有限会社高千穂興産。

 食肉加工と主に韓国食品の輸入、販売、および国内での加工品の製造販売を手掛けるごく小さな企業だ。都内に直営の販売店と飲食店を複数持ち、大手スーパーマーケットのPB商品も製造している。また、品川には自社管理の流通倉庫を持ち、適切な在庫・品質管理で食の安全にも貢献――。

 だがその実態は、コリアン・マフィアの出先機関である。

 直営の販売店は地下銀行の窓口としての役割を持ち、飲食店は構成員らの事務所および違法薬物の一時保管場所としても機能する。倉庫には行政の監査でも決して立ち入らせないエリアが存在し、その中には、活動資金の保管場所や、組織の規範に反した人間を粛清する場所も設けられている。

 人ひとりを殺害して、その痕跡を跡形もなく消滅させられる設備と人員。よそのやくざやマフィア相手に死体の清掃業まで請け負っているのだ。

 全て、入江明という男の話だ。

「どうして、そんなことを、私に?」と片瀬怜奈は言った。

 倉庫の一角にあるプレファブの事務所。革張りのソファに座らされ、怜奈はガラステーブル越しに、入江と向き合っていた。タバコの臭いがする。手錠とタイラップによる後ろ手の拘束は外れそうになかった。

 男たちの目線が不快で、だが恐ろしかった。目を合わせることすらできなかった。事務所に出入りする年齢も出で立ちも様々な男たちから値踏みと憐憫が入り混じった目線を浴びせられるたび、恐怖に全身が竦んだ。

 何かをしようという意志が奪われていく。周りの男たちを少しでも不快にさせたら今よりもっと人間扱いされなくなる気がする。思わず媚びるような目線を入江に向けてしまい、すぐにその自己嫌悪に胸が締めつけられた。

「あの子供たちと、君は違う」と入江は言った。「彼らはこれまでも社会の底辺を這いずりまわって生きてきた。シリアからレバノンを経て日本。インドネシア。あるいはこの国で、誰にも祝福されることなく産まれた子。生まれてから十四日以内に出生届を出されなければ、その子供は存在しないことになる。我々が集めたのは、そんな何者でもない子供たちだ。一九八〇年台には二歳の児童が亡くなることで、親に置き去りにされた無戸籍の兄弟四人がいることが明らかになる事件もあった。痛ましいことに、あれから三〇年以上経っても、状況は改善するどころか悪化する一方だ。難民政策の失敗によってね」

「私が、違うというのは?」

 学校の先生や、尊敬する大人と話す時のように、『私』と口にしてしまっていた。こんな男に敬意を払うことの愚かしさはわかっていても、怖かった。

「君は、幸福な国で育った、幸福な少女だ。こんな状況でも理性を失わない、聡明さもある。でもこれから、君は全てを失うことになる」

「あの子供たちを、どこへ連れて行くんですか」

「自分のことより子供たちか。君は、本当に幸福に育った若者なんだね」

 入江は、事務所の窓越しに、猿ぐつわを噛まされて並ばされた子供たちを見た。すぐ横には貨物コンテナ。側面に『Dream for All』のロゴが描かれている。

 肌の色も骨格も様々。男の子も女の子もいる。ざっと一〇人。日本人らしき子供もいる。だが皆一様に幼く、そして怯えていた。

「彼らがどこへ行くのか、誰も知らない。我々は、彼らをブローカーに引き渡すだけだ。噂すら、聞こえない。誰も興味がないからだ」怜奈が黙っていると、入江は構わずに続ける。「我々は、彼らの世界に介入しない。代わりに彼らは、我々の世界に介入しない。そうして作り上げられた秩序の全貌を知る者はいない」

「私は……どこへ行くんですか」

「私のボスのところだ。君のような女の子を欲している。君は新しい名前と、新しい人生を得る。代わりにこれまでに得たものは全て失う。私は君に同情しているから、こうして話している」

「同情……?」

「私の母も、君のように日本から拉致されたんだ。五〇年前にね」男は、真実とも嘘とも取れない、ただ遠くを見るかのような表情で言った。「政府に認知されない拉致被害者。一部の被害者について大々的に拉致問題と取り上げられ、帰還に向けた活動が行われる一方で、私の母のことは忘れられた。母は日本を恨みながら、現地の男と結婚して私を産んだ。私は、母から日本の全てを教えられた。流暢な日本語だろう?」

 唖然とする。羽原紅子から聞かされた以上だった。これは組織犯罪ですらない。国家犯罪だ。

 もちろん、入江の言葉を全面的に信じるのならば、の話だ。

 息をするように嘘を吐く男だと感じた。ともすれば全て真実なのかもしれないが、一方で、ひとつも本当のことは口にしていないようにも思える。もしかしたら、この男の中では嘘と真実が区別されていないのかもしれない。何かを演じ、嘘を吐くとき特有の空気のようなものを、入江からは感じられなかった。

「対価は、何なんですか」

「対価?」慇懃に微笑む入江。苛立ってはいないようだったので続けた。

「あの子たちや、私をどこかへ連れて行くことで、あなたたちは何を得るんですか。お金?」

「最終的には、金だね。でも実際に札束を仕入れるわけじゃない。覚醒剤だ。東南アジアルートの覚醒剤を仕入れる。それを国内で販売する。そういう取引だ。私の国が出処のものと聞いているが……まあ、保管業者も手を回しているだろう。我々という顧客に売る商品を集めるために努力を惜しまないだろうから」

「誘拐した子供を、『Dream for All』の難民支援物資に偽装して積み出し、洋上で人身売買ブローカーに渡して、対価として覚醒剤を受け取り、その覚醒剤を日本国内に流通させることで、あなたたちは利益を得る」

「正解」入江は笑顔のまま、しかし声音を変えた。「この情報を誰かに伝えようなどと考えているなら、君への評価を改めなければならない」

 ひやりとした。内臓を直接手でなぞられたような感覚。立場の違いを刻みつけられるような。言葉を重ねても無駄。普通の世界で普通に育ってきた人間がどんなに浅知恵を巡らせても無駄。心の強さなど少しも役に立たない。自分と彼と間にある絶望的な差を再認識させられた。

 支配する者と、される者。

 その圧力に押し潰されることが、心地よくさえあった。自分が正しい場所にいると思えるのだ。

「私の冗談を本当のことのように伝えられても、困るからね」入江は相好を崩す。

 乾いた笑い声を精一杯上げて応じる。

 その時、ふと、思い出した。

 道端でバイクを止め、今にも負けそうに俯いている少年の姿を。

 彼はきっと、今もどこかで戦っている。負けそうで、折れそうな心を必死で支えながら。

 ひとりが寂しいくせに強がりを言って、免許取り立てのバイクで走っていく後ろ姿。はぐれものを気取るくせに、先生たちと妙に仲がいい。友達なんかいないという体で日々過ごしているくせに、いじめられていた同級生のために、多勢に無勢でも立ち向かう。

 自分でも信じられないほどに、彼の存在に救われてきた。

 そして今も、信じられないほどに、信じていた。

 きっと彼が助けに来てくれる。顔のない男の顔を被って。

 きっと彼は、現実という魔物がそっと肩に手を置いても、振り払って走り出すことができる。

 怜奈は前を向いて、笑った。

「冗談の続きを教えて欲しいの」

「へえ……それは、どんな?」

 目線に気圧されそうになる。だから自分に言い聞かせる。

 こんな男に、何も奪われたりしない、と。

「あなたは難民に住宅を提供しているから、戸籍のない難民の所在は把握している。でも、日本人や、在日朝鮮人の、戸籍がない子供は?」

 入江は足を組み直す。「いい質問だ。センスがある」

「答えて」

 やや勿体つけてから、入江は応じた。「日本政府が、把握していないと思う?」

「それって……」

 日本政府は、戸籍のない子供たちの存在を認知しながら、放置している。

 それどころか、入江のようなマフィアらと繋がり、子供たちを国外へ排除することで、問題自体を消滅させようとしている。

 嘘でしょ、と思わず声に出そうになった、その時だった。

 電気系の弾けるような音がして、倉庫の照明が全て落ちた。

 男たちがざわつく。入江が立ち上がる気配。

 暗闇。だけど、怖くはない。

 怜奈は言った。

「待ってたよ、ヒーロー」


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