雨が降る。警備の男たちが眉をひそめる。見通しの悪いコンテナヤードに通関をすり抜けて現れた武装集団。彼らは船に乗らない。彼らの任務は、事態を悟った入国管理局や海上保安庁を武力をもって阻止すること。

 そして、あるひとりの男の襲撃に備えること。

 雨に濡れた男がぼやく――「本当に来るのか、顔なしは」

 別の男が応じる――「あの日も雨だった」

「あの日?」

「三星会が一斉検挙された日だ。三号倉庫にブギーマンが現れた。俺は撃った。やつを確かに撃った。だが弾倉が空になるほど撃ってもやつは平然と近づいてきた。平然とだ。そして消えた」

「消えて、どうなった」

「俺の背後に現れた。俺は血眼になってやつを狙い続けていたのに。ほんの一瞬たりとも目を離さなかったのに」

「馬鹿言え。ブギーマンに怯えて、冷凍牛肉に頭をぶつけたやつがいたんだろ。お前じゃないのか?」

「そいつは今、監獄の中だ。俺はそいつの隣で、ブギーマンに鳩尾を殴られた」男はレインコートの上から腹部に手を触れる。「まだ痕が残っている。痛みは癒えても、癒えないものがある。恐怖だ。この痕が消えない限り、俺はあの男が恐ろしい」

「警察に拘束されたろう。確か、高校の教師が」

「違う。あれは偽物だ」

「なぜそう言い切れる」

「工場だ。隅田川の。同じ男だった。俺はまた同じ場所を殴られた」

「同じひとりの男が、この東京で、警察の追求を逃れながらこの一年ほども戦い続けていると?」

「そうだ」

「ありえないね。賭けてもいい。もしも同一人物なら……」男の言葉が途切れる。

 目の前――雨のカーテンの向こうに佇む黒い男。

 レインコートから滴る水滴が視界を遮る一瞬、男たちはそれが幻であることを願う。だが水滴が過ぎ去った時、顔のない男の顔が肉薄している。銃口を上げることすらなく、男たちは意識を手放す。雨は降り続く。


「なぜ日本刀なんだ?」と女が言う。

 隣にいた男が応じる。「幼い頃に麻薬の売人に家族を殺されたらしい。その復讐に、自宅にあった刀で売人を皆殺しにしたんだ」

「嘘くせえ。フィリピンに日本刀?」

「戦時中に匿った日本兵が礼にと置いていったものだ……って聞いたことがある」

 嘘くせえ、ともう一度女が笑う。同じコンテナヤードの一角。幾つかの偽装コンテナとその他多数の通常貨物が壁と通路を形作り、さながら迷路のようだった。

 彼らの目の前を埠頭警備業者の巡回警備員が通り過ぎていく。一部は買収、一部は同志、買収に応じなかったものは脅迫され、〈ファンタズマ〉を阻む者はいなかった。

 ただひとりの例外を除いては。

 首狩りゾエルの伝説を語り合っていた男女――その女の方が続けて言う。

「人間だろう。首狩りもブギーマンも。撃てば死ぬ。撃てばいいんだ。なぜしない?」

 返事がなかった。気配もなかった。

 拳銃を抜いてホールド。左右を警戒するも、姿

 上方に違和感――コンテナを激しく叩く雨音に混じり何かが聴こえたような。

 銃を向ける。コンテナの屋根の上に、何かがある。猫が蹲っているかのように見えたが、雨に濡れた前髪を払って目を凝らすと、別のものが見える。タクティカルブーツを履いた、人の爪先。

 上方へ銃口を向けたまま後退りする。少しずつ様子が見える。見覚えのある、上から支給されたブーツ。つい先刻まで隣にいた男が、コンテナの上で仰向けに横たわっていた。

 ありえねえ、ありえねえ、と女は呟く。たった今まで隣にいたのだ。いくら雨が降っていても、すぐ側まで近寄られたどころか、失神させてコンテナの上まで放り投げられたのに気づかなかった。

 これがブギーマン。

 顔のない男。街の暗闇に潜む亡霊。あれは人ではないと誰かが言った。どうせ嘘だと誰もが笑った。

 コンテナの上で身を伏せているに違いないと考えた女は、銃を構えたまま後退を続ける。すると背中が壁にぶつかる。迷路を形作る反対のコンテナ――と思いきや、壁が動く。身体が宙に浮く。背中から地面に叩きつけられる。

 後頭部を打ちつけた女は呻く。目の前にはマスクで顔面を全て覆い、フードを被った男の姿。

「首狩りはどこだ」

「ブギーマン!?」

「答えろ」黒衣の男――ブギーマン・ザ・フェイスレスの手が女の首を掴み、締め上げる。引き剥がそうとするも、女の手はブギーマンの手袋の上を滑る。掴めたのは、包帯の飾りだけだった。「首狩りゾエルはどこだ」

 手が離れる。窒息寸前の女は咳き込みながら空気を吸い込む。

「誰が……」

 何も言わずにブギーマンは拳を振り上げる。その先は顔でも鳩尾でもなく、女性の器官が備わる下腹部だった。女は抗し難い恐怖に総毛立って叫んだ。「船の中だ!」

「姉妹の護衛か?」

「し、知らない……里帰りでもするんだろ」

「あの船はフィリピンへ向かうのか」

「そうだ」

「フィリピン経由で祖国へ凱旋する?」

「そうだ」

「もう訊くことはない」

 再び振り被られた拳――今度は顔面へ。


 四人一隊となって進む〈ファンタズマ〉が二隊。彼らは仰向けに倒れた男ふたりを発見する。肌蹴たレインコート。傍らには装備していたライフルと拳銃――全て尋常ではない力で分解、破壊。ナイフも一本はねじ曲がり、一本は鋼鉄のコンテナに突き刺さっている。

 逆の方向に捻じ曲がった手脚は明らかに後遺症が残る。それでも息がある――逆にいつでも殺せると脅されているような。

 何者かの攻撃の情報が港湾の部隊全員に共有される。あらゆる銃に初弾が装填される。男たちが手にした高輝度のライトが降り頻る雨を割る。その先に広がる影、影、影。コンテナの表面やビニールシートを被せられた作業機械が複雑な陰影を作る。

 先頭のひとりが頭上に影を発見する。コンテナの上で仰向けになって倒れた戦闘員がふたり。ここにいるぞと見せつけるように膝から下が宙に泳いでいた。

 最後尾のひとりが、自分の足元に何かあることに気づく。背後を警戒するはずの彼はその数秒、意識を足元に持っていかれる。ブーツの爪先が引っ掛けた、短冊のようなもの。色は黒。よく見ればそれは包帯だった。そして彼はブギーマンにまつわる数多くの伝説のうちのひとつを思い出す。

 顔面を黒い包帯で覆った謎の男。解くと中には暗闇だけがある。人の形をしていても、顔がない。そして、顔がない男の顔を見た者は正気を失う。

 一笑に付した噂。今また、彼は包帯を蹴り飛ばそうとする。だが、靴に貼りついてしまって離れない。

 息を吐いて、吸い込もうとした、その瞬間。

 喉を掴まれる。呼吸が止まる。忍び寄られていると気づいたときには眼前に真夜中よりも黒い影がある。フードを被った男。顔面は包帯。辛うじて鼻の凹凸は見て取れるが、目がない。覗き穴のようなものも一切ない。

 顔のない男――他の七人が状況に気づいたときには首を掴まれた男は窒息寸前のまま盾に。彼は思い出す。かつて一度でもブギーマンと対峙した者の中に、噂を笑う者はひとりもいなかったことを。

 周囲を取り囲もうとすると、緩慢な所作でブギーマンは後退。射線を巧妙に避ける。だが後ろにはコンテナの壁。追い詰めて応援を呼べば倒せる――そんな安易な考えが無意識に共有された瞬間、ブギーマンが喉笛を掴んでいた男を放り出す。

 囲っていた男のひとりが巻き添えになって一緒に倒れる。射撃の間もなく、ブギーマンは別の男のライフルを掴んで後ろに回り込み、そのライフルで首を締め上げる。そして今度は後退しない。それどころか、前へ前へとにじり出る。

 リーダー格の男がハンドサインで左右から回り込むよう指示。応じて男たちが銃を構えたまま動く。

 まだだ、まだ撃つな――無言のまま男たちの呼吸が交わされる。摺足で前進するブギーマン、一歩ずつ左右から回り込む拳銃で武装した男たち。

 その時、ブギーマンが動いた。

 首から上だけ。目の錯覚を疑うほど緩慢な動作で、左から回り込もうとしていた男を、見た。

 顔のない顔から注がれる視線が、降り頻る雨を貫いて男を刺した。男は、撃たなければならないと強く感じた。その恐怖、あるいは本能を自覚した時にはもう、引き金を引いていた。

 ブギーマンが拘束していた男を離した。そして身体を微かに逸した。銃声。弾丸は、ブギーマンを挟んで反対側にいた男の腹部を貫く。

 拘束されていた男が側頭部を殴られ昏倒。直後にブギーマンの姿が掻き消える。一瞬遅れて、ただ屈んだだけだと数人が気づくも、既に遅い。前転しつつ別の男に正面から接近するブギーマン。その男が発砲するも、直前にブギーマンの姿がぶれる。また少しだけ射線に対して身体を逸した――弾丸は反対側にいた男の足に命中。撃った男は愕然とする間に銃を奪われ、背後に回り込まれ、腕で首を締めて固められる。数秒と保たずに、男は絞め落とされて意識を失う。

 またハンドサインが交わされ、全員が銃を収めてナイフを構える。同士討ちを防ぐためだった。

 一方のブギーマンは、今にも飛びかかるような前傾姿勢で右腕を力なく下ろして左腕だけで構える。その身体は左右に絶え間なく揺れている。そよ風に野の花が揺れるように。雨のせいか、時折全く動いていないようにも見える。揺れているのか、いないのかが、曖昧になる。

 その時、リーダー格の男が耳に着けたインカムに他の部隊からの状況報告を求める音声連絡が届く。男が「対象に遭遇、場所は」と応じたところで、ブギーマンが動く。

 一――ナイフの突きを躱され脇の下に手刀を入れられて掌底打ちで鼻を折られる。

 二――ナイフを構えた手首を掴まれ投げ飛ばされた直後、鳩尾を踏みつけられる。

 三――渾身のナイフの突きがブギーマンの左腕を滑り、バランスを崩したところで膝を折られる。

 四――逆手に振ったナイフがブギーマンの左腕に吸い寄つけられ、愕然として生じた隙に顔面に拳を叩き込まれる。

 五――刃物も銃も持たない男に片腕一本でチームを全滅させられ、最後に残ったリーダー格の男は武器も構えずにインカムへ叫んだ。

「出港しろ! 今すぐだ!」

 顔のない男の鉄甲を装着した左腕の裏拳がその男の顔面を殴打した。

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