懐古ホテル IV

 今あるホテルの上に、かつての華やかで何処か退廃的なこのホテルが見えた。

 そこを行き交う、レトロだが洗練された洋装の人々。


 室内には繊細なシャンデリア。

 湾曲する中央の階段横には、花が生けられた巨大な白磁の花瓶がある。


 外にはガス灯の温かい灯り。

 美しい幻だ。


 遠藤が見えた。


 生きて動いている遠藤が。


 藤色のロングドレスを着た女が彼の前に立つ。

 手には羽のついた鍔広の帽子があった。


 遠藤は黙って彼女を見、微笑んでいる。

 だが、その女が動く前に、遠藤は倒れる。


 弾が遠藤の腹を貫通し、後ろにあった大きな花瓶に刺さった。

 遠藤の許に駆け寄る女の手から帽子とナイフが落ちる。


 女の後ろに、立ち去る恰幅のいい男の姿が見えた。

 トントンという大道具さんの放つ音が晶生の耳に聞こえ始めた。


 消えた幻に晶生は呟く。


「……銃で撃たれてるじゃないですか。しかも、オッサンに」

「現実はかくも儚いものだよ」


 遠藤はそう溜息をついた。

 彼は恐らく、あの女に刺されたかったのだ。


 だが――。


「悪業祟って、殺されたくもないオッサンに殺されてしまったんですね」

「まあ……彼女に当たらなくてよかった」

と殊勝なことを言い、己れの両膝で頬杖をつく。


 もしや、それが無念で、消えられなかったのだろうか。


「でも、ずっと此処で燻っていると、その彼女が生まれ変わったときに会えませんよ。

 っていうか、現れても、ぼんやり眺めてることになりますよ、霊として」


「それも運命さ。

 それに、あのとき、殺されてもいいと思うくらい、あの女が好きだったというだけで。


 その前には違う女だったし。

 あのまま助かっていたら、今度は違う女だったろう」


 おいおい。

 まあ、それが本心とは限らないが、とりあえず、男に殺されたのが無念なようだった。


「おい」

と声がした。


 振り向くと、沐生が立っていた。

 いきなり金を投げつけてくる。


 制服のスカートに落ちたそれを見ながら、

「援助交際ならしないわよ」

と言うと、


「お前は、二千円か。

 それで、タクシーで帰れ。もう遅い」

と言う。


「まだ夕暮れどきじゃないの。

 大丈夫よ」

と言ったが、本当は、夜よりも夕闇の街の方が嫌いだった。


「じゃあ、ジュースでも買え」

と言って、沐生は振り返らずに下りていってしまう。


 晶生は二千円を手に呟いた。


「一本、二千円のジュース?」

「このご時世だから、探せば何処かにあるんじゃないのか?」

と遠藤は笑っている。


 撮影に戻る沐生の背には、また、あの水死した男の霊が憑いていた。

 遠藤が笑う。


「お前から私を引き剥がす暇があったら、自分に憑いてる霊を剥がせばいいのにな」


「……あれは剥がれないわ。

 人の話、聞かないから」

と晶生は立ち上がる。


「また来いよ」

と遠藤は言った。


 長い脚を組み、笑って言う。


「暇なんだ。

 またなにかあったら、話を聞かせてくれ。


 ああ、今回の事件の結末もな」


 了解、と晶生は小さく手を挙げた。

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