第3話
「遅刻するわよ! ハナ!」
「うーん……おばあちゃん……」
「なに寝ぼけてんのよ、ハナ!」
いつものようにぺたぺたとウメがハナのほっぺたを叩く。
「起きるよう……」
「ハナ!」
「わかったってば、ウメ」
今日はもうこの声がウメの声だとわかる。眠い目をこすりながら起き上がるとベッドから飛び降りたウメが両手両足をそろえて床の上でハナを見上げていた。
「ってまだ7時じゃん! もう嘘つかないでよ、ウメ」
時計を見たハナはもう一度布団に潜り込もうとする。いつもハナが起きるのは7時半だ。あと30分もある。
「ちょっと行ってほしいところがあるのよ」
「えー?」
布団にくるまってハナはウメに背中を向けたまま聞き返す。
「なんかねえ、クロが寝込んでるらしいのよ。学校の前にちょっと様子見てきてくれない?」
「それどこ情報?」
ハナが寝返りをうちながら言うと、ウメがハナのおなかの上に飛び乗った。
「ぐっ」
いくらウメが小さいとはいえ、おなかに飛び乗られると苦しい。
「どこでもいいじゃない、そんなの」
「それくらい教えてよ」
ハナはおなかの上のウメを抱き上げてどかしながら聞いた。ウメはほんのちょっと考え込んだあと、小さくため息をついてから言った。
「……仕方ないわねえ。トロ情報よ」
「……それって夜のうちにトロが報告にくるの?」
「そういうことになるわね」
ということは、ウメもハナが寝ている間にベッドから抜け出しているということだ。でも家からは出ていないはずだし、いったいどこでそんな話を聞くんだろう……? ハナは仕方なくベッドから起き上がり、着替え始める。クロが寝込んでいるというのはちょっと心配だった。
「でも夜中に出歩くなんてトロって案外不良だね」
「まあ、あいつもいろいろあるみたいだからねえ」
あの太ったトロになにか悩みがあるとはとても思えなかった。ハナは髪の毛を結ぶと部屋を出て1階へと向かう。それにウメも続く。流しで顔を洗っていると仕事場からお母さんの声が聞こえた。
「あらはやい。まだ朝ご飯できてないわよ」
「ちょっと散歩いってくる!」
ハナは答えると顔を拭き、靴を履いて家を出た。
「おはよう! ハナちゃん! 早いね、どうしたの!」
学校に行くときと同じように天ぷら屋のおじさんが声をかけてくる。
「ちょっと用があるの」
答えてハナは天ぷら屋さんとパン屋さんの間の隙間をのぞき込む。薄暗くてよく見えない上に、その名のとおり真っ黒い猫のクロは暗い場所だとよく見えない。
「そんなところに用事?」
天ぷら屋のおじさんがハナの後ろから隙間をのぞき込んだかと思うと、顔をあげ誰かに声をかけた。
「お、いってらっしゃい」
だが返事がない。ハナが振り返るとヘッドホンをつけた学生服の男の子が歩いて行くところだった。天ぷら屋さんのひとり息子のケンイチくんだ。確か高校生。ケンイチくんは天ぷら屋のおじさんを振り返ることもなくさっさと駅の方に向かって歩いて行ってしまう。
「挨拶くらいしろってんだ」
天ぷら屋のおじさんがめずらしく機嫌悪そうに言った。
「で、ハナちゃんどうしたの?」
1つ前の機嫌の悪そうな声が嘘みたいにいつもの愛想のいい声でおじさんがハナに話しかける。
「うーん、ちょっと」
天ぷら屋さんとパン屋さんの間は大人だったら絶対に入れないけれど、ハナだったらなんとか入れそうだった。
「なになに?」
ハナは体を横にすると隙間に入り込む。ギリギリ入ることのできたそこは、なんだかほこりっぽい場所だった。
「服が汚れるよ、ハナちゃん!」
「大丈夫」
おじさんの声を背にハナが奥に進んでいくと、家と家の間に挟まれた畳半分くらいの小さな空き地があって、その真ん中でクロが苦しそうにうずくまっていた。
「クロ、大丈夫?」
「にゃ……」
ハナの声にクロは小さく鳴く。だいぶ具合が悪そうだった。このままだと病院に連れて行かないといけないかもしれない。ハナがクロに手を伸ばしたとき、クロが舌を出し変な咳みたいなのをしはじめた。それは猫が吐くときの音だった。猫を飼っている人なら知っているけれど、猫はよく吐く動物だ。毛玉を吐き出したりしているらしい。
「クロ、病院行こう」
そうハナが声をかけた瞬間、クロが吐き出したのはエビのしっぽだった。
「エビ?」
続いて天ぷらの残骸らしきものを一気にクロが吐き出す。なんだか白いプラスチックみたいにも見えたそのかたまりは……。
「イカ?」
それは猫がおなかを壊すから食べてはいけないと言われているエビとイカの天ぷらだった。天ぷらだというだけでも猫の体には悪そうなのに、エビとイカだなんて!
「おなか壊してたのね、クロ」
「にゃうん……」
いつものかっこいい様子からは想像もつかない声でクロが弱々しく鳴いた。天ぷらをごはんにあげるなんて、おじさんにちゃんと言っておかなくちゃ!
「もう大丈夫?」
ハナが頭を撫でるとクロがのどを鳴らした。猫がのどを鳴らすのはご機嫌のしるしだ。ちょっと心配だったけど、エビとイカの件を含めておじさんに注意しておけばたぶん大丈夫だろう。全部吐いちゃったみたいだし。
「食べちゃダメだよ、そんなの。おじさんにもいっとくからね」
ハナはもう一度クロの頭を撫でてから、また細い隙間を通って商店街へと出た。
「どうしたの、ハナちゃん。こんなところに潜り込んで……」
隙間の向こうでは天ぷら屋のおじさんが心配そうに待っていた。
「おじさん!」
「な、なに?」
ハナは勢いよくおじさんに詰め寄ると言った。
「猫にエビとイカ食べさせちゃダメだよ! それに天ぷらだなんて!」
「え?」
ハナの勢いにおされたのか、おじさんが不思議そうに首をかしげる。
「あのね、クロがおなかを壊してるの。さっき吐いちゃったから大丈夫だと思うけど、もしお昼くらいになってもクロが出てこなかったら病院に連れて行ってあげて」
「わ、わかった」
びっくりした顔のままおじさんが頷く。
「じゃあ私、遅刻するから戻るね」
ハナはおじさんにそう言い残すと、家までまっすぐに走り出す。とりあえずクロが重病とかじゃなくてよかった。これで安心だ。ハナは元気よく家に駆け込む。
「ただいま!」
「どうだった?」
玄関では心配そうにウメが待っていた。
「クロ、おじさんにエビとイカの天ぷらをもらって、それでおなか壊してたみたい」
「エビとイカ?」
「ハナ、遅刻するわよ! 早く朝ごはん食べなさい」
聞き返して不思議そうに首をかしげたハナの声に、お母さんの声が重なる。
「今行くから!」
「それで大丈夫なのね、クロは」
慌てて靴を脱ぐハナにウメは念を押すように聞いた。
「うん、おじさんにもしひどそうだったら病院に連れて行くよう言っといた」
「ならよかった」
安心したようにウメが言う。
「ハナ!」
お母さんがまたハナを呼ぶ。もう7時45分だ。早くごはんを食べなくちゃ。
「はーい!」
玄関へと駆け込んだハナは今度は台所へと走り込む。
学校から帰ってきたハナがいつものように台所にいくと、テーブルの上にお母さんの買い物メモが残されていた。
子持ち昆布の佃煮 キャベツ 豚バラ肉100g
どうやら今日もお母さんは寝ているらしい。朝は昨日よりは元気そうだったのに。今日は家の鍵もかかっていた。いつものように電子レンジからおにぎりを取り出してハナが食べているとウメが階段を下りてくる音がした。それはかちかちという階段の滑り止めに爪のひっかかる小さな音と、その細い足が階段を踏む音が重なったウメにしか出せない音だった。今日はお母さんのベッドで寝ていたみたいだ。
「おかえりなさーい。ふぁ~あ」
ウメが大あくびをしながら台所に入ってくる。
「ただいま、ウメ」
「ユリったらあのあともDVD見てたのよ! うるさいったらありゃしない」
ウメはだるそうに言うとお皿の水を飲み始めた。今日はごはんをちゃんとあげてからお母さんは寝たらしい。昨日〆切で、ハナが学校に行ったあともDVDを見ていたとなると、昨晩お母さんはDVDを見て朝まで起きていたようだ。
「トロからの報告なにかあった?」
「なんにもないわよ。ふぁ~あ」
ウメがまた大あくびをする。
報告がないということは、クロは大丈夫だったということだろうか。学校から帰ってきたときは、天ぷら屋のおじさんはちょうどお客さんが来ていて挨拶できなかった。
ハナはテーブルの上のメモをつかむと立ち上がる。
「どこ行くの、ハナ」
「買い物! それから遊びに行く」
今日はカリンちゃんの家に遊びに行く約束をした。おばあちゃんのことがあってから、なんだかカリンちゃんもちょっと落ち込んでるみたいだったし。
「はいはい、いってらっしゃい」
眠そうな顔でウメが言った。
ハナはまず、商店街に出るとすぐの場所にある天ぷら屋さんに行き、おじさんに声をかける。
「おじさん、クロどうだった?」
「ああ、元気になったみたいだよ」
「よかった!」
ハナはほっと胸をなで下ろす。
「それにしても……あ、いらっしゃい!」
おじさんがなにか言いかけたとき、お客さんが来た。
「じゃあね、おじさん」
仕事の邪魔をしたら悪いし、ハナは買い物をするべく次のお店に向かう。肉屋さんと八百屋さんに寄って、最後に佃煮屋さんだ。
「こんにちは! 子持ち昆布ください!」
「あらいらっしゃい」
頭に三角巾を巻いたおばさんがハナを出迎えてくれる。
「ごめんなさいね、今日は子持ち昆布ないの」
「え!」
佃煮屋さんで品切れは珍しかった。
「かわりにジャコあるわよ。昨日炊いたやつだけど」
小さな魚がいっぱいのジャコより子持ち昆布のが好きだけど、ないなら仕方がない。
「うーん……じゃあジャコでいいや。子持ち昆布がないなんて珍しいね、おばさん」
「それがねえ―――……」
おばさんの表情がちょっと困ったように暗くなった。
「どうしたの?」
「シロがお鍋をひっくり返したのよ」
「え、シロが?」
いつもおっとりとしていておとなしいシロがそんなことをするとは思えなかった。それに佃煮屋さんの鍋はかなり大きいはずだ。
「でもどうして?」
「それがわかんないのよ。夜中に大きな音がして慌てて起きたら、お鍋がひっくり返ってて、その横でシロがにゃーにゃー鳴いててね。それでうちの人怒っちゃって、シロに出てけ! って」
それは大事件だ。のんびりしているシロがお店から追い出されて、ノラ猫としてやっていけるとはとても思えない。確かに商店街にいれば、ほかの人がごはんをくれるかもしれないけど、縄張り争いはあるはずだ。そのうえシロは商店街の中でウメの次に年をとっている猫だとウメは言っていた。そんなシロがノラをやれるはずがない。
「シロはどうしてるの?」
「怒られたっきりどこかに行っちゃったわ……帰ってきてほしいんだけど、うちの人がねえ……」
おばさんが悲しそうに言った。これは帰ってウメに話した方がいいかもしれない。
「はい、ジャコ。380円」
「ありがとう」
ハナはおばさんからジャコの包みを受け取ると少し早足で家へと向かう。
「ウメ!」
「なによもう、うるさいわねえ」
玄関で慌ててハナが呼ぶと、めんどくさそうにウメが風呂場から出てきた。
「シロが家出しちゃったんだって!」
「……シロが?」
玄関で靴も脱がずに言ったハナに、眠そうだったウメの目がぱっちりと見開いた。ハナが佃煮屋さんで聞いた話を聞かせると、まるで暗闇にいるみたいにウメの目が大きくなった。
「シロがノラをやっていけるとは思えないわね。それにシロが理由もなく鍋をひっくり返したりするかしら?」
「私もそう思う」
ハナの意見はウメとまったく同じだった。シロは愛想もいいし、いつもすごくお行儀がいい。
「私、シロを探してみる」
「遊びに行くんじゃないの?」
「あ、そうだった。電話してまたにするよ」
カリンちゃんのことも心配だけど、シロの方がもっと心配だった。ハナは携帯電話を持っていない。とりあえず靴を脱ぎ、カリンちゃんに電話を入れてから、もう一度靴を履いたハナの前でウメは大きく伸びをする。
「ウメはどうするの」
「あたしは風呂場で寝てるわよ」
「え? シロが心配じゃないの?」
風呂場で寝るなんてのんきなことを言い出すなんてウメが信じられなかった。
「心配だけどハナが探してくれるんでしょ?」
「それはそうだけど……」
自分だけが働いてるなんて、なんだかちょっとむかつく。
「シロのこと、よろしくね」
ウメがにっこりと笑って言った。
なんだかすっきりしないけど仕方ない。まずハナは商店街のお店に聞き込みをすることにした。天ぷら屋さんにパン屋さん、それから八百屋さんに肉屋さん。
「あら、シロがいなくなっちゃったの? 見かけないわねえ」
どこのお店でもそんなかんじだった。最後に魚屋さんにハナは足を踏み入れる。
「へいらっしゃい!」
いつも魚屋のおじさんは元気がいい。
「佃煮屋さんのシロ見かけませんでしたか?」
「シロ? 見かけてないよ。それよりハナちゃん、うちのトロ知らない?」
魚屋のおじさんがタオルを巻いた頭をかきながら言った。
「え、トロもいないんですか?」
「昨日の夜から帰ってこないんだよねえ。まあうちのはおなかがすけば帰ってくるだろうけど」
トロもいなくなってるなんて! 今日の商店街の猫たちはクロの具合の悪いのから始まって、事件が多すぎる。でも今はトロよりシロだ。なんといってもトロならたぶん、おじさんの言うとおり、おなかがすいたら帰ってくる。
「見かけたら報告します」
「ありがとう、頼むよ」
おじさんの言葉を背に、ハナは昨日も歩いたカリンちゃんのおばあちゃんちに続く裏路地へと入っていく。猫がいそうなところってどんなところだろう……?
「シロ、出ておいでよ」
あちこちの隙間をのぞき込みながらハナはシロを呼ぶ。ハナがしばらく歩いて行ったそのとき、黒い影がハナの前を横切った。
「あ、クロ!」
ハナが呼びかけるとその黒い影は足を止めハナを見上げる。クロは朝の具合が嘘のように元気そうだった。
「元気になったんだ、よかった。ねえシロしらない?」
ハナは尋ねるが、クロは不思議そうにハナを見上げている。こんな風に聞いてもクロが話すわけがなかった。商店街の猫がみんなしゃべれれば、きっとシロもすぐ見つかるのに。だが、そのときだった。
「うちにいるよ」
クロが声変わりしたての中学生みたいな声でいきなりしゃべったのだ。
「ク、クロ!?」
「ん?」
驚いて聞き返したハナにクロはなんでもないことのように聞き返した。朝に具合の悪そうなクロをお見舞いしたときは、クロはしゃべっていなかった。なのに今はしゃべっている。
「あんたしゃべれるの?」
「僕はいつもどおりだよ」
いつもどおり……? 意味がわからない。だが今はそれよりシロの様子を聞きたかった。
「で、シロは?」
「だからうち。今朝ハナが来たところ。あれ僕のおうち」
屋根もないけど、あの場所がクロの家のようだった。
「シロ、落ち込んでる……よね」
「うん、かなり」
クロが言った。これでシロの居場所はわかった。でも、佃煮屋のおじさんが許してくれない限り、シロは家には帰れない。どうしたらいいんだろう……?
「でもひどいよね、泥棒来たのを追っ払ったら追い出されるなんて」
「泥棒?」
ブツブツと言ったクロにハナは思わず聞き返す。泥棒だなんて、魚屋の裏のおばあちゃんちと一緒だ!
「それ詳しく聞かせて」
「だったらシロに直接きけばいいよ。僕んち入っていいからさ」
なんでもないことのようにクロが言った。
「直接って……どうやって?」
ウメとクロとは話した。でもシロと話す方法はわからない。
「だって猫の魔法がハナにはかかってるんだろ? ウメに聞いた」
「猫の魔法?」
初めて聞く言葉だ。猫の魔法っていったいなんのこと?
「だから、シロに家に帰る方法を教えてやるって言えばきっと大丈夫だよ。僕ちょっと用があるから行くね」
クロは長くて黒いしっぽを立てて行こうとして、足を止めた。
「朝はありがとう」
振り返るとクロははっきりとそう言った。お礼を言われるとちょっとうれしい。ハナはシロに会うべく歩き始める。それにしても、クロが言っていた猫の魔法っていったいなんのことだろう? 猫の言葉がわかるようになる魔法のことだとは思うけれど、そんなのウメは教えてくれなかった。クロの言うとおりだとしたら、ハナはシロの言葉もわかることになる。それに朝はクロの言葉がわからなかった。どうやったら猫の言葉がわかるようになるんだろう?
隙間にまたも入っていくハナに天ぷら屋のおじさんは不思議そうな顔をしたけど、ハナは気にせずに奥へとたどり着いた。クロが家と呼んでいたその場所には、朝クロが吐いたものがまだそのままになっている。その薄暗い空間でシロがうずくまっていた。
「シロ……?」
人影に気がついた瞬間、シロは逃げだそうと立ち上がるが、それがハナだということに気づくと、また弱々しくそこに小さく座ると小さく鳴いた。
「……にゃー……」
その弱々しい声は朝のクロより消え入りそうな声だった。そして当たり前のことだけど、シロはただ鳴くだけでいきなりしゃべり出したりはしない。ハナはしゃがみこむと、クロに言われたとおり、シロに家に帰る方法を一緒に考えたいと伝えることにする。
「大丈夫? あのね、一緒にシロが佃煮屋さんに戻れる方法を探そうと思うの。だから、泥棒の話教えてくれないかな」
シロの金色の瞳がじっとハナを見つめる。そしてシロはうつむく。やっぱりダメかな。シロはしゃべってくれないかな。どうしたらシロの言葉もわかるようになるんだろう。ハナがあきらめかけたそのとき、小さな声が聞こえた。
「……昨日……」
消え入りそうな声だったけれど、今度はちゃんと話していることがわかる。シロの声はクロよりも低くてちゃんと大人の男の人の声みたいだ。
「昨日、ワタクシが夜の集会に行って帰ってきたら怪しい男が厨房にいたんです。それでなんとかしなくちゃいけないと思いまして、慌てて鍋を落としました。男が逃げ出したのはいいのですが、大騒ぎになってしまい……おじさんに怒られてそれでワタクシは……」
ハナを見上げたシロの目は涙でうるんでいる。
「大丈夫。なんとかするから」
といっても今の時点ではどうしていいのかわからない。
「どんな男だった?」
「よく覚えていませんが、ワタクシが見たことのない人物のようでした」
佃煮屋のおばさんはシロがお客さんの顔を全部覚えていると言っていた。ということは、泥棒は商店街にあまり来ない人物ということだ。
「でも、慌てていたのか、そこにあった木のしゃもじをつかんでそのまま逃げていきました」
「しゃもじ? じゃあ、しゃもじがなくなってるってこと?」
佃煮屋さんにあるしゃもじはハナも見たことがあるけれど、ハナの身長くらいある長いものだ。しゃもじを持って逃げるなんてなんだか間抜けな泥棒だ。
「たぶん……でも同じものが何本もありますし」
シロはうなだれる。
「しゃもじがなくなったことがわかれば、シロが泥棒を追い出そうとしたことがおじさんにわかるよね」
「だといいのですが、おじさんがあんなに怒るなんてワタクシもう……」
シロの目からぽたぽたと涙が落ちる。猫が泣くところなんて初めて見た。でも今はそんなことを言っている場合じゃない。
「シロ、行こう。本当のことをちゃんとおじさんに話そう!」
「ワタクシなんかもういいんです……どうせ年寄りですし」
立ち上がったハナだったが、シロはうつむいたまま、まだ泣いている。確かにしくしくと泣いているシロはなんだかすごくおじいちゃんに見えた。
「シロっていくつなの?」
「今年13歳になります……」
シロが弱々しく答える。
「じゃあウメより年下じゃない!」
「ウメさんは特別ですよ……マツさんの娘なんですから。それにしてもウメさん、お誕生日おめでとうございました。なのにワタクシがこんなことになってしまって……」
「もう、そんなこと言ってないで行くよ!」
ハナは無理矢理シロを抱き上げると、佃煮屋さんへと向かった。
「あらハナちゃん、シロを連れて帰ってきてくれたの?」
シロを抱いたハナに佃煮屋のおばさんはうれしそうに言ったけど、すぐに不安そうな顔になって厨房の中にいるおじさんを振り返った。おじさんは頭にタオルを巻いて、いつものように静かに大きな鍋を大きなしゃもじでかき混ぜている。
「おじさん!」
シロを抱いたまま店の前から呼びかけたハナを、佃煮屋のおじさんはちらっと不機嫌そうに見た。佃煮屋のおじさんは商店街の中でも職人肌で知られる超頑固者だ。ハナだって滅多に話したことはない。
「あーダメダメ、そんなバカ猫の顔なんか見たくない」
おじさんのその言葉にシロはハナの腕の中で震えて泣き始めた。
「そうじゃなくて、おじさん。厨房からなにかなくなってるものない?」
「なくなってるもの? そんなものないよ」
「その大きなしゃもじ。おじさんところには何本あるの?」
「今忙しいんだよ!」
おじさんが怒鳴るように言った。でもここであきらめるわけにはいかない。そこにおばさんが助け船を出してくれた。
「全部で8本よ。壁に掛かってるのが5本。これはほとんど予備で、いつも使ってるのが3本」
「ちゃんと全部ありますか」
ハナの質問におばさんが不思議そうにおじさんを振り返った。おじさんも手を止める。
「……あら?」
おばさんが首をかしげた。おじさんもこわかった顔がほんの少し驚いたような顔に変わっている。
「信じてもらえるかわかんないんですけど、昨日ここに泥棒が入ったんです。それで、シロは泥棒を追っ払おうとして鍋を落として、そしたら泥棒がしゃもじを持って逃げていったらしいんです。信じてもらえますか」
おじさんとおばさんが顔を見合わせた。シロはまだハナの腕の中で震えている。ハナはさらに言葉を続けた。
「だってシロが理由もなく鍋を落としたりするわけないじゃないですか。おじさんも知ってるでしょう? だからしゃもじがなくなってるんです」
「確かに1本ない」
おじさんがぶすっと言った。
「じゃあシロは泥棒を追い払おうとしたんだな」
「そうです」
ハナはおじさんに向かってはっきりと答える。
「でもどうやってそんなことを知ったの?」
おばさんが不思議そうに聞いた。
「シロに聞きました」
ハナは尋ねられたら答えるつもりだったことをそのまま言った。
「シロに聞いた、か……」
おじさんが考え込むように腕を組む。シロはまだぶるぶると震えていた。
「よし、信じよう」
「あなた……」
おばさんがうれしそうにおじさんを振り返った。
「シロ、おいで」
シロがハナの腕の中で顔をあげる。おじさんが厨房から出てきて手を伸ばし、シロを抱き上げた。シロの表情はまだ不安げだ。
「悪かったな」
「にゃ……にゃうん」
おじさんの声にシロがようやくうれしそうに鳴いた。
「よくやったな、シロ」
シロがごろごろとのどを鳴らし始める。
「でも泥棒だなんて、あなた警察に―――」
おばさんがちょっと不安げに言った。
「どうせ猫が言ったなんて言っても信じてもらえるはずないだろう。それにしゃもじ1本だ」
見たことのないような優しい顔をして、おじさんが自分の腕の中にいるシロを撫でる。
「よかった」
思わずつぶやいたハナにおばさんが振り返る。
「ありがとうね、ハナちゃん。でもあなた猫の言葉がわかるなんて……もしかして猫の魔法ってやつかしら?」
おばさんが笑顔で言った。
猫の魔法―――クロから聞いたその言葉をおばさんから聞くとは思わなかった。ハナはどきどきしながらおばさんにたずねる。
「おばさん、猫の魔法を知ってるの?」
「ずっと前にハナちゃんのおばあちゃんが言ってたの。猫の言葉がわかる魔法のこと。そのときはまた冗談言ってなんて、笑ってたんだけど……ハナちゃんはおばあちゃんと一緒で魔法が使えるのね」
それからハナに囁くように言った。
「うちの人も知ってるはずよ。ふたりともハナちゃんのおばあちゃんにはお世話になったから。だから信じてくれたのかも」
佃煮屋のおばさんの言葉は”猫の魔法”の大事な情報だった。
「そっか……おばあちゃんが使ってたんだ……ありがとう、おばさん」
ハナはウメに詳しく話を聞こうと、家に向かって駆けだした。
「ただいま!」
玄関で靴を脱ぎ、ハナは廊下のつきあたりにある風呂場へと駆け込む。
「シロ、どうだった?」
「猫の魔法ってなに!?」
風呂場のふたの上に座っていたウメがハナに聞くのと、ハナがウメに聞いたのがほとんど同時だった。
「その様子なら、うまくいったみたいね。あーあ、心配して損しちゃった。で、どうだったの?」
ウメが安心したように大きく伸びをした。
「ちょっと、話をそらさないでよ」
「話? なんのこと?」
ウメがとぼける。
「猫の魔法! クロにも佃煮屋のおばさんにも聞いたんだから!」
ハナはふたの上にいるウメに顔を近づけて言った。
「まずはシロの話が先よ」
「魔法の話が先!」
ウメに順序を譲るつもりはなかった。それにシロの話が終わったらウメはうまいことを言ってちゃんと話をしてくれない気がする。
「仕方ないわねえ。猫の言葉がわかるようになる魔法……それが猫の魔法。ただそれだけよ」
ウメの答えはあっけなかった。猫の言葉がわかるようになる魔法が、猫の魔法だなんてことはわかっている。どうして使えるようになったのかとか、なんで言葉がわかる猫とそうじゃない猫がいるのかとか、わからないことはたくさんあった。
「さあ、シロの話を聞かせてちょうだい」
「どうやったら使えるようになるの?」
「そんなの自分で考えなさいよ」
ウメがあきれたように言った。
「だってウメは知ってるんでしょう?」
「知らないわよ」
すました顔でウメは答える。絶対にウソだとハナは思う。ウメが知らないわけがない。
「うそつき! それならシロの話しないからいいよ」
「じゃあしなくていいわよ。あとでクロにでも聞くわ」
つーんとそっぽを向いてウメが言った。どうあっても答えるつもりはないらしい。
「うー……」
ハナはうつむいてうめき声をあげる。悔しい。
「風呂場でなにやってんの、ハナ」
そこにお母さんが顔を出した。
「にゃうん」
ウメがうれしそうにふたの上から飛び降り、お母さんの足にまとわりつく。
「あんたたちはほんと仲良しねえ」
「仲良しなんかじゃないもん!」
ハナはお母さんに言い返す。ウメとなんか絶対に仲良しじゃない。
「あらそーう? 仲良しよねえ」
「にゃう」
お母さんがウメを抱き上げた。ごろごろとのどを鳴らしながらウメがお母さんに顔をすり寄せる。ハナよりお母さんの方が絶対ウメと仲良しだ。するとお母さんが驚くべきことを言った。
「ほらウメもそう言ってる」
「お母さん、ウメの言葉がわかるの!?」
ハナは身を乗り出してお母さんに聞き返す。
「んーなんとなくね」
お母さんがウメと顔を見合わせて笑う。
「そうじゃなくて!」
「どうしたのよ、ハナ」
ハナの剣幕にお母さんが驚いたように言った。お母さんにはウメの言葉はわからないみたいだ。すると、お母さんが言った。
「でも、おばあちゃんは猫の言葉がわかったみたいだけどね」
そうだ、おばあちゃんの話はお母さんに聞けばいい。ウメが教えてくれないんだったら、きっとお母さんが教えてくれる。佃煮屋のおばさんが知っていることをお母さんが知らないわけはない。
「おばあちゃんは猫の言葉、わかったんだよね。どうして?」
「猫の魔法とか言ってたけど……うーん、ただ本当におばあちゃんは猫たちと仲良しだったから、猫の言ってることがなんとなくわかったんじゃない? だからあたしもなんとなくわかるよ」
なんとなくなんかじゃない! とハナは思ったけれど、お母さんはそれ以上知らないみたいだった。そのうえ、お母さんはしゃべる猫のマンガも描いているくせに、猫の魔法には興味がないみたいだ。
そういえば、シロはウメがマツの娘だから特別だと言っていた。昨日見た夢の中でおばあちゃんも似たようなことを言っていた気がする。
「ねえ、おかあさん!」
「なに?」
お母さんがウメに顔をすり寄せながら答える。
「マツって知ってる?」
「知ってるわよ、当たり前じゃない。おばあちゃんの猫でウメのお母さん」
ハナたちの会話をさえぎるように、ウメがお母さんの腕から飛び降りる。
「にゃおん」
「あらごはん?」
お母さんがウメの顔をのぞき込む。
「さっきあげたから大丈夫」
ハナはお母さんに話をさせないつもりらしいウメを、つかまえるように抱き上げた。ウメが嫌そうに腕の中でもがくが、ハナはしっかりとウメを押さえつける。
「どんな猫?」
「ウメによく似た茶色い猫で、きれいだったわ。ほれぼれするくらい。あたしが生まれたときから家にいたのよね。それでウメをうんで3年くらいで死んじゃったの」
「ほかには?」
ハナは腕の中で暴れるウメを押さえながら、マツのことをさらに質問する。
「うーんと、家から出て、よく商店街を散歩してたわねえ」
お母さんが首をひねりながら言った。
「もっとなにかないの?」
「あんまり思い出せないわねえ……さあ、晩ごはんの準備しないと。ハナは宿題やっちゃいなさいよ」
「……わかった」
ハナが床に下ろすと、ウメは丸くてきれいな目でハナを見上げている。それはお母さんからたいしたことが聞き出せなかったハナをバカにしているみたいで、すごく腹が立つ。
「さあ、ごはんごはん」
お母さんが腕まくりをしながら流しの前に立った。ハナはしょんぼりと台所を出ると、二階の自分の部屋へと向かう。
宿題を終えたあとに晩ごはんを食べて、ハナはぼんやりとお風呂につかっていた。あのあとウメとは話ができていなかった。狭くて古いお風呂には換気扇なんてものはついていなくて、夏でも冬でもたいてい小さな窓が開いている。窓は人間が出入りできるような大きさじゃないし、窓の向こうはすぐにブロックでできた壁になっていて、泥棒が入るにはゴム人間かなにかじゃないと難しい。ついでにいうと、外から覗かれたりする心配もなかった。ただ湯船につかると、その壁の上からほんのちょっとだけ空が見える。今日は満月だ。
「あ~あ……」
クロのこともシロのことも助けることができてよかったと思うけれど、なんとなく納得がいかない。猫の魔法についてウメに聞きたいけど、ウメは話してくれるつもりはなさそうだったし、なにか条件をつけて話せというと、またおしっこ攻撃あたりを武器に対抗してきそうだ。
そのとき、壁の上をのんびりと歩いて行く影があった。あの大きな猫影はトロだ!
「トロ!?」
ハナは湯船から立ち上がると、網戸をあけ、窓から顔を出す。そこで裸で話しかけたことに気がつくが、顔だけ出している分にはきっと裸は見えないはずだから大丈夫だ。トロはハナをちらっと振り返ると足を止める。もしかしてまだ家に帰ってないのかもしれない。
「ちゃんと家に帰らないとダメだよ、トロ」
ハナの声にトロは少し困ったような顔をしてうつむく。その表情は、いつものごはんのことしか考えてなさそうなのんびりとしたトロの表情とは、ほんのちょっと違って、ハナはトロが心配になる。そういえばウメが“トロもいろいろある“って言ってた気がする。悩みのなさそうなトロにもなにかすごい悩みでもあるのかも。
「なにか悩みがあるなら聞くよ」
ハナはクロが言ったことを思い出す。シロの話が聞きたいなら、帰る方法を教えてやるって言えば大丈夫だとクロは言っていた。ということは、きっと、帰る方法……なにか悩みを解決してあげるよと言えばきっとトロも話をしてくれるはずだ。
「ねえ、トロ?」
ハナはやさしくトロに話しかける。するとトロは―――
「……おなかすいた……」
うつむきながらぼそりとそう言った。
「もう! そんなの家に帰ればいいだけじゃない!」
魚屋の猫であるトロの食事は、商店街の猫の中で一番豪華なはずだった。毎日ちゃんとした生のお魚を食べられている猫なんて、商店街どころか東京、いや日本にだってそうはいないだろう。
「……やっぱりみんなそう言うんだ……」
トロがブツブツとつぶやく。
「……誰も俺のことなんかわかってくれないんだ……」
「ちょっと、トロ!?」
呼びかけたハナを振り返ることもなく、トロは壁から飛び降りてそのままいなくなってしまう。
「トロ!」
背伸びをして呼びかけたけれど、トロは帰ってこなかった。相当深い悩みがあるみたいで、ハナはトロのことがすごく心配になる。でも今トロを追いかけても、夜だし見つけられるとは思えない。いったいトロの悩みってなんなんだろう……?
ハナはちょっとだけ冷えてしまった体を温めようと、網戸を閉めてもう一度湯船につかる。
でも、ふたつわかったことがある。
まずひとつめは、猫の悩みを解決するよと猫に伝えれば、猫はちゃんと話をしてくれるということ。ウメとクロがどうして話をしてくれたのかはわからないけれど、とりあえずシロとトロに関しては、この方法で猫の話を聞けるようになった。
ふたつめは、普段ウメがどこで商店街の猫たちの話を聞いていたかということ。ウメがいつも風呂場にいるのは、この窓ごしに猫たちの話を聞くためだったんだ。この窓なら台風でも来ない限り、いつもあいているし、今みたいに猫が壁の上に乗ればすごく近い距離で話すことができる。
「なあんだ」
秘密ばっかりだと思っていたウメのことも、わかれば簡単だった。きっと猫の魔法もそんなに難しい話じゃないはずだ。
トロの悩みが気になるけれど、あした探してもう一度聞いてみよう。
ハナは湯船で大きく伸びをすると、立ち上がった。
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