番外編
後日談 道化師は使命に燃える(前編)
夕暮れのアベリオン丘陵は、いつものように悲鳴と苦悶が飛び交っている。媚びへつらう声や、自暴自棄に浴びせる悪罵、正気を逸した者の狂おしい笑いがそこかしこに溢れる。
この牧場に近付いてくる一団がある。
いかめしい顔つきやおぞましい姿の悪魔たち。彼らの中心にいるのは、人間に似た姿の優男だ。黒髪をオールバックにし、眼鏡をかけ、三つ揃いのスーツをまとった彼の、銀の防具に包まれた尻尾だけが人でないことを主張している。
いかにもひとりだけ場違いのようではないだろうか。哀れな虜囚となるべく連れ去られるところとさえ見えかねないのではないか。
しかし実際のところ、その男は見事なまでに馴染んでいた。そしてまったく哀れには見えなかった。落ち着き払った優雅な歩みのせいか、その口元に浮かぶやさしげな笑みのせいか。否、そもそも――彼にはなにかしら、底知れないものがある。
王者の貫禄、というよりも。
魔王の風格、と呼ぶべきものが。
見張りに当たっていた女悪魔は、はっとしたように跪いた。
彼女の顔に過ぎる緊張と畏怖はまぎれもなく、死の恐怖と結びついている。
なにしろこれが初めての見張り任務なのだ。
前任者はとある場所で縛り上げられていて、牧場主が帰るまえに死なせてくれと必死に懇願していたりするのだが、その声はここまでは届いてこない。
「お、おかえりなさいませ、デミウルゴス様」
一団が止まる。
中心の男――デミウルゴスだけがさらに数歩を進み、見張りの女悪魔の前に立つ。
デミウルゴスは屈み込んで、跪く女悪魔の下あごに手をかけ、上向かせる。そしてやさしい声で、言った。
「いけない子だね」
女悪魔の目が見開かれる。蝙蝠の羽が怯え震えた。
「これほど距離がある状態で、どうして私が本物だと分かる? 君にそれほど優れた探知能力があるとは思えないのだがね。もしも敵の変装であったならば、見張りの意味もなくあっさりと殺され、侵入を許すことになっていたかもしれない」
まあ、もともと低レベルなシモベの見張りなど、囮でしかない。実際は入念な仕掛けがあちこちにあり、たとえ瞬殺されようともなんの問題もなく――むしろ瞬殺されてくれた方が強力な罠を発動出来るのだが。
「役に立たないシモベはいらないんだ。分かるだろう?」
「あ……デ、デミウルゴス、様……」
「さて、と。君をどうしたものかな? 残念ながらいまのところ、死亡させる前提の任務というものがなくてね。いくつか興味深い実験の手伝いをしてもらってもいいのだが」
女悪魔は口をぱくぱくと動かすが、「あ、あ」というような声が漏れ出るだけだ。目にいっぱいにたまった涙がこぼれる。デミウルゴスはいかにも憐れみに堪えないといった顔つきで頷くと、
「それでは、私の像に愛を捧げてみるかね?」
いまにも失神しかねない女悪魔の、下あごに添えていた手を離し、デミウルゴスは立ち上がる。
「冗談だよ。今回は注意だけにしておこう。ああ、次があるとは思わないようにね?」
「あ、ありがとうございます……」
デミウルゴスは、護衛の悪魔たちを引き連れて牧場に入る。悲鳴の渦が愉悦をもたらす。デミウルゴスは上機嫌に歩みを進めた。
巨大な天幕の前で、デミウルゴスは悪魔たちに頷く。一礼する彼らを背に拠点へと入った。それとなく片手を、アインズから預けられたワールドアイテムに伸ばし、注意深く宝石の目を開いて、
天幕の片隅、三角座りをしているのはプルチネッラである。テーブルには多くの書類が積み上げられている。その他には彼が退室したときと変化はないようだった。
プルチネッラは膝を抱え、「しくしくしく」と呟き続けている。一定のテンポを崩すことなく、生真面目に単純作業を繰り返すように。「しくしくしく」その声は明るく、「ふふふふふ」とでも含み笑いをしているような響きがあり、かえって不気味でさえある。
デミウルゴスは目に込めていた力を抜き、ワールドアイテムから指を離す。軽やかな足取りでテーブルに近付き、一番上の書類を取る。さっと目を通していきながら、「どうしたんだい、プルチネッラ」と声をかける。
道化師は義務のようにもう一度「しくしくしく」と言ってから、顔を上げてデミウルゴスを見やり、おごそかに言った。
「羊が言うのです……私を無慈悲だと」
デミウルゴスは書類をめくる手を止め、プルチネッラを見下ろす。
眉をひそめ、いかにも遺憾だという顔つきをして、
「聞き捨てならないね。至高の御方が君にかく在れと望まれたことを真っ向から否定するとは。どの羊だい?」
「もう遅いのです、デミウルゴス様。私わやさしく話を聞こうとしたのですが、羊わきちんとした説明をする前に正気を失ってしまったのです。いまごろわミンチになっているはずです」
「それは残念だったね」
デミウルゴスはかぶりを振り、心からの同情を示す。
道化師はぴょこんと跳ねるようにして立ち上がり、深々と一礼して、
「おやさしいデミウルゴス様。ですが私のために悲しまないでください。私わあなたに笑っていていただきたいのです。デミウルゴス様が私の慈悲をお認めくださるならば、錯乱した羊の一匹が何を呟こうとも私わ平然としていられるでしょう!」
宣言しておきながら、道化師は小首を傾げて、
「しかしそもそも、羊を錯乱させてしまったことに私の至らなさがあるのでしょう。きっと羊たちわ退屈のあまり、おかしな妄念に悩まされもするのです。彼らの義務がより緊密になり、労働の喜びが絶えず注がれるよう、工夫をせねばなりません。私わ彼らをもっともっと幸せにしてやりたいのです」
「素晴らしいよ、プルチネッラ。君という存在がこの牧場にいることで、どれだけの羊が救われることか。君が出してくれる様々な環境改善案は、どれも目覚ましい成果を上げている。今後も努めてくれたまえ」
「いえいえ、デミウルゴス様の閃きの数々に比べましたら、私などまだとてもとても!」
ぐっと両の拳を握り、感嘆に身を震わせる道化師に、悪魔は親しみを込めて微笑みかける。
それから再び、書類に目を通していく。
「ときにプルチネッラ、君は実に有能だね。重要な案件から分かりやすく分類して報告書を作成してくれているし、相互に関連のある事項についてはどこを参照すべきかまできちんと記載している。正直、戻って来てからの仕事は煩雑だろうと思っていたんだが、君のおかげでずいぶんと助かる」
「すべてわデミウルゴス様の的確なご指示とご指導があればこそです」
「アインズ様が君を私の補佐につけてくださったことには、まったく心から――」
そこで不意に言葉を切り、デミウルゴスは左手を左のこめかみに当てる。
プルチネッラは畏まって待った。
悪魔は二言三言応じて、わずかに顔を歪める。それから目を伏せ、「すぐに受け取りにあがるよ」となにげない口調で言い、手を下ろした。
「どうされたのですか?」
「ああ、司書長からね。もう少し時間がかかるかと思っていた案件が片付いて、渡したいものがあるというんだ」
「でわシモベにそのように命じます」
「いや、私が行こう。ただ受け渡すだけではないんだ。牧場の全般的な知識がある上で、その資料をもとにささやかな話し合いを行うことになっているし、場合によっては司書長にもう一働きしてもらわねばならない」
「私でわ代わりは務まりませんか?」
「ああ、君ならば――すまないが、頼めるかね?」
「お任せください」
デミウルゴスは一通りの指示を出してから、
「申し訳ないが、少し待ってもらえるだろうか。これらの書類のなかで君に聞くべきことがあった場合に困るのでね」
「もちろんです、デミウルゴス様」
急ぎチェックすべき書類にデミウルゴスは目を通していく。
プルチネッラは考え込んでいたようだが、
「……何か問題でもあったのでしょうか、デミウルゴス様」
「うん? いや、君の仕事ぶりには――」
「私のことなどどうでもよいのです。デミウルゴス様に何かご不調なことや気がかりなことがおありでわないかとお尋ねしたのです」
「……いや、なにも」
「そんなはずわございません! デミウルゴス様わたったいま、ナザリックから戻られたばかりでわありませんか。普段のデミウルゴス様なら、あちこち行ったり来たりせねばならぬような非効率をなさるはずがございません。計算が狂われたということならば、狂われたなりの理由があるはずです。私わそれをお尋ねしているのです」
ちらりとセバスとの不和や、それによって引き起こされたあれこれが頭をよぎる。
その一瞬を道化師は見誤らず、ずずいと身を乗り出してきた。
「この私を信用してくださらないのですか? 私わそれほどまでに無能でしょうか?」
「いや、そんなことはないとも。君が私を高く評価してくれるのは嬉しいが、私とて万能ではない。君を失望させたのでなければいいのだが」
「私がデミウルゴス様に失望するなど! そんなことわございません。ですがやはり、どう考えましても――」
「確認は済んだ。何も問題はない。司書長にはよろしく言っておいてくれ」
「どうしても私にわお話しになれないのですね? 承知いたしました。でわアインズ様にお願いをすることにいたします」
「……待ちたまえ、何を企んでいる」
「企むとわ人聞きの悪い。アインズ様からわ、仲間の調子が悪いとき、休ませるべきだと感じたときにわ臆せず必ず報告せよとご命令があったでわありませんか。このご命令に従い、私わすぐにもデミウルゴス様に休暇を賜るべくお願いしにあがる所存です。そう、出来ましたら数週間、いえ数ヶ月……」
デミウルゴスの顔から血の気が引いた。
アインズならば確かに、そのような命令を下しかねない。
主はシモベたちの身をひどく気にかけている。
その慈悲深さに感激しないわけにはいかないが、しかしそれによって忠誠を尽くす機会を奪われることを恐れる気持ちもまた根強い。
「プルチネッラ、……君は私を脅迫するのかね?」
「私わアインズ様のご命令に従おうとしているだけです」
左手を胸に当て、粛々として述べる道化師を前にして、デミウルゴスは逡巡する。
誤魔化す方法がいくらも浮かび、しかしそのどれも愚策と悟った。
遅かれ早かれ、例の暴動のことをプルチネッラは知るだろう。
そのことと、このデミウルゴスのささやかな失態を結びつける可能性は十分にある。
隠していたと責められるだけならまだしも、問答無用でアインズに言いつけに向かわれでもしたらたまらない。いまもある程度の休憩をとることは義務付けられているが、それが休暇という名の長期にわたるものになるとなれば、いまやっているようにあれこれと休憩にかこつけて至高の御方々のためになるべく努めるにしても時間を持て余してしまうだろう。なにより積極的に忠義を尽くす機会を奪われることは恨めしい。
下手をすれば、仕事を減らされかねない。
想像がそこまで至ったとき、ついに悪魔は屈した。
「いや、まったくたいしたことではないんだが――説明しさえすれば、むろんアインズ様には何もよけいなことは申し立てないだろうね?」
「もちろんですとも。お心安くお話しください」
悪魔の鋭敏な頭脳は、この先に道化師がとるであろう行動をすでに予見してはいたのだが。
背に腹はかえられぬとばかりに、必要最低限にとはいえ、語る。
あの暴動のことを。そして必然的に、執事との不和のことを。
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