Episode8 ただの補助具
≪五年前の話≫
いつものように長年過ごした書斎で目が覚めた。
オルドリッジ家の朝は早い。冬場の冷たい空気が、薄いシーツを貫いて体を震わせる。固い寝台はさらに固くなってしまったように冷たかった。
ここはオルドリッジの書庫。
魔法が使えない俺は、この書庫に飼い殺された亡霊だ。
起き上がって、窓辺に手をかけて背伸びをした。外の風景を見渡せる。朝にしては光が薄く、外は霞んでいた。
雪が積もっていて、使用人たちがせっせと雪をかき分けてる。朝から寒いのにご苦労様。
物心ついた頃にはここが俺の寝室で、そこから見える裏庭の風景が俺の世界すべてだった。書庫はかなり広い。本棚の本以外には、乱雑に積まれた分厚い本や埃が被ったデスクもあって、かくれんぼに使いやすそうな部屋だった。
他の屋敷の人間の出入りは少なく、ここの古い本たちはお蔵入り状態だ。
たまに使用人たちが入ってきては、俺と顔を合わせることなく特定の書物を運んだりしている程度。
ここは俺の牢獄なのかもしれない。
ある二人の足音が書斎の扉前で立ち止まり、何やらヒソヒソと会話をしている。だいたい誰かは分かっている。
――――バン、とノックもなしに扉が開け放たれた。
部屋よりも温かい空気が廊下から吹き込んでくる。
「うっわ、寒いなー」
「おい、不良品! いるんだろ!」
兄たちだった。
「……ここだよ」
「相変わらずみすぼらしいな」
「お前が俺たちの弟なんて恥ずかしくてたまったもんじゃないや!」
ひどい言われ様だが、父子ともにオルドリッジの面々はこんなのばっかりだ。
「今日は何か用?」
「生意気だなぁ。今日は俺たちが特別にお前に魔法を教えてやろうと思ってんだよ」
「いや、いい」
もう何度もそう言って騙された。教えてやるとは名ばかりで、実際はただの実験台だ。兄たちが日に日に覚えていく魔法のサンドバックにされているだけだった。
「いいから来い!」
「嫌だ!」
「不良品のくせに生意気だぞ!」
一番上の兄は嫌がる俺の腕をつかみ、無理やり引っ張っていく。俺はそれを突き放し、兄もその衝撃が思いもよらなかったのか、尻餅をついていた。
一瞬唖然としたが、すぐに苛立ちと恥じらいの表情を浮かべて俺を睨み始める。
「お前は俺の実験台なんだよ!」
そう言って襲いかかってきた。俺はそれを迎え撃とうと身構えたが、しかし恐怖心が勝ってその場で蹲ってしまう。
そこを長男の容赦ない蹴りが襲う。
「ぐっ………!」
苦しい。胸を力任せに蹴られて一瞬呼吸ができなかった。
「お前はそのうち捨てられるんだ。俺たちに可愛がってもらえるだけありがたいと思え!」
そうして裏庭へと連れ出された。
「今日はお前に闇魔法の一つ、デバフのかけ方を教えてやるよ」
「デバフ……?」
冷え切った外は、薄着にはとても堪えられない。俺は身動きとれずにその場で震えていた。
「最近覚えたんだ」
「兄さん、もう前置きはいいんじゃない? さっさと試してみようよ」
「へっ! それもそうだな」
長男は仕切り直して詠唱し始めた。腕を前に突出し、まるで眼前の俺を握りつぶそうとするかのように右手をかざした。
「我が身はシャイタンに捧し傀儡。アグヌスの眼に魂魄は奪われ―――」
ゆっくりと詠唱を始めると、かざした右手の周辺が黒々とした煙のようなものが舞い始めた。
右手の主と、その隣の弟はニヤニヤと醜い笑みを浮かべていた。
◆
飛び起きる。
体中、寝汗が浮かび上がっていた。
幼少期のトラウマはたまに夢に見る。だけどさっきのはあまりにも鮮明だった。ベッドの方を見るとリンジーが寝息一つ立てず、綺麗な寝顔で横になっていた。
肉親とはどういう存在なのだろうか。人々が語る肉親というものと、俺が思い出すそれは食い違いすぎて、むしろ何も感じなかった。
俺はこっそり起きて部屋から出た。朝日が昇り始めたばかりなのか、まだ薄暗かった。住人たちもまだ寝静まっているようだ。
トリスタンさんの部屋に訪れる。小さくノックをするも反応がなかった。
もしかしたら早すぎたか?
「早いな。張り切っているようだな」
急に後ろから声をかけられて心臓が飛び跳ねるほど驚いた。
そこには白を基調とした襟の長い身軽そうな服を着るトリスタンさんが立っていた。革のベルトで道着のように着こなしていた。
明らかに寝起きには見えない。
「トリスタンさん……」
音もなく、気配もなく、いつのまに後ろにいたのかと思えるほどだった。
「外へ行く。寒いが耐えられるか?」
「はい」
トリスタンさんは無表情のまま踵を返して階下へと歩いていったので、俺も後に続いた。
…
外の寒さを感じて、寝ぼけ眼もはっきりしてきた。
庭先の野原まで歩いて、俺は大事なことを言い忘れていたのを思い出す。
「トリスタンさん、俺は――――」
「どうした」
「えーっと、その……」
「魔力が無いことを気にしているのか?」
「え……?!」
不意をつかれて思わず変な声をあげてしまった。
「リンジーから聞いたんですか?」
「いや、見れば分かる」
「そ、そうですか」
「フレッドがオーラがないと言っていたのも魔力を感じられなかったからだろう」
熟練の戦士は相手を見るだけでだいたいの力量は分かるということか。
「ジャック、魔力がないことは気にしなくていい」
「……で、でも」
「確かに俺もフレッドも、戦場では魔術を組み入れる。しかし、それは剣士として甘えでしかないと思っている」
「甘え?」
「あぁ。そうだな――――」
そうしてトリスタンさんは周囲をきょろきょろと見渡して、一つの標的を見定めた。
「あの木を見てみろ」
トリスタンさんの指先には、一本だけぽつんと生えた木が逞しく朝日を浴びていた。他の木々がないおかげか、幹は太く成長し、とても頑丈に見えた。
「俺は今からあの木を"壊す"」
「は、はい」
「リンジーであれば炎で焼き切るかもしれない。フレッドも面倒だからと魔法に頼るかもしれないな。しかし俺は魔法を一切使わないと、ここに宣言しよう」
まさかこの人、あの木を叩き斬るつもりか?
さすがにあの太さでは、剣の方が刃こぼれしてしまうんじゃ?
「では――――」
トリスタンさんは特に躊躇うことなく腰に据えた細身の剣の柄を右手で握り、腰を低く落とした。まだ目標まで家一軒分くらいの距離がある。木は間合いにすら入っていないようだけど、あそこで構えても。
――――刹那、白の剣士はその場から消えた。
次の瞬間には、太く逞しく成長した幹の前で、トリスタンは目にも止まらぬ速さで幾度もの剣戟を浴びせ続けていた。速すぎて太刀筋が見えないが、腕だけ高速で動かし続けているように見える。
一秒程度だったかもしれない。
最後の一振りでも放ったのか、振りの勢いを殺さず、剣をぴしゃりと腰の鞘に納めた。
その納める動きですら、速すぎて分からなかった。少しして、太い木は幹の下方からバラバラと崩れ始め、支えを失った上幹はドシンと倒れて枝葉が無残に散った。
「…………」
俺は言葉が出なかった。
今まで物語でしか読んでこなかった生身の戦士が繰り広げる剣術は、想像をはるかに超えていた。
「ジャック、あの"木"の倒し方は一つではない。剣士として成長すればあのような芸当もできよう」
トリスタンさんは俺の様子を気にするまでもなく、再び淡々と語り始めた。その呼吸は一切乱れていなかった。
「剣士が魔術を組み入れるのは、あくまで敵との間に安全マージンを得るため。戦闘の補助として使っているだけだ」
トリスタンさんは続けて語っていた。今の光景を見せつけられたら、納得という次元を超えて、希望が俺の胸を躍らせる。
俺は一言も聞き逃さまいと、そのレクチャーに耳を傾けた。
「確かに剣術と魔術をうまく混合することができれば、より高い火力を発揮するが、剣術一筋でも十分だ」
「はい!」
「己を剣士と謳う者にとって、魔術は未熟さを補うための補助具でしかない。つまり、ある程度の剣術をマスターすれば戦場でも通じるはずだ」
トリスタンさんの真っ直ぐな眼差しには、俺に対する優しさが伺えた。この人こそ、本当の自分の兄なのではないかと錯覚するほどだ。
「ジャック、お前は魔法が使えないというハンディを背負っていたから、他者よりも劣等感を味わって育ってきた。違うか?」
「……そうです」
「その劣等感は捨て置け。"杖"が無くとも、俺が剣士への道へ導いてやろう」
「……はい!」
頼もしい言葉だった。
「よし、それでは体力づくりからだ。その筋力も剣を振るい続けるには不十分だからな」
「はい!」
そうして俺の朝の特訓が始まった。
…
朝ごはんの時間帯には、俺の体はもうボロボロだった。
三時間弱だろうか。走り込みと腕立て伏せとスクワットを三十回ほど。その一連のトレーニングを周回しただけでもはや口の中から錆びた鉄の味がし始めて、呼吸が難しくなっていった。
トリスタンさんはそんな俺の様子を見て、何一つ口を開かなかった。走れずに歩きそうになったときだけ「もう少しだ」と一言添えるだけだった。だが俺もこの好意を情けない姿で返すわけにはいかなかった。
気合いと執念で乗り切った。
「よし、それでは次は朝食を食べたら再開としよう」
俺の情けない姿にもトリスタンさんはその無表情な顔を変えることなく、俺を地獄へと誘う。俺が倒れたまま呼吸を乱していると、何も言わずにリベルタのアジトへと帰っていった。
これは続けるには相当の根性がいるな……。
しばらく倒れて青空を眺めていると、リンジーが俺を呼ぶ声が聞こえてきた。返事をする元気もない。
「ちょっと。居るなら返事してよ」
気づくとリンジーが傍まで近寄ってきて、俺の死にそうな顔を見て驚いていた。しかし何かを察したのか、その表情もすぐに消えて、嬉しそうに言葉を続けた。
「無茶するね~。体はちゃんと洗ってから戻ってね」
そういうとリンジーは容赦なく俺に冷たい水魔法を浴びせてきた。
そうか。確かにこれは補助具だな……。
◆
「―――その鎖で自由を奪え!」
兄の右手に纏い始めた黒い霧が一気に霧散したかと思うと、俺の方目がけて襲いかかってきた。抵抗も空しく、黒い霧は俺を覆った。
その瞬間、冬だというのに体は燃えるように熱く、動悸も激しく、頭も割れそうなほど振動していた。
視界は一気に拡張し、雪が赤く見え始めた。
一面、赤い世界だ。
俺はなぜここに?
兄たちは何をした?
オルドリッジはなぜ俺を疎む?
俺の何がいけないんだ?
俺はなぜ魔法が使えない?
自我が崩壊しそうなほど、ありとあらゆる思考が巡る
「おい、こいつやばくないか? ちゃんとデバフは効いてるのか?」
「なんか習った反応と違うね」
長男、次男ともどもうるさい声が耳に響いた。
このうるさい虫は本当に兄なのか?
肉親なのか?
耳もまるで拡張してしまったかのように周囲の音を隈なく拾い始めた。
「もう一度やってみるか?」
「そうだね。もしかしたら失敗かもしれないしね」
うるさい。
「………奥様がこないだの夜………」
「……えー! うっそー!」
うるさい。
「……これではイザイア様は満足されない………」
「………はい、申し訳……」
うるさい。
何もかもが聞こえてしまう。
世界はうるさかった。静寂さえもうるさい。
耳鳴りが頭をかけ巡る。
「わが身はシャイタンに捧し……」
「うるさいんだよ!!」
「わっ」
兄は目の前にいた。目の前にいるのか、遠くから拡大して見ているのかもよく分からなかった。だが再びすごい勢いで遠ざかって、雪かきで出来上がった雪山に突っ込んだ。
「なんだよこいつ!」
「やばいぞ、失敗したんだ」
狼狽している兄たちの姿が拡大して映った。
その滲み出る汗すら目に映った。兄たちが焦りで呼吸が荒くなって、鼓動も大きくなり始めたのすら感じられた。
"―――こら! 何をしてる!"
遠いのか近いのかも分からないところからイザイア・オルドリッジ、俺の父親であるべき人物の怒鳴り声が聞こえてきた。
"―――そいつは書斎の亡霊だ! ちょっかいを出すな!"
次の瞬間、俺の意識は大きな振動とともに砕け散った。
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