第90話「休戦協定」
『セミマルⅢ世』の艦橋。そこでは船長が唯一人、パイプから煙をくゆらせながら舵を握っていた。
「こういう終わりも、悪くはない」
あの有り難そうな機械の影響か、船は既に動力を失った。船員達には僚艦を含めて避難を命じ、居残った頑固者達も甲板の上で最後の抵抗を試みていることだろう。
「少なくとも、煙草が思い切り吸える」
そして……船の最期を見届けるのが、船長としての最後の責務だ。だが、その前に為すべきことがある。船は動力を失ったが、停止した訳ではない。あの得度兵器に船体を体当たりさせるだけの速度は、まだ、残っている。
せめて一太刀浴びせねば、戦いを始めた甲斐もない。
彼は、無謀な行いの道連れが少なく済むことを感謝したが、何に感謝すればいいのかは分からなかった。目の前にはお誂え向きに仏像のようなものがあるが、彼の祈りを聞き入れてはくれまい。
ただただ機械による無機質な救いが押し寄せる世界に、果たして神仏はあるのか。人は何に祈ればいいというのか。
答えはない。そして、彼をこれから何が待ち受けているのかもまた、未知だ。
柔らかな光でできた蓮の花が浮かぶ海面を、船はゆっくりと進む。
船の
徳カリプス以前。海運は高度に自動化され、船長という職業は形骸ばかりの代物となっていた。だから、彼はこの世界に少しだけ感謝していた。
彼もまた、徳カリプスによって多くのものを失った。それでも、再び船を操る機会を与えてくれた船団のために、己の居場所のために戦うことに異論は無かった。
「惜しむらくは……勝てなかったことか」
だが、そこまで望むのは欲張りというものだろう。解脱の時は、近付いていた。
しかし、
『……こえ、……ますか』
何処からか、声がした。声の出元は直ぐに判った。状況把握のために繋ぎ続けていた無線機である。部下達の声ではない。
通信から聞こえたのは、少女の声だった。
この状況で、空気を読まずに通信を送り付けてくるような少女など、彼は一人しか知らない。
船団長。あの何時から生きているとも知れない、少女の声をした鵺。
「聞こえている。残念だがこの戦いは、我々の敗北だ。船を預かっておきながら、申し訳ない」
次に飛んで来るのは、労いの言葉か。はたまた、叱責か。船長は身構える。だが、
『まだ、諦めるのは早いでおじゃる』
彼はその返答に思わず目を剥いた。
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「繋がったよ!」
ヤオが、『マロ』に叫ぶ。
通信回線は、飛ばした無人機を中継局代わりにすることで都合が付いたものの。そもそも、船団の場所を『マロ』は知らなかった。無差別通信は得度兵器を刺激する恐れもある。
ならば、取るべき策は一つ。居場所を知っている相手に呼びかければいいのだ。
「まだ、諦めるのは早いでおじゃる」
通信の相手は、あの艦隊の船長だと名乗った。何やら戸惑っていたようだが、『マロ』の知ったことではない。
「色々言いたいことはあるでおじゃるが、一先ず棚上げでおじゃる。この事態を切り抜けるまで、一時休戦でおじゃるよ」
『……そちらは、一体誰だ』
「麿のことなど、どうでもいいでおじゃる。早く責任者に、この通信を繋ぐでおじゃる。はよう!はよう!」
『わ……わかった、不慣れ故、少し時間がかかるとは思うが……』
気圧されるようにして通信回線が一度切れる。恐らくは、繋ぎ替えをしているのだろう。
『マロ』は手元の端末を見遣る。画面の上では彼の計算したタイムリミット目掛け、カウンターの数字が減り続けている。徳エネルギーフィールドの効果が本格的なものになれば、通信が保たれるかも怪しい。
逆に言えば……通信が繋がっている間はまだ、致命的現象は起こっていないということでもあるが。
『……外の民が、何用であるか』
数十秒の沈黙の後。雑音混じりながら、回線は接続された。聞こえるのは、ヤオと同じか、更に幼いであろう年端も行ぬ少女の声。しかし『マロ』は、その経験から得体の知れぬ存在感を感じ取っていた。
あれは、一筋縄では行かない。彼のこめかみを脂汗が伝う。
『自ら名乗るも業腹だが、特に赦す。われこそが、船団を束ねる長である。名をーー』
その名を聞いて、『マロ』は硬直した。彼はその名を知っていた。裏の事情に通じる者であればある程、その悪名は轟いていたのだから。集落を騒がせた犯人など、彼女の前では小悪党も同然だ。
なぜなら彼女は、ある意味において。『マロ』の最悪の同類なのだから。
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『黄昏のブッシャリオン』
第十章へ続く
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