その日は学校の大掃除があった。

 最初の小さな事件は、隣のクラスの島田雅也からもたらされた。廊下で掃除をしているふりをして時間が経つのを待っていたら、同じ目的で教室から出てきたらしい島田に出会したのである。

「例の動画、第二弾の予告が来たんだよ」

「第二弾?」

「そうそう。前回も初回は生配信だったんだって。僕が見たのは録画だったんだけど」

 なるほど、と生返事で応じる。

 生配信ということは、映像が配信されるその瞬間に誰かがレイプされていることになる。どうせ仕込みだ、本物の映像のように見えるだけだという考えが真実ではないことは、園崎由貴の訴えが証明している。

 現場を抑え、ドバト男を捕らえることができれば、DfAの難民支援住宅を利用した理由や入江明との繋がりを解明できるかもしれない。気配しかない何か。だがその何かが、野上善一と協同していた少年を殺した。

「いつだ?」

「明日の夜」島田はにやけ顔で応じた。「ま、楽しみに待ちましょうや」

 紅子に連絡しておくと、数分後に明日の招集命令が下った。

 帰り際、先日の一件からあまり顔を会わせていなかった片瀬怜奈に呼び止められた。

「今日、お稽古なの」珍しく上機嫌に怜奈は言った。これも小さな事件だった。

「お稽古って」

「ほら、護身術。妹ちゃんと約束してて」

「まだ続けてたの?」

「誰も守ってくれないから」

「そりゃあひとりだもん。人間って」

「一生あなたを守りますっていうプロポーズの文句、あれ何なんだろうね。言われて嬉しいのかな」

「一生あなたを守ります」

「何」

「感想」

「不愉快」いつもほどは険のない目線だった。

 一年生の教室へ立ち寄り、一花を交えて三人連れ立って、榑林邸へ向かう。

 冬の榑林邸は物悲しい。寒色の中にきつい原色の山茶花が点々と咲く。石畳みを靴が叩き澄んだ音が広がるたび、何もかもが失われたような寂寥感に襲われる。縁側の板は冷たく、閉めきったガラス戸から庭を望めば、歪んで見える。この季節は、天井の木目までも何かを奪っていくかのように見えて、恐ろしい。

 威勢よく稽古を重ねる一花と怜奈を横目で見ながら、道哉は縁側の陽だまりに腰を下ろした。

 古いガラスって、歪んでるの、と教えてくれたのは、怜奈だった。フロート法と呼ばれる、溶融した錫の上にガラスを流す方法が発明される以前の、手延ガラスだ。彼女に教わるまで、学校の窓と榑林邸の窓からの景色が異なる理由を、道哉は知らなかった。

 何となく、違う。

 何となく、ノスタルジー。

 言葉や知識はその不定形の感覚に形を与え、理解をもたらす。こと建物にまつわることについては、その感覚が結構好きと、怜奈は言っていた。

「だいぶ上達したね、あの子」いつの間にか傍らに忍び寄っていた一真が言った。「身体ができてきた。不思議だね。美しさに磨きがかかったように見える」

「見えねーだろあんた」

「雰囲気の話さ。それに、確かに僕は目が見えないが、目が見える人より多くを見ているつもりだ。少なくとも道哉、君よりはね」

「はい、はい、そうでしょう」

「彼女は断らないよ」思わず顔を上げた。一真はいつもの微笑みを絶やさなかった。「まあ、頑張ることだよ」

 余計なお世話だと応じると、一真は悪の大王か何かのような高笑いで屋敷の奥に引っ込んだ。

 結局その日、榑林家の食卓は怜奈を迎えることになった。稽古の後、箪笥の浴衣を一花とふたりであれもこれもと合わせていたらいつの間にか日が暮れていたのだという。ひとり増えただけで、慣れた居間が華やかで落ち着かなかった。

「先輩でもご飯食べるんですね……」と一花は驚いていた。聞くと、二年の片瀬怜奈は学校で何も食べないし飲まない、霞を食べて生きているとまことしやかに囁かれていたのだという。当の怜奈は「最近主義が揺らいできたの」と困り顔だった。

 帰るね、と言って怜奈が席を立った時には、夜の九時を回っていた。一真が珍しく畏まった様子で片瀬家に電話をかけていた。居間の片隅に置かれた古めかしい固定電話が使われているのを見たのは久々だった。

 受話器を置くと、一真は言った。「ご自宅最寄りのバス停でお父上が待ってるそうだよ。……道哉、もう遅いから、バスに乗るまでお見送りして」

 榑林道場と片瀬邸はバスで一本の位置関係にある。はいはい、と応じて道哉も外出着に着替え、制服に戻った怜奈とふたり榑林道場の門を潜った。

 腕時計に目を落として、怜奈は言った。「ごめんね、こんな時間まで」

「いいよ。一花ちゃんも一真さんも喜んでたし」道哉は足を止めずに応じた。「怜奈ならいつでも歓迎だよ」

「ありがと」

「あの家に、歓迎できる客が来ること、ないから」

「素敵なのに」

「建物が?」

「建物が」

「わからん」

「人も素敵。あんた以外」

「酷い」

「でも、あのお兄さんは苦手」

「一真さんが?」

 そういえば、と思い出す。一真の方も、怜奈のことを苦手だと言っていた。

「あの、何もかも見通している、俺にはわかっているって感じが……」

「不愉快?」

「うん、そう。不愉快」

「でもそれだと、残るの一花ちゃんだけじゃん」

「師匠だから」

「順調?」

「まあね」はにかみ顔で怜奈は応じた。

 人気のない路地を折れる。夜の住宅街は人通りが少なく、道によっては外灯も少ない。道哉が選んだのもそんな通りのひとつだったが、バス停へ向かうには早道だった。確かに暗いし人気もないが、一本向こうはバス通りである。最近は物騒とはいえ、まだ安全な範囲。

「でもさー、あんたと一花ちゃんって結構特殊な関係じゃない?」

「特殊? 従妹だよ」

「普通従妹とは同居しないし。ご両親が亡くなられてからだっけ?」

「うん、そう」

「どんな感じ?」

「うーん。言われると難しいよ。ちょうど……再婚した両親の連れ子同士みたいな」

「あー、それ何か想像できる」

「ちょっと違うような……」一度言葉を切り、顔を上げる。「怜奈、俺の後ろに」

 道哉は足を止めた。

 電信柱の影に、異様な気配があった。

 色が、見えない。強いて表すなら、その気配は虹色だった。敵意なのか、好意なのかもわからない。ただひとつわかるのは、猛烈に興奮しているということだった。

 まだ何も気づいていない怜奈を背中に庇う。電信柱から、それが姿を現す。

「嘘だろ」と道哉は呟いた。

 上半身は裸にボロボロのデニムベスト。下半身は黒タイツ。ひと目でわかるほどに怒張した股間を突き出すその男は、宴会グッズのようなハトのマスクを被っている。

 ドバト男――チーム・ブギーマンが追う謎に包まれた怪人の姿が、そこにあった。

「くるっぽー」とドバト男が啼く。

 女をレイプしその映像を配信した男。怜奈に指一本触れさせるわけにはいかない。そしてここに現れたということは、チーム・ブギーマンの追跡を察知したという意味だ。前を睨んだまま、「逃げろ」と言った。この男は相当手強い。そして、ここで討ち取る以外の選択肢はない。

 だが、怜奈は立ち去ろうとしなかった。

 それどころか、道哉の腕を掴んだ。

「なにこいつ、知らない」と怜奈は言った。

「怜奈?」

「やっつけてよ」おどけた口調だった。

 それで気づいた。

 仮に察知されていたとしても、こちらの手の内を明かす必要は全くない。今ここにいるのは少し格闘技が遣える高校生とその友人でしかないのだ。

 そしてもうひとつ、違和感があった。

 ドバト男の敵意は道哉だけに向いていた。そして、背後の怜奈には、少しの感心も向いていなかった。

 怜奈は腕を離して後退る。道哉は、怜奈に上着を預けて静かに息を吐いて低く構える。ドバト男がじりじりと距離を詰める。そして構える。

 奇妙だ。

 両腕をバレエダンサーのように広げ、爪先立ちになって間合いを詰めてくる。まるで、白鳥だ。こんな拳法は知らない。

 そして、右足を軸にした片足立ちになって静止する。

 道哉は、構えを崩さずにドバト男へにじり寄る。走りだす直前のように腰を低く、吊橋を渡るように両腕を軽く広げた構え。

 静電気のように弾ける敵意を感じる。ドバト男は何かを待ち受けている。そして確信する。この男の構えは虚仮威しではない。

 もう一歩、前に出る。

 その瞬間、敵意が稲妻となった。

「くるっぽー!」

 軸足を入れ替えながらの、電光石火の蹴り上げだった。

 咄嗟に仰け反るように躱す――ドバト男の爪先が、道哉の前髪を掠めた。

 たたらを踏んで構え直す道哉。ドバト男は大仰に首を傾げる。必殺の一撃が通じなかったことに戸惑っているかのようだった。それも道理だ。この男の蹴りは鋭い。よほど鍛錬を積んだ者でなければ、顎を打たれて一撃で倒されてしまうだろう。

 面白い、と内心呟き、道哉は左手を突き出し、二度、手招きした。

「くるっくー! ぽっぽー!」

 肩と股間を怒らせドバト男が吠え、待ち伏せの構えを解く。接近。道哉も間合いを詰める。大上段の回し蹴りが三連発。鞭のように脚がしなる。途中で加速しているかのように思える猛烈な鋭さ。

 四発目でやっと見切って懐へ潜り込む。鳩尾への掌底打ち。確かに打ち込んだ。だがぬるりとした汗の感触。この寒さだというのにありえない発汗量だった。入っているという感触がない。

 左の縦拳、そこから繋いだ裏拳に、ドバト男の上段蹴りが交差する。

 足首を取る。潜り込んで軸足を払う。だが固め技に持ち込む前にドバト男の身体が大ダコの化け物のように暴れ、ブレイクダンスと見紛う頭を支点とした大回転で勢いをつけて立ち上がる。

 そして構えが、変わった。

 ボクシングとは少し違う緩いガード。斜め四十五度に開いた身体。喜び勇むような足捌きで、距離感が鈍らされる。

 本能が危険を悟り、理性へ決断を迫った。

 見ていては見切れない。

 道哉は目を閉じた。

 五感が融け合い、指先や肌の感覚が曖昧になる。空気の中に漂っている目に見えない力の流れのようなものに同化していく。目を開けている時より却ってよく見える世界の全て。そして己が顔と名前を失い、何者でもない、顔のない男になる。

 互いに必殺の間合いを探ってにじり寄る。膨らみ続ける風船のような均衡。ドバト男が唸り声を上げる。

 破局は唐突に訪れた。

 ドバト男が首を上げた。対する道哉はすり足で三歩後退。

 サイレンの音が聞こえたのだ。

 誰かが通報したのか、あるいは何の関係もないのか。少なくともこれ以上戦う愚を犯すべきではなかった。

 道哉は目を開け、ドバト男はまたバレエのような構えに戻る。

 そのまま少しずつ距離を取り、そしてドバト男は曲がり角の向こうへ消えた。

 構えを解く。怜奈が駆け寄ってくる。ややあって、救急車が目の前を通り過ぎていく。

 路地の方を睨みながら、道哉は言った。

「あの男……強い。ハトのくせに」

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