情欲を掻き立てる青
去って行く二人の後ろ姿を眺めていたサルマンの目に、別の光が混じっていた。
「美しい」
サルマンにそう言わしめるだけの美貌と度量を示した女を、欲しいと思った。
そしてあれこそが古の時代を
「殿下、一旦お下がりください!」
「欲しい」
訳が分からないと言った様相の従者が、サルマンを見上げていた。
「あれが欲しい」
かつてイブティサームに抱いた恋であるとか、愛であるとか。そういった類の情愛を揺すぶられるものに近い物をアズライトに対して感じてもいる。
いいや、近くはあるだろうが愛や恋と言った浮ついたものに似ていて、それそのものではない。強いて言えば物に近しい情か。あれが欲しいとか、これが欲しいとか。そう言った子供じみた感情だ。
であるが故に、強烈に心を揺さぶられる。
サルマンは自嘲した。ああそうだ。これは、愛や恋だのと言った人間の高尚な情愛とは本質的に違う。最も原始的な所有欲であり支配欲だと。
「俺が
思わず囁いた言葉に従者が目を剥いているのが分かった。
「殿下、あれはいけません。あれは魔性の者。そのような感情はお捨て下さい」
「あれは人ではない。物だ。物を欲するのは、そんなにいけない事か?」
「……趣味が悪うございます」
従者が、「ああ、この場にダリウス様がいらっしゃれば、殿下の
「あれはいけない」と。
しかし俺はダリウスではないし、こやつもダリウスではない。
「欲しいと呟くのは罪ではあるまい?」
「そうではございますが、国王陛下がお許しになりません」
「では認めさせれば良い」
キッパリと言い切ってしまったサルマンに、従者は今度こそ口を閉ざしてしまった。
「罪あるのは、我が情欲を掻き立てるあの人形の方にこそある」
人と
触れてみたい。
結わえていたあの青い髪を引き、硝子のような感情を
ああ、皮膚の下はどうなっているのか。やはり人と同じ血の色をしているのか。あるいは神に造られた人形らしい金の血の色をしているのか。
血は温かいのか、それとも冷たいのか。
その下の肉は。心臓は。骨は。
ああ、あれの全てを暴いてやりたい。
知らず、舌なめずりをしたのを
「殿下、地鳴りが酷くなっております。兵達を急ぎ下げましたゆえ、殿下もお早く」
地が大きく揺れている。攻城槌を引いていた馬達が怯えだし、横転する馬や槌まで出始めている。一旦兵を下がらせなければならない。なんて惜しい事だろう。サルマンは増大してゆく欲を鎮めようと息を大きく吐いた。欲は収まったが、下腹部で
「全軍、引き上げるぞ」
それを聞いた従者の目が生気を宿した。待っていたとばかりに号令兵の方へ駆けてゆく。サルマンは馬首を本陣の方へ向けさせると、半身だけ名残惜しそうに硝子谷を振り返った。
谷底奥深くで巨大な獣が寝返りでも打ったような揺らぎが続いている。
早く立ち去らねば、じきに立ってすらいられなくなるだろう。
その最中に見た。
谷の出入り口を塞いでいた赤い壁が一瞬揺らいだのを。
馬を走らせながら、後ろを振り返る。
谷が動くのが見えた。
赤く輝く谷の斜面が地に滑り落ちてゆく。
谷の斜面であったものは、大量の土煙を大空へ吐き捨てながら中央街道と呼ばれていた道を塞いでいく。
それを、鼻で笑ってやった。
大方、我が軍を谷の中腹まで誘導してから斜面を崩すつもりだったのだろうが、機会が早すぎた。我が軍は壁の一枚すらも突破してはいない。それどころか谷の中腹にまで至っていないのだ。それでも仕掛けを作動させたのは何故か。
「あぁ、そういうわけか」
最初から我が軍の
「なるほど。だがしかし道は閉ざされてはいない」
崩れた硝子谷を呆然と眺める従者を大声で呼んだ。
「早馬を出せ。ダリウスはそのまま侵攻を続け、ルキウス他二名の将校については、西の道と東の道から侵攻せよ!」
「しかし殿下、東の道は兎も角、西の道は侵攻には適さぬ道だと」
「言った。しかし主要街道である硝子谷が、ああなってしまった以上選んではおれん。西の道を行く者には、
従者が、ああ、といった顔つきで頷いた。
「東の道でいくらでも手に入ると」
意を察した従者へ、サルマンは微笑んだ。
「奴らが仕掛けているものを
貴人へ対する例をしかけた男を睨み、
その背中を見送りながら、サルマンは馬首を東の道へと向かわせた。
当サイトに掲載されている写真、イラスト、文章の著作権は早瀬史啓に帰属します。無断での複製・製造・使用を全面的に禁止します。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます