⑫
学校を遅刻した日も榑林の家に帰った。道哉が榑林の家に寄りつかなくなったのは確かであり、その傾向はヴィジランテ活動を始めてから、さらに三星会の事業を追い始めてから特に顕著になっていた。
怪しまれてはいけないのだ、と自分に言い聞かせても、意識して帰ろうと思うと気恥ずかしさが勝った。
監視カメラ巡りを決めたその日も、夜の八時過ぎに帰宅すると、出迎えたのは頬を膨らませた一花だった。
「もう道哉さんのお部屋は処分してしまいました、悪しからずご了承ください」
「そんな」
「一花が、不在中に一回掃除に入ったみたいだよ」と一真が口を挟んだ。「おかえり。ご飯は?」
「まだです」
「道哉さんの分はありませんから、どうぞ外で食べてらしてください」
「いない間も律儀に道哉の分まで用意するからさ。今日も残ってるよ」と一真が口を挟んだ。「だから、なるべく帰っておいでね。明日は?」
「風向き次第です」
「いい答えだ」一真は一花の方を見た。「だって。どうする?」
「どうもしません!」
結局一花は一度も目を合わせてくれなかった。
翌日、紅子から送信された地図を元に、バイクで難民支援住宅のひとつへと向かった。
東京でも、世帯数の伸びの鈍化や少子高齢化などの影響により空き家が増加傾向にある。ここ五年ほどは、東京オリンピックによる地価の上昇を見込んだ地権者が手放さず、しかしろくな管理もしないでおくことで、荒れ果ててしまった家が都内の各所に目立つようになった。
割れ窓理論というものがある。
窓が一枚でも割れているとストリートの治安はつられて悪化する、しかし逆に一枚の割れ窓も許さなければ、治安は維持される。この街は犯罪を許さないという空気こそが何よりも重要であるというもので、具体的には軽犯罪の徹底的な取り締まりとして施策化される。
たとえば一九九〇年台のニューヨークでは、市長に当選した元検事のルドルフ・ジュリアーニがこの割れ窓理論に基づいた『ゼロ・トレランス』政策を実行に移した。警察予算の増額・人員の増強による徹底的な街頭パトロールで軽犯罪の取り締まりや交通違反の厳罰化、ホームレスの施設への収容、ポルノ販売店の締め出しなどを妥協なく行った結果、ニューヨークの治安は劇的に改善された。
だが現在、日本の警察は人員増強よりも自動化に舵をとっており、取り調べ可視化やパトロール・ドローンの積極採用、各捜査員への録音機、捜査車両へのドライブレコーダ設置義務化など、公権力への非難を躱す方向へ多くの予算を割いている。機械は間違えないのである。
その結果、東京の足立区や北区、湾岸地域などに、多くの空き家が見られるようになってしまった。また、軽犯罪の発生率もオリンピック前である一〇年前と比べて増加している。警察の人員不足も国会の代表質問の題材に挙げられるほど問題視されている。これらは一様に外国人の流入が原因と分析されることも多いが、必ずしもそれだけではないのである。
道哉は、東京スカイツリーを望む住宅地へとバイクを向ける。道が細く入り組み、一速や二速での走行を強いられるようになり、ついにエンストしたことをきっかけにバイクを降りた。
押して進むことにした。壁一枚隔てた向こうに濃厚な生活の気配を感じ、排気音を鳴らして走ることが躊躇われたのだ。
「Vツインだと、低回転域でも粘り強くトルクが出るんだっけか……」
伯父には悪いがつい次の一台のことを考えてしまう。有沢は、同じエストレヤに乗っていたが物足りなくてすぐ乗り換えたと聞く。何となく、次も彼と同じ車種にするのは避けようと思った。
休日の日中であることも手伝ってか、右にも左にも人の目があった。公共の場所とプライベートな生活空間があまりにも近接しているのだ。木造平屋の、トタン張りの家が目立った。
バイク降りた場所から目的地までは一〇分ほど。その間にも、複数の荒れ果てた空き家と思われる住宅があった。
目的の難民支援住宅は大通り沿いではないがやや開けた通りに面していた。前を通るだけで、スパイスか何かの異質な臭いがした。そこだけ、違う国の人間が住んでいることが目を瞑っていてもわかった。
日本語ではない声が聞こえた。大声で怒鳴っているようだが、彼らにとっては大声ではないのかもしれない。非母語の声は否応なしに騒音として聞こえる。
バイクを押す道哉の前に、子供が飛び出してきた。エラの張った、東南アジア系と思しき五歳くらいの男の子だった。何も言わず、道哉を一瞬だけ斜めに見て、バイクへじっと目線を注いだ。すると、母親らしき女が横から出てきて子供の身体を抱き上げた。
すみません、と舌足らずに言って、母子は塀の中へと消える。
軒先の洗濯物の量が多い。多数の大人の声がする。色の剥げたトタン張り。少なくとも築三〇年以上。窓はひび割れ、草が生えるがままにされている。あばら屋に押し込まれているという話は本当のようだった。
監視カメラ侵入アプリを起動して周囲を一周してみる。しめて一〇台のカメラを検出できた。そのうちいくつかは、道哉も目視確認することができた。あからさまに、難民らの住む家へ向けられていたのだ。
『Dream for All』はこのように都内で空き家となっている住宅を見つけ、地権者と交渉して格安で借り上げている。ただ放置しているだけで固定資産税が取られる以上、貸す側にマイナスはない。そして、主に密入国した難民らへ住宅として貸し与える。空き家に勝手に住み着かれてスラム化するよりはいいと容認されているのが実態である。
DfAのこのような活動を通じて都心の空き家問題がクローズアップされているのも確かであり、原因のひとつとされている固定資産税の問題も対策に向け議論が進められている。空き家でも家が建っていれば、固定資産税は更地の六分の一なのだ。ならば家を残してしまう。その家は割れ窓となり、治安の悪化へと繋がる。
とはいえ、ジュリアーニ市長のゼロ・トレランスにも非難や反発はあった。非武装の、黒人の、移民の若者が複数の白人警官から合計四十一発もの弾丸を浴びて射殺されたディアロ事件では、その後数週間に亘って人種差別や警察の過剰な取り締まりに反発するデモが全米各地で行われた。
スキャン完了の通知を確認し、道哉は次の難民支援住宅へと向かうべくバイクへ跨り、走り出した。
何事にも正解はない。悪の構造が複雑であるのは、この社会そのものが複雑であるからに他ならない。何もかもを変えうるシンプルな言葉や行動など存在し得ない。にも関わらず、多くの人々はそれを求める。
預けられた五ヶ所とも似たような事情の住宅だった。戸建てもあり、平屋もあり二階建てもあり、アパートの一室もあった。いずれも、東京という一枚布の、広げなければ気づけない虫食いのようだった。
コンビニの駐車場にバイクを停め、ひと息入れつつスキャン情報を紅子の端末へ送信する。これで今日の任務は完了だ。
気温は涼しく、春から秋用のジャケットの街乗りがちょうどよかった。もう少し寒くなると上着も厚手にしなければならないし、デニムでも駄目だ。バイクはお金がかかるとはこういうことだとようやくわかった。整備や保険だけではないのだ。そろそろ通学のために制服で乗るのも難しいかもしれない。
乗っていると涼しいが、降りていると暑いのが難しい。昼食のつもりでカップ麺を啜る道哉は汗をかいていた。
五ヶ所を巡って情報収集し、適当な食事を済ませてもまだ昼過ぎだった。
紅子から送られた地図を見てみると、担当外のスポットが存外に近場だった。帰り道からもそう大きくは外れないため、寄ってみることにした。
雑司が谷のあたりだ。行ってみると、難民に格安で貸し与えられる理由がわかった。目の前が霊園だったのである。
コリアンタウンも地理的に近い。この地域ならば、外国人が受け入れられやすい素地もあるのではないかとふと思う。
だが、多くの善良な外国人の中に、犯罪に手を染め、多くの組織を横断した利益構造を作り、全ての善良な市民の安寧を奪おうとする者たちがいる。
山手線のガード下を抜けて山手通りへ入り、多すぎる交通量と信号に苛つかされながら新宿の西側を通過する。
新宿副都心を埋め尽くす巨大な高層ビル群。その足元で蠢く何か。
耳元で、囁くような、声がした。
――勝てるのか?
めまいを覚え、高速道路のジャンクションに差し掛かったあたりで、道哉はバイクを路肩に停めた。
三星会。フェドラハットの男。言葉にするのは簡単だ。だが真実はいつだって、単純には言葉にできない場所にこそ眠っている。仮に彼らを打倒したとして、また他の誰かが悪の構造を再構築するだけなのではないか。確かに、羽原紅子のように、法や情報セキュリティの抜け穴を突き、インターネットを自身のリソースとして最大限活用して個の力を増幅することで、打倒できる悪もあるかもしれない。だが、ある悪の構造を打倒しても、別の悪の構造を生み出し続ける、さらに大きな悪のようなものの存在を、道哉は感じた。
それはきっと、紅子の力の源と、同じところから発している。
使い方によって善意にも悪意にもなりうる、混沌とした人の意志の塊。その中に悪意の雫を垂らす者がいる限り、正義が勝つことはない。
幻を見た。
フードに覆面、黒い包帯でぐるぐる巻きにされた男の姿が。
フードが取れ、包帯が解ける。
その内にあるはずの人間の顔が、崩れていく。
虚構的な存在の虚構性を打ち砕くほどの、容赦のない現実。それは突然現れる。激しさはない。ただ、そっと肩に手を置くだけだ。そしてこう語る。
――お前は勝てない。
道哉は肩で息をしながらヘルメットを取った。歩行者から向けられる怪訝な目。慌ててエンジンを切って、バイクを押して歩道へ上げる。
スタンドを下ろし、シートに半分腰を預けて深呼吸する。
誰かの声が聞きたかった。疑いも迷いもなく、ただ大丈夫だと思える誰かの声が。
顔を上げた。
奇跡、だと思った。
歩道を歩く人の横顔に見覚えがあったのだ。
彼女に歩み寄った。
「怜奈!」
「……道哉?」彼女も気づいていたようだった。「何してるの、こんなところで」
「えーっと」そう問われると答えに窮した。「ツーリング?」
「ツーリングって山とか海とかに行くものじゃないの?」
「都市をツーリングというか……」
「ふぅん」そこまで興味はないようだった。「それ、あんたのバイク? カッコいいね」
そこまでカッコいいとは思っていない様子が滲み出た声音だった。
安心した。どうしてか泣きたくなった。
「怜奈こそ、こんなところで何してんだ」
「あたし? あたしは……」彼女は目線を上に向けた。「そこに用があって。オペラシティ」
「オペラ? オペラ観てたのか? ひとりで?」
「違うけど……」
「オペラなのにオペラじゃない?」
「あんた何回オペラって言ってんの」長い髪に触れながら怜奈は言った。「ちょっと変わった現代建築の展覧会がそこであったから、見に来たの」
「どんなの?」
「アルゴリズム建築」
似たような横文字を紅子の話で聞いた覚えがあった。「具体的に」
「目に見えない論理を対象として制御するの。差異と規範が矛盾しないで両立する建築空間を実例やその設計過程を交えて……」
「ごめん、何言ってるのか全然わからない」
「そう? わかんなくても面白いよ? あたしだって一〇〇パーセント理解してるわけじゃないし」
「面白いと感じるセンスが俺の中には育ってないよ、たぶん」
「えー、でも実例に東京オリンピックのメイン競技会場の没案とか出てきたし。絶対面白いよ」
「何だそりゃ……」
怜奈は腕時計に目を落とす。「あ、ごめん。あたし急ぐから」
「何かあるのか?」
「家に帰るだけだけどね」怜奈は片手を挙げた。「じゃね。学校に図録持ってくから。現代建築の真髄、すごいよ」
「おう、また明日」
「明後日だよ。今日は土曜日」
歯を見せて笑って、怜奈は背を向けた。歩む後ろ姿が美しかった。誰にも奪われず、そして決して失われることはないとさえ思える美しさだった。
*
クラシックなバイクに跨り走り出す少年の背中を見送ってから、片瀬怜奈は携帯電話を手に取った。
メモしておいた番号を入力し、ダイヤル。
3コールで相手の男は電話口に出た。
しばし世間話をしてから、怜奈は切り出した。
「お願いがあるんです。憂井道哉を、助けてください」
*
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