間抜けね

 




「で、ナースステーションの前でまた捕まって、それでいつまでもサインしてたの?

 間抜けね」


 葡萄を食べながら、晶生は、真田のところから帰ってきたという沐生に言う。


 父親は風呂で、母親はソファに座って、ニュースを見ていた。


 共にソファの後ろのダイニングテーブルに座る沐生は、マヌケと言われたせいか、言い返してきた。


「お前もサインしてなかったか?

 日向が取材に行った先で、うっかり探偵のサインを」


「……あれ、飾ってあったの?」


 よく見ろよ、と沐生は言うが、行ってすぐに事件が起こったので、そんなもの確認する暇もなかった。


「そういえば、うっかり探偵の横が空けてあったらしいが」

と沐生が言ってくるので、


「そこが笹井さんのサインの指定席なんじゃない?」

と言うと、渋い顔をする。


「……もらって来られなかったの?」

と訊くと、いや、と言って、沐生は革製の小型のボストンバッグの中をゴソゴソし始めた。


 だが、何故か、下を見たまま、すぐに出して来ないので、晶生は促すように、

「ん」

と手を差し出す。


 沐生は悪さの証拠を仕方なく親に見せる子供のように、そうっとそれを晶生の手のひらに載せてきた。


 何故、カップ麺を載せる……と思ってよく見ると、カップ麺に黒いマジックでサインがしてあった。


「なにこれーっ」

とカップ麺を両手で掴み、晶生は叫ぶ。


「笹井さんに失礼じゃないーっ」


「なかったんだ、ちょうどいいものが」

と弁解したあとで、


「いや、そのときは、ちょうどいいものだと思ったんだ」

というよくわからない言い訳を沐生はしてくる。


 後ろで揉めているのに気付いた母親は、ソファから振り返ると、

「なにそれ。

 笹井さんのサインなの?


 やだー、私も欲しいー」

と騒ぎ出した。


 そこに風呂から上がってきた父親も混ざってきて、

「沐生、わたしも欲しいな」

と言い出した。


 いや、一家に一個で……


 いや、一枚でいいんでは、と思ったが、両親に弱い沐生は、そこは突っ込まずに、

「じゃあ、今度もらってくるよ」

と言っていた。


「お母さんもカップ麺に書いて欲しいわ。

 そんなの持ってる人居ないし、食べたらご利益ありそうじゃない」


 ……サインもらっといて、ビニール裂いて食べる気か、と思いながらも、じゃあ、カップ麺を二個用意せねばな、と思っていた。


 そのとき、沐生の視線がテレビに向かって動いた。


 雨が降らないという話題とともに、水位の下がったダムが映っていた。


 もうすぐ夏が来る。


 恐ろしい夏が。


 私が人を殺した夏、ではない。


 ダムが干上がる夏、だ。


「まだ雨、降らないのねー」


 あまりご利益があるとは思えない笹井のカップ麺を拝みに来ていた母親は、自分たちに出してくれた葡萄を一房とってソファに戻りながら、言う。


「明日から節水になるかもって三谷みたにのおばあちゃんが、言ってたみたいなんだけど」


 恐ろしい、夏が来る――。


 振り向くと、沐生はダムのニュースを見ている自分の方を見ていた。







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