船出3

 ローラのコントロールのお陰か、船はきちんと水平を保ったまま、ゆっくりと宙を進んだ。高度が下がり、ある程度心も落ち着いたところで船尾に目を向けると、崖から砂が滝のように落ちていくのが見えた。白い何本もの筋が大地の縁に沿ってできている。

 以前ここを訪れたときは、シバを殺してしまった罪悪感で景色なんてまるで頭に入らなかった。しかも俺とモニカ、ノエルがそれぞれバラバラにエアバイクで船を脱出した。

 結局、こうやってじっくり眺めても、この“レグルノーラ”という世界が何故こんな形状をしているのか、未だ理解が追いつかない。一つ言えるのは、確実に存在はしているが、俺たちの住んでいる地球なんかとは、全然違う法則の上に成り立っているのだということだけ。魔法が使えて、船が砂漠を走って、竜が居て。こんな非常識すら、気付けば俺の日常の一部になっていた。

 不思議だ。

 俺はこの非日常をいつの間にかすんなりと受け入れていた。

 人間の脳は錯覚するという。おかしなこと、あり得ないことも、連続して遭遇すれば、いずれ当たり前になっていく。

 レグルノーラの大地は驚くほど分厚い層になっていて、少しずつ離れて行くにつれ、それが一層ハッキリしていく。視界に入りきれないくらい巨大な大地は、よく見ると水面から離れて宙に浮いていた。大地全体に魔法でもかかっているのだろうか。

 音もなく砂が黒い水面に吸い込まれていくのを遠目に見ながら、帆船は更に進んだ。

 船の底が水面に当たり、少し飛沫が上がる。驚くほど慎重に船は着水し、足元の不安定さが際立っていく。

 黒い湖とその水面の粘着性を初めて見た面々は、あまりにも衝撃的な光景に皆目を丸くしていた。自然界にはあるまじき漆黒に包まれるというのは、あまり喜ばしいことではない。生臭さが強くなり、風の温さが増し、顔色を悪くする人が自然と出てくる。口元を押さえ必死に堪える様子には同情するが、俺も気を抜くと、直ぐに気分を悪くしそうだった。

 船全体がしっかりと水面に浮くと、ローラは一旦力を抜いた。

 どうにか第一関門突破。けど、ここからがまた。

 振り返り、


「再び、力を貸してください。合図したら、全ての力を出し切るつもりで竜石に注いでくださいね」


 強張った顔で一人一人の顔を確かめている。

 今度は銀色の魔法陣を宙に描き始めた。塔の魔女ローラの腕の見せ所。黒い水を浄化する聖なる光の魔法。

 二重円、文様、そして文字列。

 慎重に丁寧に、彼女の心をそのまま写し出すように美しい魔法陣を描いていく。


――“聖なる光よ、黒く汚れた湖の水を全て浄化させよ”


 無謀にも思えるこの魔法を発動させるためには、一点の曇りもなく綺麗な心で力を注がなければならない。緊張が走る。ローラが合図すると同時に力を注げるように、各々が身構える。

 と、そのとき。

 船体を取り囲むように、何本もの黒い水柱が立ち上った。船は揺れ、俺たちは再び振り落とされそうになる。

 水柱は水面から切り離され、そこに手足が生え、尾が生え、無数の目が開く。ガバッと開けた口からは無数の牙。俺たちを排除しようというのか、数十体の黒い魔物が船の周囲をあっという間に取り囲んだ。


「チッ……! こんなときに……!」


 剣を具現化させ立ち向かおうとする俺に、ローラが叫ぶ。


「ダメです、今はこちらが優先!」


「けれど」


 文字列が全て刻まれ、魔法陣全体が銀色に光り始める。


「まとめて浄化すれば良いのです。さあ、力を!」


「……クソッ!」


 確かに一体一体倒すよりは。目の前に敵が居ながら生殺し状態の俺は、思わず毒づいた。けれど、だからって力を抜くわけにはいかない。

 できる限りたくさんの力を竜玉に注ぐ。

 ローラの掲げた竜玉は、見る見る間に目映い光を帯びた。

 目も開けられぬくらいの強い光は、魔法陣に吸い込まれ、どんどん拡散していく。船を取り囲んだ黒い魔物たちは、光に溶かされるように消えていった。水面に光が到達すると、そこから少しずつ黒が失われていくのが見えた。

 船は進む。進みながら、少しずつ湖を浄化していく。

 まるで化学反応を起こすかのように、船の周囲だけ黒い水が消えていく。けれどこの調子じゃ、とてもじゃない、いつ全ての浄化が終わるかなんて想像が。


「力が、足りません。もっと力を……!」


 流石のローラにも焦りが見える。

 作戦は間違ってなかった。けど、湖の規模があまりにも大きくて、魔法が追いつかないのだ。

 こんな、表面だけ浄化しても意味がない。もっともっと深いところまで水は続いている。それも全部全部浄化できなければ、結局直ぐに元の真っ黒いだけの湖に戻ってしまうかもしれない。

 無尽蔵な力が必要だ。

 一般の能力者が何人集まっても、それは敵わない。その証拠に、力を出し切った能力者たちは、次々に息を上げ、注がれる力が徐々に少なくなってきている。

 こうなったら。

 俺は意を決して、魔法陣の中へと歩を進めた。突然の出来事にローラは反応できず、目を丸くしている。


「ちょっと貸して」


 と彼女が掲げた竜玉を拝借する。

 竜玉の光は眩しすぎて目が潰れそうだったが、そこに書かれている魔法陣の文字を確認したかった。クルクルと玉を転がすと、一角に“満遍なく力を吸い取り魔法陣へ注ぎ込め”と書き込まれていた。

 これではダメだ。満遍なくなんて。

 彼女は優しい。協力してくれる能力者たちを潰してまで力を欲することはしない。

 俺は手のひらで擦り、その魔法陣を消した。

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