第47話わずかに違うかもしれないし

―――いや、そんな、馬鹿な。


心臓の音が強く、濃くなっている。

歩いて行った女性、一〇三号室に―――その前で足を止めた女性を。

目で追ってしまう。


髪型は知らない髪型だった。

肩に少し乗っていたときの方が、俺は好きなんだが―――少し短くなっている。

いや、髪の量が減っているのか?

確かに暑いし、あの黒髪は長すぎるよなぁ。



―――そんなことはない、あり得ない、だって。


全くの別人の可能性はある、だからもう少しよく目も、鼻も見なければ―――近づけば、誰か。

確かに似ているちゃあ、似ている。

似ているが、だが………。


「ここに、引っ越してきました。一〇三号室」


彼女は悪戯っぽく笑う。

笑い方がするりと鼓膜に染みこみ、寒気がした。

俺は買い物袋を取り落とし、卵がたぶん割れた音だ、これは―――俺は、彼女にずんずんと、詰め寄る。

近寄る。

彼女は薄い笑顔というか、余裕ある表情というか―――。

俺はその女性の顔をまじまじと見て、口をあんぐりとあけて固まってしまった。

どんな間抜けづらだっただろう。

疑問が多すぎたので精神が逃げ道を求めた。

腕を出して、そう―――幽霊を追い払うように、手を振る。


―――疲れてるんだ、俺は。


幻影を振り払うはずだった。

通り抜けるはずだった。

俺の腕は彼女の肩か、心臓あたりを通り抜けるはずだった。

彼女の身体にぶつかり、電流のような、波のようなものが、手のひらに走った。

夏だから当然だが、彼女は薄着だった。


「………ッ!」


高圧電流に驚き、俺は飛びのく。

彼女のから、身体………え?

わけもわからず、距離をとる。

後ずさってよく見れば、靴には―――あ、ええと、靴がある。

靴がある。


「ご………ごめんなさい、あのう―――」


俺はしどろもどろになる。

目が泳ぐ………魚になる。

何をやっているのだ、俺は………自分の情けない行動に、恥ずかしくなって下を向く。

彼女の靴を………見る。


「知っている、人にすごく似ていたので、それで………」


「いえいえ」


背格好が似ていれば声質も似ているのだなぁ、と俺は思うようにした。

こ、声が似ているくらいのことは―――あるし。

待てよ、考えろ―――お姉さん、そう、お姉さんか?

兄妹、姉妹、ああ、そういう………そういうこと。

ふ、ふふ、ふふふ。

そうかそうか。

声が似ているのね、うんうん。

いや、逆に、妹………なるほど。

妹、なるほど。

言われてみればわずかに違うかもしれないし…………。


「いいでしょう―――?」


女性はそんなことを言う。

何がだろうか、と顔を上げる俺に、さらに続ける。


「もう、バク宙できなくなっちゃいましたね―――結構、気に入っていたのに」

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