入江の構えはフェンシングに似ていた。電撃を一発入れれば勝ちなのだ。自然と、警棒を前に突き出すフェンシングのような構えになる。

 隙はない。入江という男が何者なのかはともかく、高度な訓練を受けていることは見て取れた。

「警察を呼んでおいた」と入江が言った。「君にしては嬉しくない情報かな。ブギーマンを名乗る謎の男による無許可の自警活動は、公開捜査対象になっていたよねえ。気になるかい? どこまでが我々の差金なのか」

 腰を落とし、腕を広げた構えを崩さない道哉。入江は構わずに、その周囲を周りながら喋り続ける。

「残念だけどねえ、我々にもわからないんだよ。それぞれは独立しているから。そして互いの世界には無関心を貫く。全ての根底に流れる思惑の主を探し求める者はやがて知るだろう。そんなものは、初めから存在しないのだと。たとえば私がそうかもしれない? その私が言っているんだよ。『わからない』と」

 戯れのように一歩踏み込む入江。応じて一歩退く道哉。本気にしたことを笑うように、入江はまた元の間合いを保つ。

 耳元のインカムから紅子の声。「惑わされるな。そいつを倒すことに変わりはない!」

「たとえば私は何者であるのか。たとえば君は何者であるのか。そう、何者でもない。何者でもないがゆえに無力な者たちがいるのと同様に、何者でもないがゆえに我々は強いんだ。そして私は望む」

 入江は急に構えを解いた。

 警戒する道哉の前で、入江は、電磁警棒の先端を自分の心臓に当てた。

「誰にもわかられたくはないと!」

「いかん憂井、そいつを止めろ!」

 弾丸のように突進する道哉=ブギーマン。入江の手に力がこもる。一瞬のためらい。目的は何なのか、この男は一体何者で、何を考えているのか。その全ての答えを失わせないために、ブギーマンは疾走する。風のように。拳が伸びる。その先端から青白い火花が散る。入江の顔に、心なしか満足気な笑みが浮かぶ。

 直撃――入江の全身が力を失った。

 武器を奪い、念のため鳩尾を打っておく。呻く入江。この男の言葉が本当なら、時間がない。

 それでも、放ってはおけなかった。

 倉庫の隅でじっとうずくまる子供たちの拘束をひとりひとり解く。三人どころではない。

「続きは官憲に任せるとしよう」と紅子。「急げ。間に合わなくなる」

「いや……もう間に合わないかもしれない」と葛西。「現場周辺の監視カメラにパトカーが映った。一刻も早く逃げるんだ」

 道哉は事務所と思しき建物の中に入る。

 そこに、一番探していた顔があった。

 道哉はフードとマスクを取った。「怜奈!」

「道哉」片瀬怜奈は、唖然とし、それから顔を綻ばせた。「本当に、道哉なんだ」

「ああそうだ。俺だ。もう大丈夫。大丈夫だから」

 最後に残った手裏剣でタイラップを切り、手錠を焼き切る。両手が自由になった怜奈は、ずぶ濡れで傷だらけで、ハードプロテクターに包まれた道哉の身体に抱きついた。

 数秒だけそうして、彼女は身体を離した。

「あたし、大丈夫だから。何もされてないし、何も奪われていないから。早く行って」

「でも……」

「早く!」怜奈は声を荒げ、それから急に、呟くようにいった。「ベルメゾンコーポ品川。そこへ行って」

「ベルメゾンコーポ……?」

「あなたの力になってくれる人がいる。急いで!」

「敷地内に警察車両を確認、憂井急げ!」

 道哉は走り出した。

 マスクを被り直してから、倉庫の窓を割って裏手へ出る。

 無数の敵意を感じる。

 フェンスを越えて倉庫の敷地外へ出る。パトカーのサイレンが聞こえる。すぐ裏手は住宅街とスーパーマーケット。

 焦った葛西の声。「駄目だ、警察車両だらけだ。回収しようにも、近づけない」

「地下への入り口は」と紅子。

 左右を見回す。そもそもマンホールが見当たらない。少なくとも探索済みの出入口はまだ遠い。

 サイレンの音がどんどん近づく。路地を封鎖される前に――そう思って走る。すると、目の前の曲がり角から現れたのは、制服の警官だった。

 咄嗟に組手の構え。突き出された腕を取り、回り込み、そのまま肘関節へ手刀を打ち込もうとして、道哉は動きを止めた。

 手を離す。

 住宅の塀に飛び乗り、一本隣の路地を目指す。

「許せないもの以外、殴らない」

「憂井?」

「約束したんだ」

 隣に抜けると、十五メートルほど先の交差点に警官の姿。

 走る――商店街へ入る。

 飲み屋やレストランの類が立ち並ぶ通りを横断し、雑居ビルと雑居ビルの隙間を駆け抜ける。フェンスを飛び越え、コンビニの前を抜け、営業していない病院の駐車場を走り抜ける。

 肩で息をしていた。逃げきれない、と直感した。

「紅子。今すぐベースの物品を処分しろ」

「何を言ってる! 諦めるな! 第一、私もそっちへ向かっている!」

 目の前にあったマンホールを開けてみる。下水の臭い。

「ベルメゾンコーポ品川」と道哉は呟く。「どこですか。葛西先生。現在地からの行き方を教えて下さい」

「な、何だそれは……」

「いいから!」

 道哉は再び走り出す。通行人に姿を見られる。パトカーのサイレンの音が近づく。

 ややあってから、葛西から答えが返った。「そこから北東に十分ほど。六階建ての集合住宅だ。ワンルーム中心。住宅密集地だ。近くに大学がある」

「ええい、何だか知らないが一か八かだ。憂井、その建物に登れ」

「登る?」

「今飛ばした! iMoSAICだ!」

 言ってくれる、と道哉は毒づく。

 再びの全力疾走。重い装備に体力を奪われる。

 いつの間にか、雨が上がっていた。

 雲間から月の光が射し、道哉は息を切らして目的の建物に辿り着く。なるべく人目につかぬよう裏路地に入り、隣の建物との隙間に潜る。上空から、二基のドローンに吊り下げられた巨大な甲殻類の腕――『都市内での立体的移動のための革新的な携帯型装置』ことiMoSAICが輸送され、投下された。

 右腕に装着。身体を固定し、頭上へ掲げ、ワイヤーを射出。手応えがある。引いてみても抜ける様子はない。

 眩いライトを浴びる。いつの間にか肉薄していたサイレンの音。数人の警官が声を張り上げている。何を言っているか聞こえない。ためらっている余裕はない。巻き取りモータを始動。

 道哉の身体が、宙に浮いた。

 数度、室外機や窓枠にぶつかりながら、『ベルメゾンコーポ品川』の屋上へと道哉は辿り着く。

 ケーブルを解いて回収。ドローン二基が道哉を案ずるように付き添う。

 目の前に、人影があった。

「片瀬さんに頼まれた」とその男は言った。「憂井だな。今すぐ、そのコスチュームを脱ぐんだ」

 道哉はフードを取り、包帯の装飾つきのマスクを脱ぐ。

 そして目の前の男の姿を見定め、しばし言葉を失ってから、やっとの思いで言った。

「有沢先生……?」

「言っただろ。君が俺との約束を守る限り、俺は越権行為で君を守る」

「どうして。怜奈に? 怜奈が、先生を……」

「許せないもの以外、殴らなかったか?」

「え……」

「答えは」

「は、はい。殴りませんでした」

「なら俺も、約束を守る。すぐにその衣装を脱げ!」有沢は、早くも自分の服を脱ぎながら怒鳴った。「君の代わりに、俺が着る!」

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