第48話「遙かなる道」
手の感覚はもはや無い。それでも背には確かに肉の重さがある。空海は灰色の世界を歩き続ける。一体何処を目指しているのかもわからないが、それでも。
「……一緒に、帰ろう」
あの街へ。奥羽山岳寺院都市へ。先の見えない戦争であっても、確かにあそこに明日はあったのだ。
急速に徳が失われていく。それを感じるような気さえする。仏舎利を手放すということは、徳エネルギーの加護を失うということだ。それは、やがてはこの止まった世界へ吸収されるということでもある。
足取りは、一歩ごとに重くなる。睡魔が意識を刈り取ろうとする。
「置いて……行かれよ」
背中から声がする。
「意識を取り戻したか!」
壱参空海の声。
「拙僧は、もうもたぬ。街へは帰れぬよ」
「馬鹿を言うな!大僧正の前で頭を下げて、……その後のことは、それから考えればいい」
「ああ……それも、良いやもしれぬ」
「そうだ。あと少し、我慢してくれ」
残された時間は残り少ない。だが、『異界』の端も見えてきた。黒い『壁』。徳を吸い上げ、世界から
まるで壁そのものが遠ざかっているかのように、歩みが重い。『奇跡』の中心を『奇跡』によって生まれた領域から連れだそうとしているのだ。無理を通す必要もあろう。
「あと、少しだ」
壱参空海の返事はない。背中の重みが消えていく。何かが、手の中から零れていく。脳が振り返ることを拒む。吹雪が一層強くなる。
それでも、肆捌空海は後ろを振り返る。そこにあったのは、色彩を失いつつある今にも崩れ去りそうな壱参空海の肉体。現象の半分には、心当たりがある。功徳の枯渇による炭化。能力を限界まで酷使した覚醒者の成れの果て。
「『奇跡』を抑えろ!」
仏舎利から遠ざかり、徳エネルギーの
「……頭に、響くのう」
絞り出すような声で、壱参空海が応えた。一言喋るごとに、どこかしらから空気の抜ける音がする。物理肉体の機能が限界に達しようとしているのだろう。
「だがこれは、拙僧にも止められぬ」
「そうか」
肆捌空海は、続く謝罪の言葉を呑み込んだ。彼の最期の時間を、自分の満足のために使わせるわけには行くまい。壱参空海が欲するのは、詫びの言葉ではあるまい。
「最期に言い残すことはあるか」
自分とて、この場を生き永らえることのできる保障はない。それでも、人は最期に何かを残せたことに安堵する。人ならざる生まれを持つ者であってもだ。
「……おぬしは、間違ってはおらぬ。であるから、生きて、帰って」
最後の方は、唇が動いているだけだった。
「……わかった。だがこれは、私の不徳だ」
そう言い終わるか終わらぬかのうちに。壱参空海の肉体は解け、最後の一握りの灰が風に舞う。
異界の外の、僅か十歩手前。そこで壱参空海は灰となり、崩れ落ちた。術者を失い、寂滅の世界は急速に消滅する。景色は色彩を取り戻す。雲の合間から陽の光が差す。世界に色と音が戻った。だがそれは、終わりを意味しない。異変の終焉を待ち侘びていた者達が動き出す。
機械の駆動音。地吹雪の合間に見える、巨大な人型のシルエット。幾つもの螺髪頭。徳エネルギーの光輪。
「……そうか」
得度兵器。十、二十。いや、それ以上。異界が消失したことで、接近できるようになったのだろう。
場所は何の遮蔽物もない雪原の只中。退路は無い。刃が必要だ。奇跡が必要だ。
徳エネルギーフィールド。いや、それでは足りない。
「……功徳、収束」
もっと細く。もっと強靭に。彼がやっていたように。盾。鞭。槍。剣。針。
「
金色に輝く徳エネルギーの光、最後の徳の煌めきは、右手の中で小さな針の形を取る。それは蟷螂の斧の如く。小さな灯火の如く。
眼前には数多の得度兵器。背には同胞の亡骸。手にするは、奇跡の最後の一欠片。
遙かなる険しき道がこの先に続こうとも。それでも、意志は微塵も衰えない。自分は、既に選び取ってしまったのだから。
「征くぞ、機械共」
嘗ては、彼等を救う術を思ったこともあった。だが、もう思うまい。安寧は過ぎ去り、滅びも遠ざかった。
緩やかな安寧よりも。遥か彼方の滅びよりも。苦痛に耐え、未来を求めることこそが、命の価値と信ずる限り。
「私の前に、道を譲れ」
決して、歩みを止めることはない。
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『黄昏のブッシャリオン』
第六章へ続く
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