⑨
闇に紛れる灰村禎一郎=ブギーマン・ザ・タンブラー。蜘蛛のように足場を伝い、腹立たしい帽子の背中へ忍び寄る。マントの中に手を差し入れ、自慢の新装備を抜き払う。
そして三歩後ろまで近づき、一足飛びに接近。振り返るよりも早く電磁警棒の先端を突きつけた。
「そこまでだ、張本銀治」
「……ほう」〈帽子男〉こと張本銀治は、戯けた様子で両手を挙げる。「俺ちゃんの名前も知ってんのねえ」
「こう見えて一〇〇万ボルトだ。痛いじゃすまねえぜ」
「おお、怖い怖い」
「質問に答えてもらうぜ。お前たちは何者だ。労働者を拉致して何をするつもりだ。土橋信幸は、なぜ被曝を……」
「へえー」張本は、右手をゆっくり下ろすと帽子を取った。「まーだ、そこまでか」
「はあ?」
「まさか本当に来てくれるとは思わなかったよん、ブギーマン」
「ビビったか?」
「それはこちらの台詞だ」張本の身体が沈んだ。
胸倉を掴まれる。引きずり込まれるような感覚――一本背負い。
咄嗟に警棒で叩いて引き剥がす。だが張本の手は今度はマントの裾を掴む。
舌打ち。禎一郎――ブギーマン・ザ・タンブラーは側宙返りでさらに引き剥がす。続けざまに警棒の先端を向けた突きの連打を繰り出すが、張本は後退しながらその全てを躱す。
錆びついた巨大な機械が並ぶ工場。整備用と思しきステップを蹴って躍り上がる。だが張本は片手に帽子を掴んだまま、これも躱す。床に転がりながらの無様な回避だが、姿勢はすぐに整い、また距離を取る。
見切られている、と禎一郎は感じた。
マントと警棒、そして常人の数歩分を一息に進む跳躍力により、禎一郎は狭い場所や不安定な足場の上での戦いを得意としていた。歩道橋の上ではブラック・ネイルズの少年たちを手玉に取り、荒れ果てた三拍子地区ではドバト男を追い詰めた。
それでも見切られる。
張本という男が本気で向かってきたら、返り討ちにできる自信があった。しかし彼は逃げる。見切った上で逃げる。勝つのではなく、負けない戦いを徹底している。
なぜ。
張本はなぜ負けない戦いをするのか。一目散に逃げるでもなく助けを呼ぶ素振りもなく、なぜ戦いながら後退し続けるのか。
半ば崩れた扉を抜け、開けた倉庫のようなスペースへ出る。非常灯だけが点った薄暗い空間に高い天井。積み上げられたコンテナやパレット。追いかけてその中心へ出て、気づいた。
随伴していたはずのドローンの姿がなかった。張本銀治が足を止めていた。
そして周囲に無数の気配があった。
「以前、うちの組織にいたやつのひとりに、新井っていう男がいてねえ。彼は組織に背いて薬物密造・密売で一旗揚げようとした愚か者だったんだけど、見所もあった。だから前のボスは、やつに貴重な戦力を貸し与えもした」芝居がかかった所作で帽子を被る張本。「彼はねえ、ブギーマンがWIREを覗き見てるって気づいて罠にかけたんだ」
耳元で仲間の焦った声。禎一郎は、応じる言葉を発することもできずに周囲を窺う。
右、左、背後、上。物陰から次々と姿を表す武装した男たち。無数の銃口が、マントに覆面の少年へと向けられる。
「そこで今回は君がどこまでなのかを見極めようとしたってわけさ。WIREのアカウントは表と分けた。GPSは偽装した。募集掲示板の閲覧権限は絞った。……ところでミスター・ブギーマン」張本は足元を指差す。「これに見覚えはないか?」
足元――白い缶スプレーのペイント。
暗闇に目が慣れる。ペイントは床一面に広がっている。二歩引いて、全貌を理解する。
〈白ハゲP〉のエンブレムだった。
「君らは例の文書の断片を所持している。ならばこれに反応するだろうと思ったわけさ」
大森海岸駅前のステッカーを思い出す。
武器を置け、と命じる張本。不承ながらもゆっくりと、足元に両手の電磁警棒を置く。
あれを貼ったのも、正体不明のブギーマンを誘き出すためだったというのか。土橋信幸をそのために使ったのか。人の命を道具のように使ったのか。
胃の下のあたりに熱が起こった。怒りだった。
だが、灰村禎一郎は深呼吸する。
ステッカーは市販されていた。その理由がまだわからない。〈白ハゲP〉にはまだ何か他の、隠された意味、あるいは役割のようなものがある。
流されるな、見極めろ。そう自分に言い聞かせる。
激情だけで――ただ走るだけでは、この敵は倒せない。
「目的はなんだ」と禎一郎は言った。
「〈I文書〉の回収」
「俺を殺せば、場所はわからないぜ」
「殺す気はないさ」張本は右手を掲げ、指を鳴らす。どこまでも気障な男。「痛めつける。我らが首狩りゾエルがね」
すると出番を待ち構えていたように奇怪な男が現れる。
全身黒地の戦闘服。肘膝胸ののプロテクター。俺に弾切れはないとばかりに全身に装備した予備弾倉。タクティカルベストにはナイフや手榴弾のようなものも見える。右腰に拳銃。ストラップで提げたサブマシンガン。見るからに室内・近接戦闘を想定した特殊部隊然とした姿。武器を除けば憂井道哉の身にまとうコスチュームに似ていた。
だが左腰には、明らかに不釣り合いな日本刀を提げている。
そして顔には東南アジアの民芸品のような、笑顔の仮面。白地に虹色の羽根で飾られ、唇は真っ赤。
思わず引きつった笑みになってしまい、禎一郎は呟いた。「キャラ盛りすぎだろ」
「じゃあ頼むよ、ゾエルの旦那」張本は帽子に手を当てる。「腕の一本くらいは構わない」
仮面の男、ゾエルが応じた。流暢な日本語だった。「脚のほうがいいだろう。逃げ足が早そうだ」
「首は狩らんでくださいよ、旦那」
「見えるなら、殺せる」
後ずさりする禎一郎。だが周囲は武装した男たちが取り囲む。さながら闘技場へ放り込まれた奴隷の風情。どうすれば勝てる。どうすれば負けない。どうすればこの状況を打破できる。道は見えない。目の前の男に隙はない。
禎一郎の背後に武装した男が二名。銃を突きつけられ、フードを取られ、腕を捻られて禎一郎は膝を屈する。
その時だった。
頭上に一際奇怪な気配を感じた。
首狩り男よりも帽子男よりも異様で恐ろしい怪物。暗闇に潜み、暗闇とともにある男の気配が迫っていた。
禎一郎は笑った。
「おい、首狩り。本当に恐ろしいものって、なんだと思う」
首狩りゾエル――質問には答えず刀を抜き払う。
編み上げブーツの靴音を鳴らし、仮面の男が刀を手に近づいてくる。僅かな光に白刃が煌めく。目を奪われる。これから、あの刃に命を奪われることを、納得して受け入れてしまいそうな、妖しげな光だった。あるいは、これまでに斬られた人の命が、白刃に映り込んでいるかのような。
だが、ゾエルが歩みを止める。
物音。振り返れば、コンテナの上から失神した男が転がり落ちてくる。
「本当に恐ろしいものは、目に見えないんだよ」と禎一郎は言った。
また物音と、男の呻き声。ややあって、パレットに積み上げられて朽ちた資材の影から、武装した男が失神して現れ、そのまま床に倒れる。
室内が一斉にざわつく。ライトのついたアサルトライフルを構え、男が二名、同じ暗がりへと足を踏み入れる。
男たちが生唾を飲み込む音が聞こえるような静けさに包まれた倉庫で、戻ってきた二名が報告する。
「誰もいません」
そして、その二名の表情が直後に凍る。
反対側、彼らの目線の先で、別のひとりが泡を吹いて昏倒したのである。
誰からともなく武器を構える。撃つ標的の姿さえ見えないのに引き金に指をかける男たち。交わされる悪態や雑言は日本語、ハングル語、英語。ゾエルが刀を納め、サブマシンガンを構える。張本が帽子を取って呟く。
「何が起こってる。何がいる」
また別のひとりが、今度は資材の上から倒れて落ちてくる。
誰かが口にする――等間隔だ!
「何ではない」とゾエル。「誰、だ」
「ブギーマン? なら、そこに……」
「俺は見える方だ。ご覧の通り、顔もある」銃を頭に突きつけられたまま、禎一郎は言った。「首狩りさんよ。あんた、顔のない男の首は斬れるか?」
頭上に銃口を向けていた男が、コンテナの隙間の暗がりに引きずり込まれる。悲鳴が上がり、銃声が響く。同じ隙間へと数人が分け入る。誰もいない。
先刻の男が倒れてからの時間――ちょうど一三秒。
待ち侘びた声がインカムから聞こえた。
「目と耳を塞げ」
禎一郎は、恐れからか緩んでいた男らの拘束を振り解き、その場で後方宙返りからオーバーヘッドキックで男二人の脳天に蹴りを打ち込む。遠くで、こつん、と床に何かが落ちる音。そしてマントを翻して身体を覆い、その場に蹲って耳を塞いだ。
直後に、空間が丸ごと揺さぶられるような轟音と、太陽を直視したような閃光が倉庫を貫いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。