう?」
『例えばお前だ。最初は我のことを恐れていたくせに、今では婚約者を我に喰わせる始末……』
影が揺れるたびに誄の表情が、人と人で無いものとの間を行き来する。
「だって私、本当は結婚なんてしたくなかったのだもの」
誄は「喰う」という『影』の表現が未だに好きになれない。せめて「消す」と言って欲しい。
「それを云うなら、アナタのほうが不思議だわ。本当は何者なの?」
『我は何者でも無い。神でもなければ鬼でも無い。
この質問はニュアンスを変えて何度も誄から『影』へと投げかけられたものだったから、『影』は
『影』は名前を付けられることを嫌ったので、誄は「アナタ」と人称代名詞で呼ぶ。
『影』も誄のことを「お前」と呼ぶ。
誄のときは
それでも誄には、どちらが本当の自分か分からなくなるときがある。
転入生は『影』そっくりの絵を黒板に描いて「鬼」と言った。
誄としては、自分の中に棲むモノが鬼であろうと何であろうと構わない。
クラスのイジメっ娘を
誄が不安に思うこと、不満に思うこと、すべてを取り除いてくれたではないか。
重要なのは「私の中のアナタ」が邪魔な存在を取り除いてくれるということ。
誄にとっては、それだけのことが現在の奇異なる状況のすべてを容易に肯定してしまえる程の説得力を持ってしまっていた。
『我はお前が嫌いな奴、嫌がること、すべて取り除いてやると約束したからそうしたまで。その代償にお前は我の棲み人となる』
そういう契約だった。
再び誄が薄い笑い声を上げた。
『何が可笑しい?』
「だって、蘭丸さんの前でのアナタときたら……」
今日の午後のことを思い出す。
『影』は誄と蘭丸が会話をしている最中、ずっと震えていた。
震えながら誄の内の中へと隠れようと必死だった。
誄には蘭丸が何者であるのか分からないから、その行動が滑稽に感じられたのだ。
『オマエが昼間話しかけた黒尽くめの男は妖殺しだ』
「あやかしごろし?」
『奴の通り名だ。我のような闇に棲むモノを斬ることを
吐き捨てるような言い草は、しかし誄の声で闇に溶ける。
『そんな男が、我と契約するような者を相手になどするものか。軽蔑の対象にはなっても、好意の対象になるわけがない。諦めるが身のためだ』
影が愉快そうに嗤ってから、誄は無口になった。
口数無く、影を見つめる。
「それじゃあ、蘭丸さんはアナタを殺すことが出来るわけね」
誄が意味あり気に笑む。
笑いというには多分に
『妖殺しに我を殺して貰うつもりか?』
少女は闇を身に宿すようになってから、
けれどもそれは変わったというより、本来の彼女自身が最初から持ち合わせていた気性であったのだろう。
『そんな望みは捨てることだ』
影の口調は他人事のようだ。
『我には実体が無い』
故に殺せぬ。
『我には名前が無い』
故に縛ることも出来ぬ。
『故に我は不滅なり』
闇が誄の中で愉快そうに牙をカチカチと鳴らした気がした。
チカチカと行灯の橙が揺れる。
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