「確かに、俺だって三連敗は嫌ですよ。あのハト野郎に一発かましてやりてえのもホントです。でも、だからって」灰村禎一郎は、口元に苦笑いを浮かべて言った。「目隠しっすかあ?」

「俺がどうやってるのか、気になってたんだろ」

「それは、まあ」

「走れ」

「はい?」

「走れーっ! 止まったら死ぬぞ!」

「はぃい!」

 翌日早朝の憂井邸地下。寝ぼけ眼を擦る禎一郎に、道哉はいつも自分が使っているものとよく似た覆面を手渡した。特訓だ、と力強く言うと、禎一郎は目を輝かせていた。さすが藤下稜は彼の扱い方をよく心得ている。

 地下の回廊には紅子や葛西が持ち込んだ機材、資材、空き箱の類がそこかしこに積まれており、障害物が多い。オートバイが通過できるだけのスペースは確保してあったが、目隠しをして走れば当然、障害物に蹴躓くことになる。

 そして、回廊と呼び習わした通り、道は真っ直ぐではない。

 送り出してほんの十秒ほどで、禎一郎の悲鳴が地下空洞に反響した。

 近づいていくと、覆面を取った禎一郎が壁際に蹲り、涙目で額を抑えていた。

「いや無理っす、これ無理っす!」

「そうか?」

「だって障害物がどこにあるかわかんないし、道の傾斜とか、目で見てたって繰り返し走らないと身体が覚えないし……」

「じゃあ、やめるか?」

「まさか!」禎一郎は勢いよく立ち上がる。「だって特訓ですからね!」

「そうか?」

「いいじゃないですか。それに正直、ちょっと手詰まり感あったんで。男には思い切りが必要なんです」

 そうか、と応じると、彼なりの納得を得たらしい禎一郎は再び出走する。

 従兄のことをふと考えた。盲目なのに、誰よりも何もかもを見透かしているかのように振る舞う男のことを。

 榑林一真がどのように世界を感じているのか、道哉は知らない。目が見えている道哉相手に稽古をしても一歩も遅れを取ることがなく、むしろ気を抜けば命を刈り取られるのではないかと圧倒される。視覚に頼らない彼の知覚は明らかに異質であり、ゆえに恐ろしさを秘めている。それは彼が時折見せる突き放した態度や、本心とはとても思えないような上っ面の優しさと無関係ではないと道哉は考えていた。

 灰村貞一郎は、『光る道』が見えると言っていた。

 最高の集中を得たとき、次にどう走れば最速で突き進めるかの道標が、淡い光の形態を取って眼前に現れるのだという。

 再び禎一郎の悲鳴が響き、重さはないものが次々と崩れ落ちる音がした。慌てて駆け寄ってみると、大量の空きダンボールに禎一郎の半身が埋まっていた。

 灰村、と道哉は声をかけた。「お前は、同じルートしか走らないのか?」

「え?」

「パルクールの話だよ」

「ショーのときはそうっすね。見て欲しいってのと、怒られるのと、怪我すると競技が死にかねないんで」

「競技?」

「競技人口が一〇〇〇とかしかいなくて、生まれたての赤ん坊みたいなもんなんすよ。だから、誰かに紹介するときは、安全第一なんっす。安全ですよ~、ってPRするんです」

「ひとりのときは?」

「色々ですよ。……もしかして道哉さん、興味あります?」

「何が」

「パルクール。どっすか今度。俺のチーム、最近メンバーが減っちゃって……」

「いやいや、そういうのではなくて」

 背後に足音を感じ、道哉は振り返る。すると、学校の指定ジャージに白衣を羽織った、ポニーテールもどきの妖怪の姿があった。

「憂井が訊きたいのはな、灰村、君の走りは固定モーションなのかリアルタイム演算なのかということだと思うぞ」

 表情を硬直させて首を傾げる禎一郎。道哉も思わず腕組みになる。

「どういうことだ?」

「見知らぬ環境を走るとき、瞬時の判断を強いられる状況が往々にしてあるはずだ。そういうときに、予め規定の動きから選択するのか、あるいは最も最適な動きを最小フレームごとに計算し続け、結果規定の動きと区別はできないが最適な走りに至るのか。どっちだ?」

「何を言ってるのかわからないし、お前はどこから湧いて出たんだ」

 羽原紅子は超然として言った。「私はいつも早起きだ。そして私はお前などという名前ではない」

「はい羽原さん、もうちょっとわかりやすく翻訳してくれる?」

「態度が気に入らんが、まあいいさ。……君に喩えるなら、どう相手を倒すかだ。AIのパターン認識とは異なる神経の発火があるはずだ。反射は意識に先行するんだぞ」

「だから、どういうことだ?」

「君の意識がクロスカウンターを打てと自覚するより〇.五秒早く、脳は準備電位を発火させているんだよ。我々が思う意識とはすべて、無意識の追認にすぎないのかもしれない」

「全然わからないんですけど」ダンボールの山から這い出した禎一郎が言った。「普段は障害物とか、登れるフェンスとかをめっちゃ見るんです。見て、考えるんです。でも、光が見えてるときは、俺、見てないんですよ」

「それは興味深いな」と紅子。「見えているんじゃないのか」

「いや、見えてないわけじゃないっす。ただ、見え方が違うっていうか、他のいろんなものが入ってきて、目に見えるものだけじゃなくなって……」

「視覚以外の感覚が強まるのか?」

 紅子は顎に手を当てて考え込む。「確かに、脳が受け取る情報の八十パーセントは視覚だと言われている。憂井はこれを遮断し新たな感覚を開く。灰村は、他のあらゆる感覚を開いているのだと、仮定できるな。なるほど……」

「何がなるほどなんだ、おい」

「あらゆる感覚を開く」と禎一郎は呟き、ややあって、短く「あ」と声を上げた。「俺、わかったかもしれません」

 首を傾げる道哉と、なぜか得意気な紅子。禎一郎は再び覆面を着け、雄叫びを上げて走り出す。

「次こそぶちのめしてやんぞ、ドバト野郎!」

 遠ざかる禎一郎の背中を見送ると、紅子は呟くように言った。「照れ隠しだな、あれは」

「どこが」

「対抗意識を燃やしているのはドバト男に対してだ、と頻りにアピールするのはどうしてだ?」

「許せないからだろ」

「まあいいさ」紅子の手が道哉の背中を叩いた。小さい手だった。それが羽原紅子の一部であることが信じられなかった。「君は誰かの担任教師でも、誰かの従兄でもないんだからな。……ところで」

「何だ」

「今日は終業式だ。忘れるなよ」

 道哉はしばし首を傾げた。禎一郎の悲鳴が遠くに聞こえた。「すっかり忘れてた」


 慌てふためいて榑林の家へ戻り、制服へ着替えて登校する。

 徒歩とバスだった。近頃はドバト男への対処であまりにも多忙で、小森モータースへ赴き車両を受け取る時間のゆとりがなかったのだ。

 廊下で、目に隈を浮かべた羽原紅子とすれ違う。明らかに寝ていなかった。薄暗い地下では気づかなかったのだ。声をかけようとして、咄嗟のところで思い留まる。彼女とはあくまで他人でいなければならないのだ。

 代わりに、とばかりに肩を叩かれた。

「よっ、道哉」怜奈だった。彼女は出し惜しみするかのような笑みだけを浮かべ、「じゃあね」と言い残して自分の教室へ入る。決して地下で共に悪事を働いてなどいない、ただの友達同士という態度。「おう、おはよう」としか応じられなかった。彼女たちのような演技派にはなれそうになかった。

 教室に入った途端に藤下稜の眠そうな目で睨まれ、何も知らない顔で席に着く。遅刻寸前に登校した松井広海と下らないやり取りを交わし、大講堂で終業式に参加する。紋切型の言葉が並ぶ。だがふいに化学室の復旧予定と、学校内の複数箇所に監視カメラが設置されることが告げられた。名前もうろ覚えの校長が、いじめ等の抑止と不審者対策として設置を決断した、と明言していた。どちらも道哉と紅子が解決した一件だった。

 監視カメラで解決するとはとても思えなかった。カメラで見えないところでやればいいだけだ。これまで教師の目が届かないところで数々の悪徳が行われていたように。誰でもない誰かになって圧倒的な力で殴る以外の解決策は、道哉には思いつかなかった。

 帰り際、片瀬怜奈の名が上から三番目に輝く期末試験成績上位者リストの掲示をぼんやりと眺めていると、隣に島田雅也が立った。

「報告がある」

 掲示板から目を逸らさずに道哉は応じた。「何だ、改まって」

「二十四日、一花ちゃんと一緒に遊びに行くことになった」

「んなっ」道哉は思わず顔を向けた。「マジかよ。聞いてない」

「そっか」

「ん、待て待て、家族に言わない。家族に言わないってことは……」

「言わないってことは?」

「俺も例のあれができるのか。俺が一花ちゃんに訊けば『何でもかんでも言わなきゃいけないの!?』ってあれができるのか。反抗期のあれが!」

「憂井……?」

「俺親がいないからそういうの憧れてたんだよ」

「憂井って時々変なこと言うよな」引きつった笑みになる島田。

 正直動揺していた。動揺している自分に驚いた。親心を感じるにはいささか早すぎるような気がしたが、これはもはや親心だった。

 少なからず特別な存在だから、一花も島田のことを話さなかったに違いない。

 部活の先輩と後輩。オタク気質で打ち解けるまでは内向的だが一線を越えると妙に熱っぽくなる島田は、面倒見のいい年下の一花と上手くやっていけるのではないか。一花が妙なところに持つこだわりも、島田にとってはきっと魅力と映るだろう。ふたりの行く末がハッピーエンドであることを道哉は願った。

 島田の顔をまじまじと見た。どこにでもいる普通の少年だった。そして、いつか誰かとありふれた幸せを築くだろう普通の人間が、ドバト男の映像を消費していることを恐怖した。

 動画の再生数カウンターを回す匿名の存在。文明が獲得した理性によっても全面否定することができない野蛮。彼は悪の片棒を担いでいるが、断罪されるべきではないと思った。マスクとフードを被った道哉が必ずしも善ではない善を行うように、彼は必ずしも悪ではない悪に手を染めていた。

 ドバト男が、巻き込んだのだ。

 島田とは程なく別れ、道哉は憂井邸の蔵から地下室へ向かった。まだ誰もいなかった。主電源スイッチを入れると、あらゆる機器が息を吹き返した。「なるべくかっこよくしよう」という葛西のこだわりで下方からLEDでライトアップされた装備戸棚へ歩み寄り、爆弾群のひとつを手に取った。

 フラッシュグレネード。それが置かれたアクリルの棚。砂っぽいコンクリートの床。雨水が染み込んでひび割れた壁。飛び出した鉄骨と赤錆。回り続ける巨大なファン。地下迷宮へ繋がる通路と、監禁・尋問用の円筒室。そして頭上に広がる都市。

 ドバト男は不特定多数の男性たち、ともすれば女性たちを自身の犯罪の共犯者へと仕立て上げた。被害女性への二度目のレイプは、動画を見る誰かがいなければ成立しない。インターネットを見て、トレンドに敏感で、己の欲望に素直な普通の人々を、それと知らず悪に染めた。

 誰もが目を背け、口を閉ざしながらも消費する性というもの。

 その閉鎖性につけこみ、容赦なく巻き込んだ。

 怜奈が時々使う、奪う、奪われるという言葉をふと思い出した。

 三星会の手から救った時、怜奈は「何もされてないし、何も奪われていないから」と言っていた。無闇に詩的な言葉遣いを好む彼女の言い方が、あの時ばかりは当を得ているように思えた。女たちは奪われるのだ。そしてそれが何なのか、男にはわからない。知識としては知れても、身体で体験することは不可能に近い。

「わかってたまるか……俺は何歳だ」

 わからないものにわからないなりに共感することなどできない。むしろその共感はおせっかいだし、おせっかいな共感は道哉が心から憎むもののひとつだった。

 だがドバト男が悪であることはわかる。

 曖昧にしていたものを炙り出して、デリケートなところをデリケートと知って突く。所詮善悪とは曖昧なものだ。きれいな線引などできやしない。ドバト男の映像を見ることが悪ならば、全てのポルノが悪なのか? その境界線はどこにあるのか? 誰も答えは知らない。わからない。多くの人が議論を尽くしても、誰もが納得できる答えなど導けない。

 ある意味、この戦いは、仕掛けた時点でドバト男の勝ちだった。あの男は、自分の罪を無垢な人の上に分け与えているのだから。

 そして、真っ向から否定すべきではない、人間の原始的な欲求を、否定しなければならないよう仕向けている。

 だからが必要なのだ。

 道哉は目を閉じ、フラッシュグレネードを背後へ放った。視覚を奪う眩い閃光が部屋に満ちた。その光の中で、道哉はもう一度考えた。俺は誰かを裁くに値する人間か、と。

 光が止んだ。目を開き、道哉は呟いた。

「俺は正義じゃない。正義の味方だ」

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