皇子と将軍1
翌朝、曇天を
それをダリウスは窓の外からじっと、眺めていた。
「向こうは確か、北カムールか」
赤い壁の外側に、カムールの戦士達が残されているのだろう。
「まさかに、まさかであったなぁ」
数年前よりも随分と広くなってしまった額を叩く。ぺちん、と、小気味いい音がした。正直、思ってもみなかった、というわけではない。カムールの戦士達の中に魔族がいるのかもしれないという可能性は、テベリウスの死を報告されたときに
(しかし、何も考えていなかったわけでもないがな)
ダリウスは
(さて、手の傷もほどほどに癒えてきた頃合いではあるが……)
暇を持て余すようにざっと、部屋の中を見渡した。体の大きいダリウスにとっては狭苦しい事この上ない部屋だが、一般的な平民が持ちえる様な物ばかりが置かれている。ダリウスにとっては小さな寝台が一つに、足の低い文机。カムールの歴史や宗教について書かれている書物が置かれた本棚が一つに、替えの衣類の入った籐籠の衣装入れ。医術師が置いて行った薬草箱から湿った薬草の臭いが部屋の中に漂っている。
出入口は穴のように小さいが隣の部屋にも繋がっていて、そこには洗面所と便所がある。外の見張りへ望めば湯水の張った桶と手拭いを渡されて身体を拭くことも出来た。そのうえ、傷の手当てをする医術師が毎日兵士と共にダリウスの元へ訪っては、数時間ほど雑談をして楽しませてくれる。
食事は日に二回。初めの頃は一日に一回。小麦の粉を練って焼いた平たいポロが二枚と、乳臭いラダしかなかったが、日を追うごとに運ばれてくる食事の量と種類が増えた。食事の回数も朝と晩の二回になり、時折菓子のような軽いものを牢番が与えてくれるようになった。この頃になるとダリウスは、
(こやつら、
と、思うようになった。兵站を整えたということはつまり、籠城戦の準備が整ったということでもある。
(殿下が硝子谷に着くまでには急がねばならんか)
サルマン殿下に助け出された大将軍ダリウスなどお笑い草だ。それよりも頭が痛いのは、砦攻略だ。急峻な岩山に囲まれた砦には見張り台替わりの岩山が連なっており、そこに投石器を設置して主要街道から攻めて上がってくる敵に備えるように建てられている。滑落しやすい斜面を利用しての投石は、谷を攻め上がろうとしているダリウス達にとっての脅威になる。投石器を避ける方法もあるが、谷の道は主要街道を除けば狭く複雑に入り組んでいる。とても大部隊を率いて行ける道ではない。
(唯一部隊を率いる事の出来る主要街道は、既に押さえられてしまった)
あの赤い壁さえ無かったら。いいや、あの壁さえ壊せたら。
ダリウスは天井を仰いだ。そういえば、あの壁を現出させた魔族の女。どこぞで見たような気がする。青い髪で、金色の瞳の。
(あの者、どこかで……)
何処かで出会った。何処で出会っただろう。つい最近と言う話ではない。大分昔だ。まだアル・リド王国とアル・カマル皇国が戦争を始める前に一度、似たような容貌の者を見聞きした覚えがある。しかしその者は男で、女ではなかった。思考の奥に身をゆだねようとしたダリウスの耳に、扉の外から微かにダリウスを
「うむ、入られるが宜しかろう」
部屋に入ってきた人物は、イスハークの民族衣装をまとった細身の中性的な者だった。彼ないし、彼女はダリウスへ軽く礼をすると、流れる水のような声色で言葉を紡いだ。
「私はアズライト。ルシュディアーク殿下の配下でございます」
その言葉にダリウスは一瞬目を細めた。
(青い髪の、金色の目の女)
あの時の魔族であった。
「それで、アズライト殿は私に何用かな」
「ルシュディアーク殿下がダリウス様へ。御迷惑でなければ、共に語らいたいと仰せです」
ダリウスは眉を上げた。一国の皇子が他国の、それも手傷を負わせた将軍に何の用か。しかし、今ここで何事かを考えていてもらちが明かない。ダリウスは重々しくうなずいた。
※
アズライトと牢番の先導でダリウスが部屋を出ると、そこは岩棚住居が軒を連ねていた。そこを歩いていると何度か兵士やカムールの戦士達とすれ違った。普段は兵士達が使っているらしい。アズライトはやってくる彼らを器用に避けながら、後ろを歩くダリウスへ「こちらの階段を上がってください。次は通路を右に」などといいながらそつなく案内をする。その冷めた声に緊張感も捕虜に対する侮蔑も感じられなかった。人を案内するという目的のためだけの声掛けに徹している。そう思わせる彼女の後姿を眺めながら、ダリウスは先程からのアズライトへの既視感の原因にようやく思い至り、両腕に鳥肌が立つのを感じた。
(まさか)
頭の片隅に残っていたかつての
「こちらです」
感情の無い声がダリウスを思考の中から引きずり上げた。はっとするダリウスを、扉を前にしたアズライトが
「殿下、ダリウス様をお招きいたしました」
部屋の内側から、「入られよ」という声があった。年若い、あの時に出会った時と同じ若々しい声だった。
「アル・リド王国軍将軍ダリウスにございます。殿下直々のお招きにあがり、参上させていただいた」
ダリウスが部屋に入ると、既にルシュディアークは部屋の中の長椅子に腰を掛けていた。ダリウスを見ると少しだけ顔をほころばせて対面にある長椅子を指した。
「さて、そなたに何をさしあげようか。ラダにするか、それとも紅茶にするか。もう少し強いものでも良いが」
どうする?と、普段人に話すように訊ねてくるものだから、ダリウスは少しだけ困りながら、
「貴国では紅茶の良い産地があると聞き及んでおります」
「モルテザの茶葉だな」
「それに少し強いものを混ぜていただければと」
ダリウスは気安過ぎたかとは思ったが、それだけで激昂するような皇子ではないらしい。ルシュディアークは一つ頷くと、ダリウスと共にいた牢番の一人に茶を持ってくるように命じた。ダリウスは長椅子に腰を掛けた後、言った。
「……失礼ながら殿下、私は明日、殺されるのでしょうか」
対面に座ったルシュディアークが微笑んだ。
「それはない。安心してくれ」
ダリウスは目を丸くした。普通、捕虜というものは情報を聞き出した後に殺す。生かしておいても益が無いからだ。それがダリウスにとっての認識だったのだが、ルシュディアークは少し違うらしい。
「では、
ルシュディアークの赤い瞳が、微かに揺れた。
「まだ、そなたを生かしておかねばならない理由があるとでも言おうか」
「この老いぼれに心残りでも」
「あるとも」
ルシュディアークはほんの少し溜息を吐いて、切り出した。
「そなたとの一騎打ちに邪魔が入ってしまった。これはそなたへの侮辱にも等しいかもしれんが俺、じゃなくて私にも予想外でな」
「存じております、殿下」
ちら、と、ルシュディアークの背後に立つアズライトを見やる。
「魔族がおられるとは存じませんでした」
「盲点だったな」
牢番が紅茶の入った木杯を持ってくると、それを盆ごとダリウスの前に置いた。香しい紅茶の香りの中に酒の匂いがふんわりと香った。ダリウスと同様にルシュディアークにも木杯が渡されたが、そちらには酒精が入っていないのか、酒の匂いはしなかった。ダリウスは渡された木杯に一つ口をつけ、温かな茶の味をほんの一瞬楽しんだ。
「して、どう思った」
「よくおやりになられたと、申し上げましょう」
ほう、と、ルシュディアークは目を細めた。ダリウスの言葉の先を伺っていた。
「しかしながら、いささか
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