仲良くなりなさい
さかのぼること、一週間前。
死を選ぼうとした葵を思い止まらせることができた武士たちは、夜明けを待って、体力が回復した御堂征次郎と再び今後についての話し合いの場を持った。
実際には、征次郎は別件の打ち合わせがあるとのことで、打ち合わせはその日の午後にずれ込んだ。
「状況に変化があった」
打ち合わせの場所は前日と同じ征次郎の和室。
武士達が部屋の入ると、征次郎は背中に座イスを差し込む形で床から体を起こし、老眼鏡をかけて膝にノートパソコンを置き、作業していた。
ブラインドタッチのスピードは病床に伏す老人としては充分に早く、相当に使い慣れている事が分かる。
「当主、お若いですね」
翠が率直に感想を述べる。
ちょ、おまえ……とハジメは翠のの物言いに焦ったが、征次郎は構わない、とでも言うように、
「今日びパソコンの一つも使えないと、仕事にならん。こんな便利なものをゲームでしか使わない孫たちに、負けてられんよ」
そう言って少し唇の端を持ち上げる。
笑顔を作ったつもりのようだった。
「みんな座れ。……うん? 葵さん」
征次郎は手を止めて、葵の顔を見る。
「はい」
「吹っ切れたか」
「……はい。お騒がせしました」
征次郎の視線を正面から受け止めて、葵は答える。
「組長、聞きましたか」
「時沢からな。覚悟が決まったならそれでいい。九色刃が選んだ男を、我々は信用するしかない。我々の作為を越える〈契約〉が成されたことは、これまでも無かったわけではない」
武士達は、前日の夜と同じように、征次郎の前に座らされた。
後から、時沢が部屋に入ってくる。
「遅れました」
入って来た襖戸を閉めるとそのまま、入り口の脇に正座した。
征次郎はパソコンを開きながら、静かに話し始める。
「状況に変化があった。もう少ししたら、マスコミも報道を始めるだろう。鬼島総理と、検察および公安が対立している。彼らは、鬼島の弱みを握ったようだ」
「弱み?」
直也が身を固くする。
「ああ。国防軍の特殊部隊。通称〈北狼〉。鬼島がその〈北狼〉に直接指示を出していた証拠を、彼らは掴んだのだ」
葵と翠がその部隊名に反応する。
「去年刃郎衆の里を襲撃し、その後も私たちを狙い続けた部隊ですね」
葵の確認に、征次郎は頷く。
「おそらく、だがな」
武士は、前日に剣道場で突然襲いかかって来た屈強なスーツ姿の男達を思い出した。
「なるほど……それであの男は、今後〈北狼〉に指示を出しにくくなるということですか」
顎に手をやって、考え込む直也。
「わしは公安から得たこの情報を、鬼島に対抗する民自党の旧主流派に流した。彼らがうまくこのネタを使えば、奴が目指している軍主導への改革に、一定の歯止めが効くはずだ。この時期に、鬼島は下手に動けんだろう」
各々が征次郎の説明に納得している中で、一人取り残されていた武士がおずおずと手を挙げる。
「あの、いいですか?」
「もちろんだ」
征次郎がやわらかな表情で武士を見た。
「鬼島総理が九色刃を狙って、葵ちゃんたちの里や昨日の学校とかを襲撃するよう、軍隊に命令を出したんですね?」
「そうだ」
「でも、昨日の話だと……そんなこと、とっくに知っていませんでしたか?」
「もちろん知っていた。だが、公的に通用する証拠がなかったのだ」
「田中、つまりこういうことだ」
途中から、直也が説明を引き継ぐ。
「この国には、軍隊を出動させるには厳しい制約がかかる法律がある。特に国内に軍を派遣させるのは治安出動といって、公安委員会の他、閣僚間での審議が必要なんだ。総理大臣といえども独断ではできない。それを鬼島は、自分が元軍の司令長官だったことを利用して、直接指示を出していたんだ。東北方面第二陸戦大隊所属、〈北狼〉部隊は、鬼島の私兵集団とも言われる特殊部隊だ。そんなことは、裏の世界では公然の秘密だったんだが……あの男が総理大臣になった今、そんな繋がりは、れっきとした法律違反だ。公的な証拠が見つかれば、野党の追及材料に当然なりえる」
ところどころ難しい点もあったが、武士は「総理が勝手に軍を動かしたのがバレて、やばい立場にいる」くらいの理解はできた。
征次郎が、直也の説明に補足する。
「今回、公安が掴んだ証拠は、まだ確定的なものではない。しかし国会審議を止めるブラフくらいにはなる。牽制には充分だろう。この状況下で、奴も〈北狼〉を動かすことはできんはずだ」
「つまり……」
黙って話を聞いていたハジメが、口を開く。
「しばらくの間は、敵の襲撃はないんじゃないか、っていうことですか」
「油断は出来ないがな」
征次郎の言葉に、武士はとりあえず胸を撫で下ろした。
昨晩の剣道場のようなことがいつ起こるかと、不安でならなかったのだ。
「当面の間は、わしが旧清心会系の連中を使って、奴を政治的に追いつめられるように、全力をつくす。その間に君らには、まずは体勢を整えてもらおう」
「はい」
「はい」
翠と葵が、厳しい顔で頷く。
「散り散りになった九色刃の使い手達を集めて、奴の手によってズタズタにされた刃郎衆を再建する……といいたいところだが」
征次郎は、翠と葵に向けていた視線を、武士へと向ける。
「えっ?」
「その前に、命蒼刃の守りを固めなくてはならん。武士君」
「は、はい」
「君にはこれから、ふたつの事を行ってもらう。一つは戦闘訓練。いつ、敵の襲撃が再開するか分からん。君が命蒼刃の使い手になったことは、敵に知られている。拉致されて研究材料にされる可能性だってあるのだ。最低限、自分の身は自分で守れるようになってもらわなければならない」
「……はい」
「時沢」
「はい」
入り口の横に座っていた時沢が返事をする。
「訓練は、自分が担当します。なに、手加減しますんで安心して下さい」
そういうと、ヤクザらしい傷跡を頬に持つ彼は、武士にニヤリと笑った。
武士の背筋に冷たいものが走る。
「武士。時沢さんには俺も鍛えられた。お前なら大丈夫だ」
ハジメは不安そうな武士に声をかけた。
「だってお前、殺されても死なないから」
ニッと笑うハジメに、時沢はなるほどと頷く。
「手加減しなくてよいということですね。これは効果的な訓練ができます」
「ちょっと待ってよ!」
不安を倍加させる会話に、武士は早くも悲鳴をあげる。
「二つ目は」
征次郎の低い声に、武士は慌てて口を閉じた。
「魂の繋がりの強化だ。
「不死の力が強くなる? どういうことですか」
直也が疑問の声を上げる。
「田中は既に、銃で撃たれても死なない体です。傷もすぐに回復します。これ以上、その力が強くなるとはどういうことですか」
「他の九色刃の例を考えると、まず距離だ」
征次郎が答える。
「距離?」
「たとえば、碧双刃」
翠は、思わず自分が腰に下げている二本の曲刀を見た。
「碧双刃によって急成長した植物は、碧双刃が近くを離れると枯れてしまう。そうだな?」
「はい。その通りです」
征次郎の問いに翠は頷く。
「同じ事が命蒼刃にもおそらく言える。命蒼刃と葵さんが、武士君から一定の距離が開くと、その力が及ばなくなる可能性が高い」
「でも、ジ……組長」
ハジメが驚いたように武士を見る。
「武士は昨日、葵を探す為に自分の体を傷つけたけど、傷はすぐに回復して……あれ? でも命蒼刃が手元にあったからいいのか?」
「いや、回復の力の元となるのは葵さんだ。二人の距離が離れては駄目だ」
征次郎は葵を見て答える。
「おそらく、数キロ程度なら問題はないのだろう。ただ、現時点で距離的な制限が必ずあるはずだ。本来、魂や霊的な存在には、距離などまったく障害にならない筈でもあるのだがな。遠くで親しい人が死んだ時に、虫の知らせがあるといった話は聞いた事があるだろう」
征次郎の話を聞いて、直也が質問があります、というように手を挙げる。
「もし、二人の距離が命蒼刃の力が及ばないほど離れた時に、田中の体が死んでしまった場合、どうなるのですか?」
不吉な質問をする直也に、征次郎は首を振った。
「わからん。命蒼刃の契約が解除されるのか、二人の距離が再び縮まったときに、死体からでも再生するのか。最悪の場合、肉体は滅んでも魂だけは命蒼刃に留まってしまい、命蒼刃は次の契約もできない、というケースも考えられる」
そこまで話すと、征次郎は並んで座る武士と葵を交互に見つめた。
「しかし、魂の繋がりが強くなれば、どんなに離れたところにいても不死の力は使える筈だ。この先、どんな不測の事態が発生するかわからん。二人の魂の繋がりの強化は、急務なのだ」
「あの……」
今度は武士が、ゆるゆると手を挙げる。
「魂の繋がりの強化って、具体的にどうすればいいんですか?」
武士の問いに、征次郎は少しの間黙り込むと、口の端を僅かに持ち上げた。
笑ったつもりのようだった。
並んで座る武士と葵を改めて見つめる。征次郎は極めてシンプルな言葉を吐いた。
「……仲良くなりなさい」
征次郎にネットを介しての急な打ち合わせが入ったとのことで、時沢と一緒に、武士達は全員和室から出された。
後の詳しい事は既に時沢に話してあるので、その指示に従えとのことだった。
一同はリビングに集まると、翠がキッチンを借りて煎れたお茶を飲みながら、話し合いを再開する。
ちなみにキッチンにあったお茶の葉は玉露の最高級で、翠はかなり気を使って煎れていた。
「訓練するのは、いいんだけどさ」
武士はその高級な日本茶を啜りながら話す。
「根本的なところから、よくわからなくて。問題なのは、鬼島総理大臣がこの国を戦争に巻き込もうとしていることなんだよね?」
「ああ、そうだ」
直也は短く肯定する。
「それを防ぐ為に……予言通りだと、僕はどうすればいいの? 暗殺でもすればいいの?」
暗殺、というストレートな言葉をあえて使った武士に、直也は返す言葉が詰まる。
武士は問いかけを続ける。
「政治的に、っていうの? ちゃんと法律的に、総理大臣を辞めさせられれば、それでいいんじゃないかな」
「もちろん、それができれば一番いいんですがね」
直也の代わりに、時沢が武士の問いに答える。
「ずっと組長は、政治力のすべてを使って鬼島の企みを阻止すべく動いてきました。それでも奴の政権は誕生してしまい、奴は九色刃の力を手に入れる為に動きだしてしまった。今また、鬼島を政治的に抑えることができるチャンスが出てきてますが、今後もどうなるかはわかりません」
コトリ、と茶碗をテーブルに置く時沢。
「万一の時には、
「時沢さん。ジジイは、今回の件で鬼島を失脚させられるのか?」
ハジメの問いに、時沢は少し考えた後、首を振る。
「今の材料だけでは難しいでしょうね。更に、奴の何かスキャンダルでも掴むことができれば、野党連合が大臣罷免の緊急動議も出せるかもしれませんが」
「私は」
時沢の言葉を遮るように、葵が小さいが通る声を上げる。
「この手で鬼島を倒したい。あの男には仲間を殺された。仇を討ちたい」
葵の瞳はフローリングの床を見つめていたが、そこに鬼島の顔が見えているかのようように、瞳には憎しみの色が伺えた。
「葵ちゃん……」
呟いた武士は、その後に(鬼島総理は、九龍先輩のお父さんなんだよ)と続けたかった。
続けたかったが、仲間を殺されたという葵に、それを言うのは酷だということも分かっていた。
しかし武士は、思わず直也を見てしまう。
武士の視線に気が付いた直也は、ふっと笑うかのように息を吐いた。
「田中君。君の言いたいことは分かるつもりだ。確かに人殺しはよくない。戦争という殺し合いを止める為に人を殺すなんて、二律背反だ。その考え方には全面的に賛成する。だけど……時には、何かを守るためには、他のいかなるものも犠牲にする覚悟が必要になってくる。俺は最近、そう思うようになったよ」
そういう直也の瞳に、武士は葵と同じ色を見る。
それは決意。
武士のような普通の高校生には持ちえない、何かを決定的に失った人間だけが持ちえる決死の覚悟のようなものが見えた。
「まあ、俺にも僅かながら、政界に影響を与えられるルートがある。なんとか動いてみるよ。あの男の側にいる人間すべてが、必ずしも奴の目的に賛同しているわけじゃないからね」
そういうと、テーブルに置かれた茶を啜る。
「鬼島側の人間に、
直也の言葉を聞いた翠が問いかける。
「まあね。……っっ!……
直也は茶を噴き出した。
「汚いなあ。この翠さんが丁寧に淹れたお茶を噴き出さないでおくれ」
「……ちゃん付けは止めてくれ」
テーブルの上を吹きながら、呼び名の訂正を要求する直也。
「どして? これからは仲間じゃない。仲良くやろうよ」
翠は小首を傾げる。
その仕草はロリータな外見と合わさって「可愛い」というよりも「可愛らしい」と言え、とても十七歳には見えなかった。
「……仲間、というのはいいけどね……」
納得のいかない表情の直也。
翠は今度は腰に手を当て、まるで近所のお姉さんが子供にお説教をするかのようなポーズをとった。
「呼び方は大事だよ。人間関係のバロメーターだね」
そう言うと、翠は横に座る葵の肩を叩いた。
「葵ちゃんでしょ」
次に、武士を指差す。
「武ちんでしょ。あ、タケちゃんマンの方がいい?」
「……前者でお願いします」
さすがに、親の世代に小さい頃呼ばれたあだ名はやめてほしい武士だった。
「武ちんね。あたしのことは翠さんと呼ぶこと。武ちんは高校一年でしょ?学年で言ったら、あたしの方がいっこ上だから」
「その理屈でいったら俺は高三なんだが」
「で、
直也の苦情を華麗にスルーして、翠はビシィッと直也を指差す。
「……その二者択一しかないのか」
指差された直也は、げっそりとした表情でぼやく。
直也の反応も翠は無視して、次にハジメを指差す。
「それであんたは……御堂ハジメ」
「なんで俺だけフルネームなんだよ」
「呼び方は人間関係のバロメーターだね♪」
翠にからかわれ憮然とした表情のハジメに、武士は「ならハーちゃんとでも呼ばれたかったのか」と突っ込みそうになる。
「あーあー。よく分かりましたよ。ミドリ虫」
「ちょっ、誰が虫よ!」
思わず立ち上がる翠。
「虫みてーに小せえ女は、この部屋に一人しかいねーなー」
ハジメは手のひらを下に向け、翠の身長と同じ高さにかざす。
確かに翠は、立ち上がっても座ったままの直也と同じくらいの身長しかない、自分の背の低さにコンプレックスを持っているようだった。
「……あんたとは一度決着をつけなきゃいけないみたいね。御堂組の穀潰し」
「……上等だコラ。虫は虫らしく草食ってろよ。便利なモンが腰にあんじゃねえか」
翠の挑発にハジメも立ち上がり、冗談から始まった二人の言い合いが険悪な雰囲気に発展しそうになったとき、間に入るように時沢が声を上げた。
「それで翠さん。俺の呼び名は、〈トッキー〉でいいですか?」
困惑の目が、三十路間近の青年に集まった。
「とにかく」
時沢は咳払いをして、脱線した話を元に戻す。
「九龍君はともかく、取り急ぎ他の面子にできることは、九色刃を守りながら武士君を鍛えることです。しばらくの間、全員ここで寝泊まりしてもらいますよ」
「俺の方は、独自で動かせてもらいます」
「問題ありません」
直也の宣言に、時沢は肯定の意を示す。
直也は今までも、父親である鬼島に反発する動きをしてきたようだ。
泳がされているだけの可能性もあるが、彼の発言を聞く限り、自分の身の守り方くらいは知っているだろうと時沢は判断した。
「え……僕、ここに住むんですか?」
武士の方は、疑問とともに異議を唱えた。
武士は、昨晩は家に連絡も入れず無断外泊をしてしまった。
朝になって携帯の電源を入れた時、無数に入っていた着信履歴に恐怖を覚えた。
とりあえず許可を得て無事な旨のメールは送っておいたが、父と姉にどう説明していいか分からなかった。
「当然です。いちいち家に帰っている時間も、その間の護衛にかける労力も無駄です。それに、組長からのもう一つの指示を忘れたんですか?」
時沢はそう言うと、ニヤリと笑う。
「もう一つの指示?」
「葵さんと仲良くすること。今日から二人には同じ部屋で生活してもらいます。ま、平たく言うと同棲ですね」
武士は時沢の発言の意味を理解するのに、長い時間を要した。
「!!! そ、そそそんなの絶対に駄目ですよ! 高校生の男女が、そんな……」
「一緒に住め」と言われて、極めて常識的な反応をした武士だったが、ハジメと翠はニヤニヤ笑いをこらえながら武士に突っ込んだ。
「あら武ちん。そんなに顔赤くして、一緒に住むってだけで、なに想像してんの?」
「エロい。エロいなあ武士。そんな劣情を抱いたら、健全な高校生とは言えないぞ」
「ふざけないでよ! こんな時だけ二人して仲良く突っ込んでくんなっ!」
当然、拒否すると思っていた当人の葵は、何故か一言も発しなかった。
途方にくれた武士は、それでも抵抗して時沢に言う。
「そんなの…父さんが許すはずありません。家を出るだけでも許してもらえないはずです」
しかしそんな武士の言葉に時沢は
「大丈夫。俺に考えがあります」
そういうと、更にとんでもない提案をした。
何よりも武士が驚いたのは、爆笑する翠とハジメの横で、葵がその提案を素直に受け入れたことだった。
いったい何がどうしてこんなことになったのか…。
昨晩と違う、いかにもヤクザの車でございという黒塗りベンツの後部座席に身を沈めながら、武士は思った。
隣には葵がやたらと背筋を伸ばして座っているが、その表情を確認する勇気は、武士にはない。
向かう先は、武士の自宅。
時刻はまだ夕方。
姉の遥は大学とバイトで帰っていないだろうが、この日はちょうど、不動産会社に 勤める父親が平日の定休日だったので、父親が一人で自宅に居るはずだった。
せめて、ハジメと翠が付いてこなくて本当に良かったと思う。
何をどう引っかき回されるか、分かったものではなかった。
こういうことになって、武士は葵と何を話していいか分からないまま、やがて車は目黒の閑静な住宅街にある武士の自宅前に到着する。
場所は高級住宅地だったが、建物はやや古い。
母方の実家が残した家だった。
武士が玄関の鍵を取り出してドアを開けようとすると、時沢がそれを手で制した。
「ここからは俺が。基本的に俺が全部話しますから、二人はそれに合わせて下さい」
そういうと、時沢は武士達の前に立ち、玄関横のインターホンのボタンを押す。
「ああ、それと」
反応を待つ間、時沢は二人を振り返った。
「少しわざとらしい、ヤクザみたいな話し方しますが、気にしないで下さい。演技ですから」
そこまで時沢が話すと、インターホンから武士の父親の声が聞こえた。
「はい」
「オウ。さっき電話いれた御堂組のモンだ。さっさとココ開けろや!」
「は、はいっっ!」
ドスの利いた声で怒鳴る時沢は、映画で見るステレオタイプな極道者になった。
強張りまくった表情でドアを開けた父親は、頬に傷で完全ヤクザの時沢に、その後ろに立つ自分の息子と黒髪の少女を認めると、中に入るように促した。
時沢は、そんな父親の仕草を待つまでもなく、乱暴に靴を脱いでドカドカと家の中に上がり込む。
父親は慌ててリビングへと繋がるドアを開けた。
時沢は父親に委細構わず、リビングの中央に置かれたソファに足を大きく開いて腰掛ける。
「お嬢。こっちに座って下さい」
葵に向って自分の横をバンバンと叩きながら声をかける。
時沢に従って、葵はおとなしく時沢の横に腰かけた。
時沢のあまりの変化に呆気に取られていた武士は、父親に肩を叩かれていることにしばらく気が付かなかった。
「おい……おい、武士!」
耳元で小声で話しかけられ、ようやく自分を呼ぶ父親に気が付く。
「大丈夫なのか、お前は。指はあるか、指は……! 殴られたり、そういうことはされてないのか!」
小声だが、切羽詰まった声で父親は武士を心配する。
頷く武士の両手を握り、指が十本あることに安心したのか、深く溜息をついた。
こんなに自分を心配して、うるんだような目で自分を見つめる父親を武士は初めて見た。
父親がこんな表情をする人間だとは、知らなかった。
「お父さん。何をしてるんですか。早く、こっち来て下さいよ!」
リビングのドアの前で武士と並んで立っていた父親は、その低い声にビクッと肩を震わせる。
「あ、ああ……すみません。今、お茶を」
「そんなもんどうでもいいから、早くこっちに来いと言ってんだよ!」
時沢の声には有無を言わせない高圧的な響きがあった。
ついさっきまで話していた彼とはまるで別人で、こちらの顔の方がむしろ本性のように思えた。
父親は慌てて、リビングテーブルを挟んだ反対の椅子に座る。
武士はその横合いの、床に座りこもうとしたが、葵の横を通り過ぎる時に、葵に手を掴まれた。
「えっ…」
葵はその手をぐいっと引っ張った。
武士は葵の仕草に、そういう設定だったことを思い出す。
武士は葵に手を握られたまま、ソファのすぐ横に座り込んだ。
「電話でも話した通りですが、もう一遍話しましょうか」
時沢は足をダンッとリビングテーブルの上に乗せる。
仕草の一つ一つにプレッシャーを受けながら、父親は頷いた。
「お宅の息子さん……武士君がですね。うちの御堂組組長の孫娘である、葵お嬢さんに手を出したんですよ」
そういうことになっていた。
九色刃のことなど、当然父親に話すことはできない。
武士が家を出る理由を作る為に作りあげられたストーリーだ。
「ほ、本当なのか。武士」
顔面蒼白になって武士に問いかける父親は、可哀想になるくらい悲壮な顔をしていた。
普段とまるで違うその姿に胸を痛めながらも、武士は今は頷くしかなかった
「とんでもないこと、してくれましたなあ……」
時沢は胸ポケットから煙草を取り出して、火を点ける。
吐き出した煙は、父親の方に流れていった。
「た、武士……お前は……」
父親の膝の上に置かれた拳が、ガタガタと震えている。
自分の息子がヤクザの娘に手を出して、そのヤクザが自宅に殴り込んできたのだ。
平静でいられる大人は、そうはいないだろう。
「まあ、息子さんを責めないでやって下さいよ。お嬢の方も、すっかり息子さんに惚れちまってるみたいで。お宅の息子がお嬢に無理矢理どうこうした、という話ではないようで」
武士は、自分の左手を握っている葵の体温を感じる。
柔らかく温かい手。
演技とはいえ、自分の手をこんなに長く女の子に握られたことは、幼稚園の遠足以来だった。
「まあ、無理矢理だったら、今頃息子さんは東京湾で魚に食われてるところですがねえ……」
ニヤリと笑う時沢は、まさに絵に描いたようなザ・ヤクザだ。
「それで、こっからが電話で話さなかった本題なんですがね」
時沢はテーブルの上から足を下ろし、身を乗り出す。
父親がごくんと唾を飲む音が、武士には聞こえた気がした。
「困ったことに……うちの葵お嬢が、もう片時も息子さんと離れたくないと言うんですよ」
僅かに、左手を握る葵の力が強くなったように武士は感じた。
武士は横目で葵の表情を見ようとする。
だが真横に座る武士から見て、ちょうど葵の長い髪が顔にかかっていて、その美しい面がどんな感情を表しているか窺い知ることができない。
「葵お嬢は組長譲りの頑固者でしてね……こうと決めたら、テコでも動かないんですよ。仕方ないんで、息子さんには御堂組で、お嬢と一緒に住んでもらうことにしました」
「なっ……!」
父親は驚いて立ち上がる。
「ちょっと待って下さい! 武士はまだ高校生になったばかりですよ! それに、そちらのお嬢さんだって、同じ年くらいでしょう…」
「年は関係ないでしょう。お嬢の決めたことです」
「しかし……まさか、もしかして、お嬢さんと武士の間に、もう」
「変なことを言わないで下さいよ。もし、そういう意味で息子さんがお嬢に手を出してたんなら、俺はとっくに息子さんをぶっ殺してますよ」
凄む時沢に、父親は不安そうな顔で武士を見る。
そういう意味がどういう意味かを少し遅れて理解した武士は、慌てて首をブンブンと横に振った。
「まあ、そういうことで」
早くも煙草を一本吸いきった時沢は、テーブルの上にあったガラスの灰皿の上で揉み消すと、ソファから立ち上がる。
「武士君。お嬢と二人で、持っていく荷物をまとめて下さい」
「ちょ、ちょっと待って下さい。私はまだ認めたわけじゃ」
話を終わらせようとする時沢に、父親も慌てて立ちあがる。
時沢はジロリ、という擬音が本当に聞こえるかのような凄味をもって、父親を睨みつけた。
「お父さん。勘違いしないで下さいよ。俺が組長の命令を受けてここに来たのは、あんたの許可をもらう為じゃあないんです。お父さんが心配するといけないからという武士君の頼みを組長が聞いたので、仕方なく報告に来ただけなんですよ」
決して怒鳴ったわけではない。
暴力的に胸倉を掴んで脅しつけたわけではない。
しかし、時沢のその言葉には有無を言わせない、絶対の強制力があった。
「こいつには、何を言っても通じない」と相手に思わせる力があった。
しかし、武士の父親は時沢が与えるプレッシャー受けて、膝や声を振るわせながらも、大人しく引き下がりはしなかった。
「わ……私は武士の父親だ。武士がまだ成人していない以上、た、武士の監督義務は私にあるんだ!」
「あぁん!?」
時沢は父親の前に歩み寄り、腰を曲げて顔を寄せ、自分より背の低い父親を下から覗き込むように睨みつける。
父親はもう、それとはっきり分かるほど、足が諤々と震えていた。
「膝が笑う」とはこういう状態をいうのだろうと、父親を見て武士は思う。
「た……武士!」
父親は、葵に手を握られながら呆然と自分を見ている息子に声をかけた。
「お前は、お前はそれでいいのか!?」
顔を近づけて脅してくる時沢を、父親は両手で押しのけて、武士の前に膝をつく。
「なにすんだ、テメエ!」
時沢は怒鳴るが、父親はそれを無視して武士の肩を掴んで、体を揺さぶった。
「お前は本当にそれでいいのか? 本当に、そのお嬢さんが好きなのか? 脅されて仕方なく従っているのなら、今言いなさい。俺は……俺はろくでもない父親だが、必ずお前を守る。ヤクザ相手でも、たとえ殺されてもお前を守る!」
肩を掴む手は震えていた。
声はところどころ裏返り、早口でよく聞き取れないところもあった。
しかし、必ず自分を守ると宣言した父親に、武士はかつて父親との距離がここまで開いてしまう前の、小学校に入ったばかりの頃の優しかった父親を思い出した。
「あぁん?? 舐めてんじゃねえぞコラァ!」
父親の背後でガン! とテーブルを蹴りながら怒鳴る時沢。
父親はビクッと肩を振るわせるが、それでも振り返らない。
武士は思わず時沢を見た。
さすがの迫力で怒鳴り声を上げた時沢だったが、武士の父親の背中を見つめる目は、それまでの強圧的なヤクザの目ではなかった。
申し訳なさそうな顔をしている。
武士は隣を見る。
心配そうな葵の顔がすぐ近くにあった。
葵は何かを言いかけるかのように口を開いたが、何も言わずに閉じてしまった。
その瞳は悲しそうな色をしている。
申し訳なさそうな色をしている。
武士は前の日に、あの屋上で葵に「君を巻き込めない」と言われたことを思い出した。
ああそうだ。この子には父親はいない。
自分を守ると言ってくれる親はいないんだ。
僕にはいる。
いたのに、そのことが当たり前過ぎて、何も気付いていなかった。
葵が隣で俯いている。
しかし葵は、何かを決意したかのようにガバッと顔を上げ、口を開いた。
「おじさん、聞いて下さい、私は」
「父さん! 僕は脅されてなんかない!」
葵の言葉を遮って、武士は叫んだ。
「父さん。僕はまだ高校生だけど、なんの力も無い子供なのかもしれないけど。それでも、僕はこの人を守りたいんだ。そばにいたいんだ。助けたいんだ。もう、近くにいるのに助けられないのは、嫌なんだよ!」
葵は、握った武士の手を更に強く握りしめる。
武士は、父親に嘘は言いたくなかった。
ヤクザに脅され震えながらも、自分を守ると言ってくれた父親に、本当の事を言いたかった。
だから武士は、今言える精一杯の本当の気持ちを父親に伝える。
父親は、ゆっくりと武士の肩から手を離すと、立ち上がった。
「そうか……武士」
父親は武士からすっと顔を逸らす。
「久しぶりに……久しぶりに、俺の目を見て、はっきり言ってくれたな」
武士に背を向けてそう言った父親の表情は、武士からは見えない。
「そうか。お前がそう言うなら……俺はお前を信じよう」
ああ、父さんとの関係を閉ざしていたのは、僕の方だったのかも知れない。
父の背中を見上げて、武士は初めてそう思った。
武士が自分の部屋で持って行く荷物を纏めている最中(葵も手伝おうとしたが、武士が断った。自分の部屋に初めて女の子を入れるには準備が足りていなかった)、リビングで煙草を吸う時沢に、父親が声を掛けた。
「約束してもらいたいことがあります」
「……ああン?」
武士の父親の立派な心意気に触れて、内心では尊敬の念すら抱いていた時沢は、どうにか頑張って怖い声で応える。
「学校には、必ず行かせて下さい。必ずです。出席日数が足りなくなって中退、などという目には絶対に合わせないで下さい」
「……んなこと、約束できませんよ。あの子らの問題でしょう」
事実、武士には訓練を受けさせる必要があった。悠長に高校に通わせる時間が取れるか、現時点ではわからない。
「約束して下さい。私は学校に確認しますよ。もし学校を休んでいるようなことがあれば……私にも考えがあります。
「……へえ。どんな考えですか?」
小馬鹿にしたような口調で時沢は問いかける。
口調はもちろん演技だったが、武士の父親がどんなことを言うのかには興味があった。
「私は不動産会社に勤める人間です。御堂組がどんなに大きい組織か知りませんが、私もその筋の人間に伝手がないわけではない」
ハッタリであることは、時沢にはすぐ分かった。
時沢は、武士の家族について事前に調べていた。
武士の父親が勤める会社は、確かに小規模ながら全国展開している不動産チェーンだ。
しかしまっとうな会社で、どこかの暴力団組織の後ろ盾があるわけではない。
仮にあったとしても、御堂組に勝る規模の組織ではありえなかった。
ハッタリをかましてでも武士を守ろうと、武士の「普通の未来」を守ろうとする彼に、時沢は今すぐ「無礼な口をきいてすみませんでした」と謝罪したい衝動にかられる。
時沢は、筋が通らないことが嫌いな誠実な人間だった。
父親としての筋を通そうとする彼に、感銘を受けていた。
「……わかりました。約束しましょう。ただ、一週間くらいは猶予をもらいます。お嬢を息子さんの高校に転入させます。お嬢は本当に、武士君の側を離れられないんです」
時沢も、武士と同様にできる限り事実のことを伝える。
「……わかった」
父親は僅かながらも安心したように、息を吐いた。
「俺からも頼み……いや、忠告します」
「忠告?」
時沢は神妙な顔で武士の父親に告げる。
「武士君が御堂組に来た後、警察や、国の人間がお父さんを訪ねてくるかもしれません」
「国の人間……?」
「公安とかですよ。御堂組はお父さん、あんたが想像しているよりずっと大きな組織なんでね。国にマークされてるんです」
正確には警察や公安ではなく、鬼島の配下の組織が、ここに偵察に来る可能性があった。
「その時にはお父さん。必ず正直に言って下さい。息子は御堂組の女に手を出して、連れて行かれた、とね。御堂組の、と言うのを忘れないで下さいよ」
今度こそ有無を言わせない迫力で迫る時沢の言葉に、武士の父親は頷くしかなかった。
重要なことだった。
もし彼が事を荒立てないようにと「息子は部屋にいる」「部屋で休んでいる」などと嘘を言ってしまえば、敵は「命蒼刃の使い手」を手に入れる為に、この家を襲撃する可能性があった。
そうなれば父親や、一緒に住んでいるという武士の姉も無事ではすまない。
御堂組に連れていかれたと言ってくれれば、彼は家族には累は及ばないはずだ。
昨年の政界再編の影響で、組織の枝葉の部分をかなり削られてしまったとはいえ、御堂組はまだまだ強大な組織だ。
足下がぐらつきつつある今の鬼島一派が、すぐに御堂組相手に仕掛けてくる可能性は高くはないだろう。
時沢はそう考えた。
二階から、武士が大きなスポーツバックを持って降りてくる。
部屋の前で武士を待っていた葵も、一緒に階段を下りて来た。
「それじゃ、お二人さん。行きましょうか」
時沢は二人に声を掛けると、父親の方を向く。
そしてポケットから名刺を取り出して、父親に渡した。
「俺の携帯番号です。息子さんに電話が繋がらない時は、自分にかけて下さい」
時沢の精一杯の誠意だった。父親は名刺を受け取ると、釘を刺す。
「約束を忘れないで下さいよ」
「約束?」
武士は首を傾げるが、時沢は「帰ったら話します」とだけ言った。
「武士」
父親が、武士の前に立つ。
「父さん」
「お前、剣道は続けるのか」
「え? えっと…」
父親の問いに、武士は思わず時沢を見る。
「御堂組のビルに、剣道場もありますよ」
時沢の言葉に、武士は頷くと父親の目を見て答える。
「続ける。僕はこれから、強くならなくちゃいけないんだ」
「そうか。……わかった。頑張れ」
頑張れ。
漢字で書けば三文字の、短い言葉。
ありふれた言葉。
その言葉が武士には、やけに嬉しかった。
御堂組のビルへ車で戻る間に、武士は時沢から父親の切なる願いを伝えられた。
「父さんが、そんなことを…」
「聞き届けないわけにいかないでしょう。下手に騒がれても面倒になりますし。それに、きちんと学校に通うというのは、それはそれでいいかも知れません。あの学校には御堂組の影響も及びます」
「そうなんですか?」
「暁学園の創設者は、組長の御友人です。政治家の子息たちもよく通う学園です。昨日は奴らの襲撃があったようですが、生徒の多い昼の時間なら、奴らも下手に手を出せないはずです。かえって安全でしょう」
「私も……暁学園に、通うんですか?」
葵は戸惑っている様子で、時沢に尋ねる。
「そうして頂きたいですね。私が聞いた話だと、魂の結びつきを強める方法はいくつかあるようですが、一緒にいる時間が長ければそれに越したことはないようです」
「そうですか……」
「不安?」
俯く葵に、武士は声をかける。
「ううん。確かに学校なんて通ったことはないけど。これも任務だから」
「……そっか」
武士は葵の返答を聞いて自分でも説明できない寂しさを覚えながらも、父親の前で「武士のことを好きになった女の子」を演じ通した彼女なら、うまくやるだろうと思った。
結果的には、まったくそんなことはなかったのだが。
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