彼女が監視の任務を請け負ったのは偶然だった。監視対象と同じ集合住宅にたまたま住んでいただけだ。

「私では彼を止められない」と電話口の羽原紅子が言った。「君なら話は別かも知れないが、君にその気はないんだろう」

「ええ。その気はないわ」

「まったく……おそらく連中は今日のうちに動く。それだけ抑えてくれれば、君の任務は完了だ」

「あなたたちはどうするの?」

「おそらくは、今夜中に連中の別拠点を襲撃する。厳しい戦いになる。敵は銃火器で武装していて、警察も味方ではない。こちらは手負いで、天候も味方しない。私は彼を、死地へ送り込むことになるかもしれない」

「止めないの?」

「それで聞く男ではないことは、君の方が知っているだろう」

「どうして教えてくれたの?」

「君にはその権利があると思うからだ」

「ありがと」

「礼には及ばない。君も気をつけろ」

 簡潔に、情緒なく電話は切れた。

 彼に連絡しておくことにした。天命を待つには、人事を尽くさなければならない。憂井道哉のために今できることを、全てしておきたかった。

 事前に決めておいた符牒のメッセージを送った。それからマンションのエントランスへ降りて様子を窺う。

 二台のワンボックスカーが停まり、数人の男たちが何かの荷物を積み込んでいた。中身の見えないプラスチックコンテナ。たとえ中に詰め込まれている何かが身動きしたとしても破れない。ワンボックスカーの中には金属のケースもあるようだった。韓国語のやり取りが聞こえた。

「こんばんは」

 背後から冷えた声がした。

 明るい色のスーツにフェドラハットを被ったエレガントな男だった。卵のような肌のせいで年齢がわからない。暗い光をたたえた一重の目。不自然なところなどひとつもない日本語。髪は坊主のようだった。

「ご迷惑おかけしてます。引っ越しなんですよ」と男は言った。

 嘘だ、と直感して応じる。「こんな雨の日の夜に?」

「ええ、そうなんです。ボスがわがままで。困ったものです」男は帽子を取った。坊主頭が顕になった。「実はね、私のボスはとある国の王子様なんです。私は彼に利益をもたらすために粉骨砕身しているのですが、今になって、こんな要求を追加してきた」

 背後に別の気配を感じた、もう遅かった。全身に痛みが走った。身体の、力を入れるスイッチが全部切られ、代わりに痛みのスイッチが全部入ったかのようだった。その場で倒れた彼女に、男は続けて言った。

「日本人の若い女も、欲しいと言うんですよ」



 ベースの鉄扉を開き、地下から室内へ入る。パイプ組みに布を張っただけの簡易ベッドに仰向けに倒れた道哉は、肩で息をしながら言った。

「状況は」

「銃撃戦の跡に警察が出動している。車両はどうせ盗難車だ。三星会に繋がることはないだろう。よく無事だったな。あの状況でこちらの車両を回収できたのも幸運だった」

「こいつのおかげだ」道哉は左の脇腹に手を入れ、基盤を一枚取り出す。「通信用のモジュール。弾がこれに当たった」

「通信が途絶えたから。一時はもう駄目かと思ったぞ……」白衣の紅子はこめかみを揉んで言った。「心配させるな。阿呆」

 葛西が口を挟む。「連中は減音機を使い慣れていなかったんだろう。弾道が斜めだったこと。ハードプロテクターの上だったこと、さらにその下に通信モジュールの基盤を仕込んでいたこと。全て幸運の成せる業だよ……」

 一旦全ての装備を解く。幸運が重なったとはいえ、アポロ君島に殴られた時と同じかそれ以上に左脇腹が痛んだ。

 プロテクターを外し、インナーウェアを捲ると、着弾部位がブドウのような紫色に染まっていた。

「肋骨が折れてるかもしれない。今すぐ病院へ行くべきだね」

 葛西が手早く通信モジュールを交換する。

「連中は」道哉は棚から鎮痛剤を取り、適当に数錠飲み下した。「動いたか。あれだけ派手な銃撃戦までやったんだ。これまでの居所に留まっていることはないだろ。それに、派手な銃撃戦というリスクを犯すだけの利益が得られるってことだ。違うか」

「……今、『メゾン・モーメント世田谷』を発った車両をドローンで追跡している。向かった先は、品川区内の倉庫だ。管理会社は例の食肉加工業者」

「倉庫? そこで何かをするのか。まさか、殺すのか」

「そのつもりならもうやってる。おそらくは、第二の中間保存施設ということだろう。長居はすまい」

「車を替えられるね」と葛西。「誘拐を実行したときや憂井くんを襲撃したときの車両は全部盗難車だろう。そしてここで初めて、法的にクリアされた車に積み荷を載せ替えるんじゃないのかな。食肉加工業者なら、トラックのたぐいも持ってるだろうしね」

「車を替えて、どこへ連れていくんだ。子供たちを。放ってはおけない」服に染みこんだ雨水を絞り落とす道哉。

 そして、羽原紅子の様子がおかしいことに気づいた。

「どうした羽原。何かあったか」

 彼女は、メゾン・モーメント世田谷のエントランスを監視する位置に降着させていたドローンからの映像をモニタに写した。「……三〇分ほど前の映像だ。三星会の入江率いる一団は、監禁していた子供たちを車に積み込むのみならず、ひとりの日本人少女を誘拐した。意図は不明だ。彼女は、私の協力者だった」

「何……」

 道哉は脇腹を抑えて身を乗り出す。

 映像に映る、長い黒髪の少女。簡単なデニムにTシャツの服装は外出着にしてはこなれすぎていて、おそらく部屋着の類だった。つまり彼女はここの住人。

 知っている顔だった。

「片瀬怜奈だ。彼女の居所は偶然にもこのメゾン・モーメント世田谷だった。だから連中の監視に協力してもらっていた。すまない。巻き込んだのは、私の……」

 傷の痛みを忘れた。

 道哉は、紅子の胸倉を掴み、テーブルに押し倒した。

「どういうことだ、説明しろ」

 紅子は顔を背けた。「……半月ほど前、彼女はここに来た。私だけがいる時間帯だった。彼女は、君の秘密を知りたがっていた。私が君と、何をしているのかを。バレたかもしれないと言っていただろ、君も」

「あいつが、ここへ? それで……」

 教えてくれないなら同盟解消、と怜奈は言っていた。

 それから何度も怜奈と話した。まるで同盟解消などなかったかのように。新宿の路上で、放課後の図書室で。

「DfAの難民支援住宅」と葛西が口を挟む。「残り五ヶ所は彼女が担当したのかい?」

「そうだ。帰り道で憂井に会ったと驚いていた。ついでによくわからん展覧会にも足を運んだようだが」

「そんなことはどうでもいい!」道哉は、紅子の頭のすぐ横へ拳を叩きつけた。「なぜ巻き込んだ。なぜ遠ざけなかった!」

 紅子の眼鏡越しの目線が道哉を真正面から睨んだ。「協力させないなら君との関係を断つと言われた!」

「何……?」

「家族もなく、友もなく、佐竹純次のような連中と大して変わらん境遇の君が、失墜せずにいられるのは、彼女のような人がいてくれたからだ。彼女を失えば、君は弱くなる。拳じゃない、ハートが弱くなる。君は、日常への足がかりとなる存在を、決して失ってはならない」

「意味わかんねえよ! それが無関係の人間を巻き込む理由になるか!」

「仮面と拳に呑まれるぞ!? そんな正義に何の価値がある! 君は匿名の存在ではない。仮面の下には素顔がある!」

「ブギーマン・ザ・フェイスレスは何者でもない! ただの亡霊だ!」

「他人を匿名と見做して虐げる連中が私たちの敵なんじゃなかったのか? ひとりの少年を自殺に追いやったらすぐに別の誰かを虐げるような、暴力的な匿名化こそが現代の悪であり……」

「ごちゃごちゃうるせえって言ってんだよ!」

「憂井くん!」

 葛西に背後から羽交い絞めにされる。振り払おうとすると、彼の左手が、容赦なく道哉の傷ついた左脇腹を鷲掴みにした。

 痛みに呻く道哉。紅子は、襟を正して身を起こした。

「我々にできるのはここまでだ。後は警察に任せる」

「……何だと?」

「これは私の推測だが、LAPネットワークと憂国日本松陽党、そして警察OBの日高との関係は、レイシズムによるものだ。外国人を日本から排斥したいという思惑が根底にある。だから、外国人の難民が誘拐されても、見てみぬふりをする。積極的に協力している可能性だってある。想像したくないがな」

「なら……」

「日本人の少女が誘拐されている」紅子は断じて言った。「これで警察は動くだろう」

「警察は何も知らない! 三星会と、例の食肉加工業者の繋がりだって知らない。だから時間がかかるだろう。事件の全貌が本当に明らかになるのかも怪しい。解決できるのは、俺たちだけだ。こうしている間にも、怜奈は連中に何をされるか……」

「君は怪我をしている。そんな状態で、武装した連中と渡り合えるのか」

「やってやるさ。あいつを救えるなら……」

「冗談でも言うな! 私にとって、一番大切なのは、君の命だ!」

「そうか? チームの核はお前だ。俺でない実行犯を見つければいい」道哉は腕のプロテクターを装着し直す。「葛西先生、ルートをお願いします」

「僕はもう先生じゃないよ。……南の方は探索不足だが、基本的に環七直下を進めるだろう。バイクが通過できるほどの出入口があるかはわからないが、周辺の偽装マンホールはいくつかピックアップしてる。件の倉庫ならここだね」

 葛西は地図の一角を拡大する。

「おい葛西、貴様も止めろ。正気か?」

 葛西は唇の端で笑う。「ごめんね、羽原さん。僕は憂井くんを止めない」

「なぜだ」

「己の利益のためだけに子供や少女を誘拐するような連中が許せないから」

「ここに来てもロリコンか、いい加減にしろ」

「否定はしないけど。年若い者の未来を守るために全力を尽くしたいという気持ちは本当だ。そうでなければ、僕は教師になどなっていない。いや……教師として過ごした日々が僕にくれた、一番のものだ」

「調子のいいことを……」

 道哉はボディプロテクターを再装着。棚から爆弾類を取り、ベルトのポケットにひと通り収めると、腰を上げた。「地上からのフォロー、よろしくお願いします」

「任された。君を無事に帰してみせよう」

 すると、地下通路への入り口に、紅子が両手を広げて立ちはだかった。

「何のつもりだ、羽原」

「私は君を失うわけにはいかない。どうしても行くというのなら……」

「悪い」

 スタンガン・ブラスナックルの放電を当てる。紅子の全身が大きく震え、その場に崩れ落ちた。



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