赤光よ、今一度

 その日、いつもと変わらぬ景色に異変があった。

草木の無い荒涼とした大地に黒い点が現れた。それらは徐々に点から帯となり、黒々とした山となった。馬のいななきと戦装束いくさしょうぞくが奏でる不協和音が微かだがはっきりと風に乗って耳に届く。

来る。

誰しもが彼方へ目を向ける。

来た。

黒々とした山が掲げる軍旗に息を詰めた。

荒んだ野の向こうに、青地に銀で縁取られた双頭の竜旗が翻る。


「ダリウスが来た」

 

 その言葉は投石した水面みなものごとく人々の間に波紋を広げ、ルークの耳にも届いた。


(くそ、あと少しだったのに)


 振り返れば、二千年前の大戦で鉄女神マルドゥークの一撃を受けて形作られた硝子の谷があった。その谷は大きく抉られた大地のへりに暗緑色の竜の鱗のような硝子が幾重の層を形成してへばりついている。長い間の風雨と砂風に晒されているはずなのに、明るい日差しの下で宝石のような輝きを谷全体が放っていた。谷だけではない。草木の無い大地のそこここに、大小の硝子の石が転がって輝いている。この谷をあと二日、駱駝らくだで通り抜ければ第一の砦であるアムジャードがある。そこへ行けば援軍を得てようやくアル・リド王国軍と正面切って戦えるはずだったのに。

アル・リド王国軍はカムールの砂漠を越え、硝子谷までやってきている。アムジャードの連中は援軍を寄越すどころか便りの一つも寄越してこない。憤りが、胸に溢れた。


「バラク、アムジャードにいるニザルへ言伝を頼みたい」


「援軍のことでしょうか」


「門の前で俺が来るのを待っていろと伝えておいてくれ」


 バラクの表情がぎこちなく歪んだ。


「……それだけ、でしょうか?」


「二度は言わない」


 バラクは蒼白のまま駱駝らくだに鞭を入れると、アムジャードの方角へ駱駝らくだを走らせた。その背中を見届けると、ダリウスの軍勢を再び見据えた。

軍勢の前列には歩兵がいた。自らの身長の倍ほどもある長槍を構え、一斉に歩を進めている。一糸乱れぬ歩みは、指揮する者の統率力と、部隊の練度を如実に表していた。


(ダリウスの率いる兵は、これまで相対したどの敵よりも強い)


 見れば分かる。連中の足取りには、戦い慣れした気構えに強い自信が乗っているのだから。


(そんな連中の不意を突くのは難しいかもしれない。でも、俺達に勝機が全くないわけじゃない)


 硝子谷は勝機を導くための布石がいくつかある。

例えば大地。アル・リド王国軍はカムールの砂漠越えをするにあたり、馬の靴ともいえる蹄鉄ていてつを履かせていない。熱砂の上を蹄鉄ていてつを履かせたまま長時間歩かせれば熱くなった蹄鉄ていてつで馬の蹄が痛むからだ。けれど、硝子谷では硝子の小石が散乱しているせいで、蹄鉄ていてつを履かせないほうがかえって馬のひづめが傷ついてしまう。とはいえ、ダリウスも暗愚ではないだろう。馬に蹄鉄ていてつを履かせるくらいのことは既にしているかもしれない。だが、履かせたところで馬の走りはそう変わらない。どれほど屈強で練度の高い騎兵でも、硝子の小石がそこここに散乱している場所で馬を全力で走らせることは出来ないのだから。

しかし、こちらは違う。駱駝らくだの足の裏は馬のようなひづめではなく獣の肉球のようなあつあつとした肉の皮膚に守られていて、硝子化した小石を踏んでも傷つかない。足の裏の肉が分厚いぶん痛覚が鈍いため、馬のように足を傷つける心配がない。つまり、思う存分硝子の谷を走り回れる。その上、カムールの駱駝らくだ達は硝子谷の環境に慣れている。


 そして、この谷の両側にへばりつく硝子化した岩。

 

(上手く扱えば、あのダリウス相手に勝機を見出すことも出来るかもしれないな)


 隣に控えるアズライトに顔を向けた。彼女は馬の背に乗り、頭上の空を厳しい眼差しで見上げている。その横顔が何処となく憂いているように見えて、ほんの少しだけ心に罪悪感を催した。じわじわとやってくるそれを振り切って、命じた。


「これから硝子谷の中腹へ行き、この前お前が指名した連中を二手に分けて谷の両側に配し、斜面を崩す罠を仕掛けて欲しい。各連中の配置と配属はお前に任せる。やれるか?」


 返事がない。


「アズライト」


 空を見上げていたアズライトが、微かに口を開いた。口ずさんだ言葉は、かつてアズライトが目覚めた折に発した言葉にそっくりの言葉だったが、生憎と何を喋っているのか分からなかった。その口調は常と少しだけ違っていて、まるで何かを責める様な口ぶりで吐き捨てるものだから、一瞬、面食らってしまった。


「アズライト?」


 天を見上げていたアズライトが、ゆっくりとルークへ顔を向けた。


「聞こえています」


 少し不満そうなのは、しつこく呼び過ぎたからだろうか。訊ねるのははばかられた。時間が惜しい位の早口で再度言い放った。


「今すぐにお前の指名した連中をかき集めて谷の中腹へ向かえ。期が来たら合図をする」


 アズライトは頷くや否や、近くにいたソマを伴って慌ただしく去っていった。アズライト達に目も向けず、ルークはダリウスの軍勢をよく見ようと三歩前へ進み出る。


「あれは、いつか見た布陣ですな」


 他の群衆と同じように、ダリウスの軍勢を眺めていたモハメドが言った。


「南カムールで初めて戦った時と同じか」


「草原の民が得意とする戦法でございます。殿下は、ああ、実際にご覧になられたことは無いでしょうが。ああやって一塊になって前列は槍を構えて前進して、敵の騎馬の突撃に備えるのです。まずは後方の弓兵が弓を弾き、敵が近づいてきたら弓兵は武器を槍に持ち替えます。前列の歩兵は後退し、中央の列にいる騎馬兵が敵へ突撃をかける。今回は弓兵の方が多うございますな」


「突撃よりも敵を蹴散らすことを目的にしているのだろう。多分、殲滅せんめつというよりは、威嚇いかくに近いかもしれない」


「我々も、見くびられたものですな」

 

 砂上を行く無数のひづめ、馬のいななきが大きくなる。前列にいる歩兵の中央部が先頭を行き、二列目、三列目と後方に行くにつれて後方へ下がりはじめた。上空から見れば円錐の形をしているだろうそれは、徐々に突撃隊形を組み、縦列でこちらへ突進してきている。

ルークは深呼吸を一回すると、全員へ声を張り上げた。


「いいか、初めに決めた通り、俺達は戦わない」


 たった千四百弱しかいない自分達に求められているのは、アル・リド王国軍の殲滅ではなく、時間稼ぎ。その時間稼ぎも、あとどのくらい出来るかすら分からないけれど。やるしかない。たとえどんなに無謀なことなのだとしても。


「初めに弓の一斉掃射を五度行う。そのあと、一斉にアムジャードまで後退する。谷の中腹に来たら金太鼓をめいっぱい鳴らせ。いいか、一斉掃射の後、敵兵へ突撃はするなよ。敵に追いつかれたとしても、応戦するのは味方を救う時だけにしろ」


 一気に言い放った後、大きく息を吸う。命じるのは怖い。自分が命じたことで、誰かが死ぬことが怖い。でも、何故だか不思議と心は静かで。


「今回ばかりは射耗しゃもうを恐れずに放て。弓兵、構えッ!」


 前列に配したカムールの弓兵達が弓弦ゆんづるを引く。ダリウスの軍勢との距離は指呼しこの間に迫っていた。乾ききった砂の大地を馬のひづめが叩く。地響きが、轟いている。


て!」


 一度、二度、三度と連続して放たれた矢の雨に、ダリウスの軍勢は素早く対応した。歩兵に紛れていた盾持ちが前列に進み出ると、天へ仰ぐようにして盾を構え、槍を持った歩兵が盾の下へ潜り込む。兵士達は矢の雨を耐えながら降り注いでくる矢の切れ間を縫ってじりじりと前進してゆく。


「敵もとうとう追い詰められたとみえる」


 ダリウスは鞍上あんじょうで勝利を予感した。

カムールの騎兵が打ってくるのは矢ばかりで、槍や剣を持った騎兵がこちらへ突撃してくる気配がない。恐らく、打てる手は既に出し尽くし、後は散り散りに逃げるだけなのだろう。


遊牧民ベドウィンがよくもここまで粘った」


 オアシスに毒を撒き、カムールの民を避難させ、散発的に行った攻撃を掻い潜り、たった千五百程度の騎兵だけで我が軍の行軍計画を見事に狂わせてくれた。敵ながらよくやったと褒めざるを得ない。


(雨期が来る前に硝子谷の砦を落としたかったが、もはや構うまい)


 たかだか千五百程度の遊牧民が率いる駱駝らくだ騎兵など、五千の騎馬騎兵の突撃を止められるはずがないのだから。

ダリウスははやる気持ちのままに剣を振り上げ、叫んだ。


「我が王国に栄光あれ。突撃せよ!エテダー


 趨勢すうぜい三千の軍勢から蛮声が上がる。歩兵の横列が割れ、その間を騎馬が雄たけびを上げながら走り抜ける。ダリウスもまた側近を伴って彼らの後ろから馬を駆けさせた。

カムールの軍勢から四度目の矢が放たれた。雨のように降り注ぐ矢を受けて、前列にいた騎馬が倒れる。それを乗り越え、あるいは踏み越えて騎馬はカムールの軍勢へ向かって駆け抜ける。

五度目の矢が放たれた。矢数は少なく散発的なもので、誰一人として矢を受けた者はいなかった。


「そら、逃げる。逃げるぞ!」


 カムールの騎兵達が次々に戦場を放棄し、谷の奥へ逃げ出し始めた。

しかし、どことなく様相が違っていた。初めは怖けづいて逃げ出すように思われたが、それにしてはまるで初めから逃げる算段をしていたかのように、綺麗な縦列を組んで谷の奥へ逃げていく。


(これは、もしや……)


 ふいに、テベリウスが死んだときのことを思い出した。

曰く、岩柱の林の奥へ逃げてゆくルシュディアークを追って行った先で、待ち伏せに遭って命を落としたのだという。となれば、これは――――。


「止まれ!」


 ダリウスは声を張り上げて兵を呼び戻そうとした。周囲の兵士達は何事かと戸惑いながらダリウスの言葉を復唱して声を広げ、近くの者から順に馬の足が止まる。しかし、軍勢の先頭は越えの届かぬはるか向こう。谷の中腹へ向かっている。


「誰か、誰かあるか。号令兵をここへ。退却の合図をせよ!」


 側近へ命じた刹那、ダリウスの元に聞こえてきたのは、金太鼓の音と、谷全体が輝かんばかりの赤い光。


「これは……」


 魔の光だと、誰かが囁いた。谷が崩れると、誰かが叫んだ。

硝子化した岩のへばりついた斜面にひびが走っている。ぴしり、ぱきりと、不愉快な音色を立てて、亀裂が斜面を広がってゆく。ぱらぱらと転がり落ちてくる小石に大岩が混ざり、前方を走る数騎の馬と人が下敷きになった。


「崩れるぞ!」


 あっと思った瞬間、谷の中腹に居た騎兵達が、谷の斜面から転がり落ちてくる無数の落石に飲まれていた。


 それを、谷の向こう側からルークは眺めていた。

谷の上部を魔法クオリアで砕き、落石で谷の底を走る一本の道を塞ぐ。追いかけてきたダリウスの騎兵は土砂の下敷きとなっているはずだった。粉塵ふんじんが霧のように立ち込めているせいで、はっきりとした様子を窺い知ることは出来なかった。


 そして、予想外が一つ。


「殿下、これは一体……」


 赤く発光する自らの手を呆然と見つめる。アズライト達の魔法クオリアが発動した時、とてつもない息苦しさを感じてボラクを止めた。


(ああ、あの時と一緒だ)


 イブティサームが死んだときと同じ、赤い光が自分の周囲に舞っている。


(こんな時に……!)


 魔族だと、皆に知られてしまった。事情を知るハリルは兎も角、他のカムールの者達はどう思うだろう。モハメドの視線から逃れるように目を瞑った。瞑っても、網膜にうつり込んだ赤い光は消えてはくれない。


(ああ、それにしても胸が苦しい。頭が痛い)


 薄れゆく意識の中で、誰かに名を呼ばれた気がした。





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