第141話「レプリカ」

 通路の壁面から染み出た水は、次第に勢いを増し続ける。巨大な構造物の軋む音が、長い地下通路に木霊する。東京湾宇宙港の一画は、今まさに寿命を迎えんとしていた。

 水浸しになった男の視界の中に表示されたステータスが、次々と赤く染まっていく。男の機械の身体は、出水程度で壊れる程柔ではない。

 しかし、どれ程高性能なサイバネティクスであっても。そのを変える事は困難だ。無駄を削ぎ落とし、技術の粋を集めた男の身体は、性能に比して常識外に軽い。だが……海水よりも、幾分かは重い。

 通路が水で満たされれば、脱出は面倒になる。何より、データリンクが遮断されるのが致命的だ。仮に通路から逃れたとして、水上漂で脱出を試みるか、得度兵器の攻撃を避けながらが来るまで逃げ回らねばなるまい。

「……日没までは、まだ時がある。潮時か」

 男はその場で胡座をかき、己の体を休眠スリープ状態へと移行させる。欲した物は得られた。座して待てば、迎えが来る。今は、ただ待つのみ。


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「水が溜まるまで、どの位かかるか」

 ガンジー達の行く手の道は、まだ来た時と同じ状態にある。しかし、出水箇所が増えれば、そうも行くまい。下り坂の先の通路が水で埋まれば立ち往生だ。

「……ちょっと待て!止まれ!」

 ガンジーが突如として声を上げる。

「……何事だ」

 足に限界でも訪れたか。クーカイも足を止める。いざとなれば、自分が盾にならざるを得まい。

「ちょっと、耳を澄ませてみろ」

 二人の足音の反響が収まった後。そこに残ったのは、遠くで聞こえる微かな水音だけ。

「……足音が聞こえねぇ」

 追跡者が居るならば、足音がある筈だ。

「追い掛けて来てないんじゃねぇか……?」

「そう判断するのは早計だが……『後ろ』を気にする必要は薄いか?」

 浸水は依然として予測不能だが、脅威が一つ去ったのは大きい。

「でもよ、あいつ一体何だったんだ……」

 それは、彼等に敵手を思い起こす余裕を与える。

「一つ、確かなことがある。あの男には……徳を一切感じなかった」

「そういうのって、感じ取れるモンなのか?」

 相手は、仏舎利を動力とする存在ではない。ならば一層、その謎は増す。

 相手が何者か分からない今、味方まで『得体の知れない誰か』であるべきではない。

「俺は、できる」

 だからクーカイは、そう考えた。

「俺はーー」

 己の正体を告げることを。己に何が出来るのかを告げることを、彼は選んだ。相棒が何と思おうと、それを告げるべき時は今なのだと。

 通路に、再び島が軋む音が鳴り渡った。


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 遥か高空。夜の闇の中を、一個の都市の如き巨体が滑るように翔ける。

死後の楽園の名を冠するその巨体は、今や死と解脱が支配するところとなった地上を、ただ見下ろしながらそこに在り続ける。

 『エリュシオン』。嘗ての巨大企業体の中枢。その一機は、確かに今も天にある。

 エリュシオンは元々、飛びながら建造され、そして飛びながら増築と代謝を繰り返す航空機だ。故にその形状や内装は、今や地に墜ちた哀れな第三位のものとは大きく異なっている。

 機内に設けられた庭園には滝が流れ、鳥が飛ぶ。その中心で、一人の男が優雅にチャーを嗜んでいる。

 そう。そこには、先程までガンジー達を追っていた男と、寸分たがわぬ男が。寸分たがわぬ服と。寸分たがわぬ茶器で。寸分たがわぬ茶を愉しんでいた。

「暫し、待つとしよう」

 この機体が、先程『体』を喪失ロストした地点に到達するまでは幾許かの猶予が在る。

「トリニティとは、古い宗教の言葉でで三位一体を指す」

 男は呟く。父と子と聖霊。それは神を崇める、古い宗教の言葉だ。

 神は既に奇跡を遺して世界から去り。人はその紛い物を作り続けた。その果てに、生まれたもの。それが、彼等の源だ。神と呼ばれるべきものは既に、或いはもしかすると最初から、この世界にはない。

「だが、人は完全ではない」

 だから、それを補うものが必要なのだ。

 それでも人が神を作ろうとした、成れの果て。人として作られ、それに縛られ続ける不死者。人であり続けるために人を捨てた者。そして……


 兎も角、彼は、その一人だ。機械の中に封じ込められた人格と、それに従属する数多の体こそが彼の全てだ。

 『第二席』と呼ばれるものは、一人からなるシステムだ。数多の人格を転写し、混合し、複製する。その結果として生まれた『個』こそが、彼と呼ばれるものに過ぎない。

 だからこそ、全てがレプリカであり、全てが本体である。

 彼は三位より生ずる一体。否、『多数からなる一エ・プルリブス・ウヌム』。人の極致そのものにある存在だ。



 ……だが、それでも尚。『第一位』には、及ばない。

 だから、こそが。彼にとっては、唯一つ神と呼ばうに相応しいものである。

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