その日の朝、道哉は学校へ行かなかった。待っていると、九時過ぎに紅子が来た。彼女も欠席するつもりのようだった。

 情報収集のため、憂井邸の蔵に篭もる。終わりのない意見交換と探索。紅子は、回転椅子をぐるぐる回して言った。

「現場の監視カメラの映像を入手した。澤村が暴行を加えられる映像だ。私と同じく監視カメラへの侵入を趣味にしている何者かがネット上に放流していたのを拾った。オリジナルのファイルは削除されている」

「どれだ?」

「君も変わったな。以前なら下世話なパートは私に任せると言っていたのに」

「敵を知れと言ったのはお前だ」

 確かにな、と応じて紅子はいつものように画面を向けた。「なかなかショッキングな映像だ。心して見ろ」

 表通りから一本入ったところにある、ガラス張りの店舗内に設置された監視カメラからの映像だった。

 数人の覆面をした男がライトバンから降りてきて、顔に麻袋を被せて後ろ手に縛った澤村らしき人物を引きずり出す。そして、各々が鈍器を手に殴る。まず膝を殴り、腰を殴る。身動きできなくなってから、全員で麻袋ごと顔を殴る。顔がなくなるまで殴る。夜が明けて朝になる目前の繁華街。人通りはなく、通報するものもない。あるいは、誰もが彼らが何者かを知っているから、口を閉ざす。

 ふと、ひとりだけ、暴行に参加しない男がいることに気づいた。

 フェドラハットにスーツの男。顔はわからない。だがその出で立ちに、見覚えがある。

「気づいたか。その帽子の男だ」

「どこかで見たような気がする。何者だ?」

「アポロ君島の件だよ」

 道哉は膝を打った。君島が暴れて警察に拘束される直前に、彼と話していた男だ。あれもフェドラハットだった。

「三星会の幹部か何かなのか、この男は」

「それはわからん。だが、もっとわからないのは、連中に澤村を殺す理由がないことだ」

「理由? 報復じゃないのか」

「レイシストのデモに突っ込んでいった連中の頭だぞ。三星会は朝鮮人の集団であることを思えば、むしろSHADOWは味方だ。理屈が通らない。マスコミももうわからなくなっているのさ」

「じゃあどうして」

 紅子は顎に手を当てて言った。「これは私見だがな、我々への挑戦だ」

「挑戦?」

「そもそも、朝鮮人がシリア難民の子を誘拐しようとした時点で、右翼と左翼の簡単な構図など通用しないんだよ。さらに我々という不確定要素まで加わっている」

「三星会は、散々煮え湯を飲まされたブギーマンを模した仮面を着けて現れたから、SHADOWの代表を殺害した。そこに思想や観念はない。……ってことか?」

「そう言い切ってしまえるほど確信を得てはいないが、とにかく……君は敵意を感じないか? 私たちへ向けられた、灼けつくような敵意を」

 映像の中では、男たちが缶スプレーで壁に文言を書きつけている。澤村の顔を覆った麻袋が取り去られる。笑う男たち。フェドラハットの男の顔はよく見えない。

 だがその影の下で鋭く光る瞳に射すくめられたような錯覚を覚え、道哉は身震いした。

「感じる」

「決まりだ。やつを追う」紅子は背を向けて画面に向かう。「君は学校へ行け」

「はあ? 俺だけ?」

「ふたり同時に休んだら妙に思われるかもしれないだろう。まあ、クラスも違うし、どうということはないか」黙っていると、紅子が振り返った。「どうした? そんなに学校へ行きたくないのか。気持ちはわかるが……」

「そうじゃない」

「じゃあどうした」

「バレた。かもしれない」

 紅子は椅子から立ち上がった。「誰にだ」

「いや、俺の勘違いかもしれない。だから黙ってた」

「だから誰にだ」

「片瀬怜奈」

 紅子は口をぱくぱくさせ、それから息をついて椅子に座った。「ますます、君は学校へ行くべきだ」

「どうして?」

「気づいている、いないはさておいても、君は彼女とウェルネスな関係を維持すべきだ。ヴィジランテ活動がそれの妨げになってはならない」

「……意外だな。お前は人間関係なんか無視しろって言うと思った」

「気づいている、いないはさておいても、それが君の力の源だからだ」

「どういうことだ」

「いいから行きたまえ。下世話なパートは私に任せろ」

 釈然としないながらも、道哉は支度を整え学校へ向かった。

 バイクで登校すると、校門が閉まっていた。かつてそこにあった、自由によく似た何かが奪われたように思えて、あまり愉快ではなかった。校門のすぐ横にはプレファブが建てられており、臨時で雇われた警備員が常駐していた。事情を言って開けてもらった。

 既に十二時に近かった。有沢教諭による授業が行われていた教室に入ると、否応なしに視線と忍び笑いを浴びた。

 昼休みに入ると、クラスメイトから口々に遅刻をからかわれた。寝坊した、などと適当に応じて教室を出て、隣の教室へ向かった。

 すると、目当ての人の前に、廊下で思わぬ顔に出会した。

「おおっ、憂井じゃん」

「島田」

 島田雅也。小柄な彼は相変わらず自信なさげな出で立ちをしていた。高二にもなって、まだ制服に着られている感じが抜けない。それでも、褒められ慣れていないかのようなぎこちない笑顔には、惹かれるものがあった。

 彼には彼にで用があったことを道哉は思い出した。

「島田、そういやお前、一花ちゃんとはどうなったんだ」

「どうなったって」

「あ? アポは俺を通せや、俺の見てないところであの子に指一本触れんじゃねえぞ」

「憂井って案外ユーモアあるよな……」

「何だとお前、喧嘩売ってんのかお前、俺の流派知ってんのかお前」

「榑林さん、心配してたぞ」

「榑林さん」一花と呼んではないらしい。「すまない、俺としたことが大人気なかった。危うく我を失うところだった……」

「いや、冗談はともかくさ」島田は苦笑いから、急に生真面目な顔になって言った。「道哉さんが家に帰ってこないって、事あるごとに言ってる」

 あまり都合がよくないと、真っ先に思った。これまでと違った生活をしているとあれば、その原因を勘繰られるかもしれない。ブギーマンの存在が世間に露見し、敵視する勢力まである以上、疑われうる行動は極小にすべきだった。

 そして同時に、一花の気持ちを一番に考えられなかった自分に驚いた。

「嫌なんだよな。最近、榑林さんも書が乱れてるし」

「書が乱れてるって……」以前、一花が島田に対して同じ言い回しを使っていたことを思い出した。

「部のマイナス要因は可能な限り潰さないとね。僕、書道部部長だし」

「マジかよ。部長? 二年なのに?」

「もう三年生は部活引退だよ」

「そうなのか?」

「受験に専念しなきゃ」

 部活に所属したことのない道哉には預かり知らぬ世界の出来事だった。

 そしてふと、いつ見ても受験勉強に精を出していた眼鏡の先輩のことを思い出した。

「……正直に言うとね。ぜひ、憂井には家に帰ってもらいたくて」

「それはまた、どうして」

 島田は相好を崩して続ける。「榑林さんを遊びに誘ったら、道哉さんがお家に帰ってこないのにわたしだけ出かけるわけにはいきません、って言われた」

「それは煙たがられてるんじゃないのか」

「やっぱそうなのかな……」

「自分に自信を持てよ。ちゃんと背筋を伸ばして目線と表情にメリハリをつけろ」道哉は島田の肩を叩いた。「一花ちゃんには俺から言っとく」

「信用できるような、できないような……」島田は肩を竦める。「ま、あの片瀬怜奈と付き合ってるやつの言うことだもんな」

「はあ?」

「違うのか?」

「違う」

「今日、片瀬も休みだから。かなり噂になってたぜ」

「同盟解消したから」

「同盟?」

 怪訝な顔の島田にもう一度頑張れよ、と言って肩を叩いておく。

 2組の教室を覗くと、確かに怜奈の席は空っぽだった。いても、肉体がそこにあるだけで、空っぽなような気もする。先日と同じ女子生徒が、心得た様子で「片瀬さんならお休みだよ」と告げた。

 当然ながら羽原紅子の席も空っぽだった。

 目的を失くした道哉は、学生食堂へ向かうことにした。いつも誰もいない場所を探していたから、入学してから一度も利用したことがなかった。

 さすがの混雑に悩まされながらもカレーを買って空席に座った。

 自分以外の全員が大声で話していて、自分一人だけが黙っていた。そんな空間が居心地悪く、同時に居心地よくもあることに驚いた。

 すると、正面の空席に誰かが座った。

「やあ、今日はひとりか、憂井」

 道哉は顔を上げた。「有沢先生」

 いつものように、白いオックスフォードシャツの上からジャージを着た有沢修人だった。トレイの上に乗っていたのは食堂のメニューで下から二番目に安いラーメンだった。

「派手に遅刻したなあ」

「寝過ごしました」

「悪びれろ、もうちょっと」

「三年間せっせと学校に通えば、一回くらいそういう日もあります」

「と、思うんだけど、病気欠席はともかく、遅刻って一回もしない生徒が大半なんだよ」

「みんな真面目なんですね」

「お前がスペシャルなんだよ」

「そんな大層なものじゃないですよ」

「特別に不真面目って言ったんだよ。ま、悪いことじゃないのかもしれないけど」

「いいんですか、先生がそんなこと言って」

「誰が録音しているわけでもないさ」有沢は抑えめに、歳相応にシニカルな笑みで言った。「別にお前は特段素行が悪いわけでもないから。言い換えるなら、画一化された若者らの姿に教育者として忸怩たる思いを抱いたりしてる先生としては、お前みたいなのがいるのもいいんじゃない、って思うわけだ」

「それは、違うでしょ。先生は、毎日遅刻しないで来るやつらをちゃんと褒めなきゃ。当たり前みたいに流さないで」

「別に。そう簡単に人間は孤独になれないぞって、お前に教えてやってるだけさ」

 一刻も早くその場を後にしようと思っていた道哉は、思いとどまって応じた。「先生、片瀬にも根回ししてたでしょ」

「根回し?」と即応してから、思い出したようだった。「ああ。あの頃は、とにかく打てる手は全部打っておこうと思って。お節介だったか」

「いえ、そういうわけじゃ」

「片瀬も片瀬で、危うい感じを受ける子だから。お前とはオンリーワン同士で気が合ってるように見えるけど」そこまで言ってから、有沢は急に一〇歳分幼くなったような笑みを浮かべた。「照れるなよ。下の名前で呼んでること、先生も知ってるぜ」

「そういうんじゃないですよ!」

 道哉は勢い込んで席を立った。



 意外なことがわかった。先日、シリア難民二世の少女を期せずして救出したときに倒した五人の中に、日本のやくざの人間が混ざっていた。彼らが襲撃を目論んでいた尾藤という男もやくざだが、代紋違いだ。

 調べてみると、大田口というこの男の所属する暴力団は元来在日朝鮮人社会との繋がりが深いらしい。とはいえコリアン・マフィアと暴力団が組んで、別の暴力団の構成員を襲撃するとなれば、大規模な抗争へと発展する危険を秘めている。事態は想定以上だった。

 羽原紅子は、ううむ、と唸ると回転椅子を降りだ。

 顔認証のアルゴリズムを改修し、帽子を被ったスーツの人間を抽出できるようにしたまではいい。だが、セキュリティが甘い個人や小売の事業者が設置した監視カメラに対象を絞っても、大量の帽子とスーツの人間が引っかかる。突貫作業の画像処理には誤認識も多く、また秋に差し掛かっていることも手伝って似たような服装の市民は数知れなかった。

 結果として、ピックアップされた画像を目視でひたすら確認することになる。まさにマシンビジョンの敗北だが、背に腹は代えられなかった。

 蟻地獄の中に落ち込んでいくような感覚。フェドラハットの男は何者なのか。一部やくざと手を組んでまで実現しようとする三星会の目的は何なのか。

 人が行動する動機がカネとオンナであるのなら、組織の動機はカネのみ、つまり利益追求だ。『ヘイトスピーチと戦う市民の会』の件は、おそらく、彼らが新たに作り出そうとしている利益追求の構造の一端にすぎない。

 むしろ、核心に迫らせないための、枝葉にすぎないのはないかという気もしてくる。

 そしてその枝葉に踊らされている。

 十二時はとうに過ぎていた。憂井道哉は今頃昼食を終えている頃だ。きっと片瀬怜奈と一緒に。

 誰とも関わらずに浮世離れしているからこそ、憂井道哉は強く、また疑いの目を向けられにくいと思っていた。だが、彼は意外にも、多くの人に愛されていた。今は一見周囲を遠ざけているようでも、彼に力を与えている人々というものは確かに存在していた。

 過去にいる人。今生きている人。遠くにいる人。近くにいるのに遠い人。

 人波の中を気ままに漂っているようで、それは隙あらば水底へ引きずり込もうとする堕落や悪の誘惑を振り払う強さの証だった。憂井道哉という少年は、影に満ちた世界の中で高潔な魂を保ち続けた奇跡の産物だった。少なくとも紅子はそう考えていた。

 だから彼には幸せな日常を失って欲しくなかった。

 夜のヴィジランテ活動にのめり込むあまり家族との関係を蔑ろにしたり、家に寄りつかなくなったり、得られたかもしれない関係を失うようなことはあってはならなかった。

「それは、私だけで、いいんだ」

 食事のことを考えねばならない。一日中画面に張りつくとして、葛西を使おうかと思い立つ。だが彼は今、爆薬や発煙弾に使うリンを農業用の肥料や農薬から抽出すると言って地下の少し離れたエリアに閉じこもっていた。排気が下水にうまく紛れてくれる場所を見つけたのだという。

 もう一度ううむ、と唸ってデスクに腰を預けた時だった。

 蔵の扉が開く音がした。こんなところに来る人間は憂井道哉しかいない。きっと学校でじっとしていられず戻ってきてしまったのだ。

「憂井、ちょうどいいところに。何か食べるものを調達してきてくれないか。それと先日の少女誘拐未遂の五人についてだが……」

「羽原さん」

 女の声だった。

 姿を見定め、唖然として、言った。

「片瀬怜奈、さん……?」

 学校がある日にも関わらず私服姿の片瀬怜奈は、扉から暗い部屋へ差し込む光を背中に浴びながら、一歩足を踏み入れた。

 多数のモニタに映る監視カメラ映像。解析画面。並ぶドローン。数が揃い始めた爆薬類と武器。

 そして、テーブルの上のブギーマン・スーツ。

 それら全てを目に焼きつけるように見てから、怜奈は言った。そこにいない誰かへ向かって。

「これが……あんたの悼み方?」


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