㉙
こっちだ、と言って佐竹純次は片瀬怜奈の手を引いた。
神田の貸会議室での再会のとき、怜奈は最後に「でも、ここは嫌」と言った。その直後に徳山を始めとする〈リトル・サポート〉のメンバーが戻ってきて、事なきを得た。だが同じ日の夜、佐竹から怜奈へメッセージが飛んだ。時間と場所を改めての呼び出しの連絡だった。
朝から鈍色の雲が空を覆い、昼過ぎからとうとう雨が降り出したその日は、最高気温が一〇℃にも届かない肌寒さだった。池袋の街を行き交う人々もコートやダウンジャケットを着込んでいた。
陽の落ちた一八時過ぎ。佐竹の指定した待ち合わせ場所は、〈ファンタズマ〉の汚染土爆弾により放射性物質が散布され、警備に駆り出された警官と市民団体が睨み合いを続ける西口公園周辺だった。
顔を会わせるなり傘を差し、手を引いてどんどん歩いていく佐竹。場所が場所だ。佐竹がどんなことを考えて指定したのかは確認するまでもなかった。
「ちょっと。少しくらい、順序とか……」
「尾けられてる」と佐竹は応じた。「三人、いや、四人」
「はあ? 誰に」
「〈ファンタズマ〉だよ。張本の野郎の組織。連中がブギーマンの事件関係者をボコってるって話、知ってんだろ」
「知らないわよ」
「まだシラ切んのかよ。しつけえな」佐竹は間断なく左右や背後に目線を送っている。「ったく。全員慣れたやつだ。銃持ってんのもいる。俺、一応同胞なんだけどな」
「仲間に裏切られて、どんな気分?」
「仲間なんてこの世にひとりもいねえよ。俺と、俺以外だけだ」ただでさえ作り物じみた表情が凍る。「お前、走れるか? 格闘技かじってんだろ」
「なんでそれを……」
「この前のでわかった。なんか護身術っぽい動きしてたもんなー、必死に。ウケたわ」
爬虫類のような薄ら笑い。喉までこみ上げた不快感に蓋をし、目を逸らして怜奈は応じた。
「走れるけど、あんたと一緒に逃げる理由がない。狙われてんのは、あんたでしょ」
「お前を人質にされたら俺が逃げらんねえんだよ」
「は? それ、どういう意味」
佐竹はその質問には答えず、足元を一瞥して言った。「スニーカーかよ。……次の角を右に入って、すぐ左。合図したら傘捨ててダッシュ」
「建物に入ったら?」
「ラブホと風俗しかねえけど?」
「人目があれば向こうも仕掛けてこないでしょ。大通りを使って東口へ出よう」
「確かに……てか、なんで人目があるとこでわざわざ尾行してくんだ、あいつら」
「わざとバレるように尾行して、人目がないところにこっちが逃げるのを待ってるんだと思うけど」
恐らくは監視カメラの監視――猪瀬という女、通称電脳探偵と同じく〈I文書〉の機能を用いたもの。バックに〈スペクター・ツインズ〉がいることは想像に難くなかった。
一旦駅まで戻り、駅構内の連絡通路を進む。若者や通勤・通学客で混雑する夕刻。怜奈は、バッグの中のスマートフォンから羽原紅子に緊急のメッセージを飛ばした。潜入先で身の危険を感じた時に、と示し合わせた文言だった。
佐竹と会っていることは隠しておきたかった。
佐竹の要求するものを奪わせて、それで秘密が守られるなら、誰にも知らせずひとりで事を収めるつもりだった。レイプされそうだから助けて、などと道哉に助けを請うことだけはしたくなかった。彼にだけは、弱い女としての顔を見せたくなかった。弱いものとして、彼から守られるものとして愛されることだけは絶対に嫌だった。そうやって彼の歓心を買うような自分にはなりたくなかった。
だが、相手は〈ファンタズマ〉だ。
捉えようによっては、姿を見せない敵が向こうからやってくる絶好のチャンス。自分のこだわりとチームの目標を天秤にかければ、どちらを優先するべきかは明らかだった。まして、ここで佐竹が捕まればすべての秘密が〈ファンタズマ〉側に流出しかねない。
それにしても、と隣で硬い表情を崩さない少年を盗み見て思う。
佐竹純次は、憂井道哉の秘密を、どうやって知ったのか。
ブギーマンの制裁が下る直前、佐竹は他でもない憂井道哉と校内で喧嘩騒ぎを起こしていた。喧嘩とは名ばかりで実態は一〇人ほどでひとりを袋叩き、結果は憂井道哉が全員を返り討ち。その時初めて目を閉じた状態での格闘術を実戦で遣った道哉は極度の疲労で一時意識を失ったのだという。
それ以上の細かい状況は聞けていない。当時、チームは憂井道哉と羽原紅子のふたりだけだったのだ。
そして、佐竹純次はなぜ〈ファンタズマ〉に協力しないのか。
ブギーマンには恨みがあるはずの彼。そしてブギーマンの正体が憂井道哉と知っているのなら、それを〈ファンタズマ〉に知らせるだけで彼の復讐は成るはずなのだ。
横目で窺う。蛇の目からはなんの感情も読み取れなかった。
地下鉄と接続するあたりの、大人ふたりがやっとすれ違える幅の通路に差し掛かろうとした時、佐竹の手が怜奈の肩を掴んだ。
「何? 東口に出るなら、こっちが……」
「正面、通路内の七人。多分全員〈ファンタズマ〉だ」
「嘘」
「壁作られて銃突きつけられたら終わりだぜ」
佐竹と怜奈が立ち止まっていると、通行人にしては緩慢な歩みで通路内の男たちが通路外へと出てくる。舌打ちしている者もいる。勤め人風のスーツから大学生風のカジュアルな服装まで多種多様だった。だが、言われて観察してみれば、誰かと連絡を取っていたり目線が不自然であったり、挙動に不審な点があった。
駅構内ならば人目はあると考えていた。だが、駅構内にも死角はある、が真実だ。
怜奈は背後に目を向ける。男がひとり、近づいてくる。無関係そうな若者を間に挟むように移動。佐竹が男を睨み、男が佐竹を睨んだ。
やり過ごす。雑踏が急に大きくなった気がする。
憂井道哉に連絡が行き、チームの出動準備が整うまではある程度時間がかかる。紅子からの準備完了の連絡はまだなかった。
周囲を伺いつつ一気に地上への階段を駆け上がる。
雨は本降りになっていた。
「失敗かもな」と佐竹が言った。「誰が〈ファンタズマ〉の連中なのかわかんねえ」
傘の花が咲き乱れ、行き交う人々の姿を半ば覆い隠していた。
早足で目の前の家電量販店に入る。普段は外国人が多く、〈ファンタズマ〉が紛れ込んでいてもわからない。だが今は、駅を挟んで反対側で起こった放射性物質散布テロのために、閑古鳥が鳴いていた。
フロアを一階から最上階まで一周。時間を稼ぐ。スマートフォンを盗み見るが、準備完了の連絡はない。
一階まで戻り、エスカレータで地下へ向かおうとして、割り込んでこようとする女に気づく。挟まれたら万事休す。こちらも曲がりなりにも街を騒がすヴィジランテの一味である以上、騒ぎにして警察を介入させるのは避けたかった。
早足で表へ出る。別の店に入ろうとして、正面から近づいてくる不審な男を佐竹が見つける。
次々と現れるそれらしい男女。マークした全員が〈ファンタズマ〉である確証はなく、踊らされているだけなようにも思える。だが一方で、得体の知れない組織の網が全方向から迫っているという確信がある。そして時折、確実に〈ファンタズマ〉の一員とわかる男や女が現れる。渋谷の少年グループ、ブラック・ネイルズを相手にしたときのことを思い出した。
追い詰められている。
いつの間にか横断歩道を渡って駅の方へ戻らされている。ロータリーのそこかしこに停まる高級ミニバンやライトバンの類が不気味だった。いつ扉が開いて、中から武装した男が飛び出してくるか。あの中に引き込まれたら抵抗する間もなく拉致されてしまうだろう。
「戻らされてるわよ」
「知ってるよ、クソ」佐竹は舌打ちで応じる。
地下へ逃げ込み、早足で歩く。追いかけてくる男たちは、もう隠れようともしていなかった。
再び地上へ出る。西口から目白方面へ逃れようとするも、路駐していたライトバンから作業着姿の男が数人現れる。慌てて方向転換して、信号が点滅する横断歩道を走って渡る。
飲食店やキャバクラ、ガールズバーが居並ぶ繁華街へ脚を踏み入れる。まだ、賑わいの波は達していない。合羽を着込んだ客引きのアルバイトや黒スーツの男たちが障害物になる。
すると傘も差していない黒スーツのひとりが佐竹に手を伸ばす。客引きに紛れ込んでいた〈ファンタズマ〉の構成員――だが佐竹の手刀がスーツの男の手首を打つ。鳩尾への正拳突きに繋ぎ、男はダウン。目にも留まらぬ早業。雨と傘が全てを隠していた。
裏道へ入ればソープランドの看板。水たまりを跳ね上げて走る。傘が邪魔になり、その場に捨てていく。呼び込みのボーイが傘を拾い上げるが、背後から更にやってくる異様な男たちに圧倒されてその場に小さくなる。
自動販売機の影に隠れて男たちをやり過ごし、息を整える。
「詳しいの、こういうところ」
「母親が働いてたんだよ。このへんで、無許可営業してた風俗店で」
ああ、そうとだけ応じる。事件時に週刊誌に載っていた記事の中に、そのような記述があったことを思い出した。
行くぞ、と言われて再び走り出す。
繁華街を抜けると行き交う人が明らかに減る。だが、活気がないのとは違う。いやにピンクや水色の明かりが目立つ街路に並ぶのはいずれもラブホテルだった。だが、そんな隙間にも住宅や商店がある。東京の不思議なところだ。
表通りへ出ようとすると、また〈ファンタズマ〉の構成員らしき人間に見つかる。
慌ててまた裏通りへ戻り、路地から路地へ走る。事を済ませた後のような男女とすれ違う。怪訝な顔をされるのにも構わず走る。
だが、気づけば背後に敵。正面からも敵。
咄嗟に路地のような場所へと逃げ込むが、そこは時間決めの駐車場だった。
一〇人ほどの男女が相次いで現れる。逃げ道が完全に塞がれる。悪態をつく佐竹。
怜奈は、ずぶ濡れの手でスマートフォンを確認する。
「何してんだ、逃げんぞ馬鹿」と怒鳴って駐車場の塀を乗り越えようとする佐竹。
そのメッキが剥げた指輪とブレスレットで彩られた手を、怜奈は掴んだ。
「間に合った」
風切り音――一番後ろにいた男の身体が吸血鬼に拐われたように宙に舞った。
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