『住宅街で身元不明の女児保護 「亡霊に助けられた」』

 そう題された記事を携帯電話で眺め、道哉は思わず顔をしかめた。

 自身の存在が公になりつつあることがひとつ。そしてもうひとつは、保護されたという女児に関する報道内容だった。

 女児には戸籍がない。公的保護を受けられない立場の母親が、病院にも行かず自然分娩で産み、これまで誰の助けも借りずに育ててきたからだ。

 夏休み最終日。

 駅前広場のベンチで行き交う人々を眺めながら、道哉は羽原紅子からとうとうと説明された内容を思い出していた。

「元はといえば、この子の母親はレバノンから来た難民のようだ」報道の翌日、羽原紅子はそう語った。「数年前に左巻きの最大野党が政権を取ったことがあっただろう。その時の目玉政策のひとつが、東日本大震災と東京オリンピックの遺構の有効活用、すなわち、復興計画が遅々として定まらない地域の仮設住宅や、オリンピックの選手村跡地に建設された住宅への難民受け入れだった。今の常識からすればありえない施策だが、当時は続発するテロを背景としてヨーロッパ各国で右派政党が勢力を増し、米大統領戦では外国人の排斥を公約に掲げるような候補が有力視され、ロシアはウクライナへの武力介入を強め……世界を巻き込む戦争への危機感がとにかく肥大していた時期だった。こと我が国に限っては肥大しすぎの嫌いもあったがな」

 とにかく日本へ受け入れられてしまった難民たち。だが彼らに対する支援は充分とはいえず、条件が劣悪な労働の斡旋、外国人に対する忌避の意識、繰り返される予算計画の見直し等のため、彼らは日本への不信を強めていく。

 決定的になったのが、宮城県のある町内会で発生した、『ブルカを取ろう』運動だった。髪を覆うイスラム圏の風習は女性の抑圧であるとするフェミニスト団体と異国の服装を忌避する地域住民、住民に寄り添う施策で人気獲得を狙う地元議員らの目論見が一致し、イスラム圏の女性にとって一般的である髪を覆う服装をやめるよう促すポスターや数カ国語のパンフレットが配布されたのだ。

 よく記述を追えば日本の社会に馴染んで欲しいという真摯な思いが見えないでもない印刷物。だがそれらを信仰の自由に対する攻撃である、日本の悪しき同調圧力であるとする非難が国内外から寄せられた。

「あの頃官邸前で大規模なデモが繰り返されたことを覚えているだろう。警官隊との衝突で死傷者も出た。一連の騒動を経て、難民らの実に三十パーセント以上が割り当てられた住宅から姿を消し、行方不明になった。彼らは東京や名古屋、大阪などの大都市圏に流れ着き、そこで旧来からの外国人コミュニティに溶け込み、非合法活動によって生計を立てるようになった。男は盗みや暴力、女は売春だ。出稼ぎ目的の留学や外国人技能実習生の行方不明問題から我が国は何も学ばなかったというわけだな、悲しいことに」

 当時の騒動は凄まじいぞ、と紅子は薄笑いで様々な資料を示した。そもそも髪や肌を覆う服装を女性の抑圧とするか、文化であると尊重するかは永遠に結論の出ない問題だ。愚かにもそれに手を出したばかりに広がった火の手は留まるところを知らず、最終的には政権交代にまで繋がった。

 難民を原発の廃炉処理のための体のいい労働力扱いするつもりかという非難も大いに燃え上がった。行方不明になった難民の数名が実際に福島で除染作業に従事していたのだ。

「まあそんなわけで、都市へ流入した元難民たちを仕切っているのが、日本における外国人社会の大御所である中国、朝鮮系のマフィアたちというわけだ。公に受け入れられた難民よりも明らかに多くのイラン、シリア難民が当時は不法入国者として日本に流入していてな。摘発されたヤミ業者のバックに、中国東北部出身者、いわゆる朝鮮系中国人や在日韓国人らが合従連衡した組織犯罪集団があったことが明らかになっている。不法移民は東南アジアを経由するルートで行われ、彼らには北朝鮮が国家犯罪として生産した薬物を東南アジア各国にプールし日本へ密輸するノウハウがあった。調べてみるに、どうもこいつらが、今でいう『三星会』の前身にあたる組織のようだ。同時に多くのインドネシア等の東南アジアからの不法移民が流入した。あそこはあそこで利権システムに組み込まれた政治家への反発から近年治安の悪化が深刻でな。民主化の成功例だったはずが、数年前のテロ一発で水の泡だ」

 その三星会が、なぜ難民二世である子供の誘拐を試みたのか。

 身代金目的はありえない。難民らは皆困窮しており、金を支払う余裕などないからだ。

 彼らは入国の際、ブローカーに莫大な借金を負う。入国後の生活を世話するという名目でブローカーと繋がったマフィアの下部組織で非合法な労働を強いられ、その生活はますます泥沼へ陥っていく。

 出来る限り調べてみるよ、と紅子は言った。

 難民らは例外なく携帯電話を所持している。それが彼らが社会と繋がる唯一の手段であり、文字通りのライフラインだからだ。そして日本国内で最も汎用される連絡手段はWIREである。捜査権を有する国家組織でなくても、つけ入る隙はある。

 報道記事では、難民流入に伴う国内への銃器や、中東産の麻薬の密輸についても触れられていた。関連する事件として、新宿での発砲事件も挙げられていた。

 そして、渦中の少女を助け出した、謎の男だ。

 同地区で囁かれる黒衣の男の噂。警察に先んじてマフィアの構成員と戦い子供を助ける謎の男など存在するのか。さすがに紙や放送電波にルーツを持つ大手メディアは女児の発言を紹介するに止めゴシップには与しなかったが、ネットメディアは情況証拠から実在を前提とするかのような書き方をしていた。

 道哉は、深くため息をついた。

 国際問題がどうのと言われても、いまひとつ現実味がない。地に足の着いた現実の生活が、世界のどこかで繰り返される悲しみと直接繋がることはない。俺には関係ない、と呟いてみる。目の前の敵を倒すだけ。この街に振りかかる火の粉を払うだけ。

 そのとき、後ろから肩を叩かれた。

「よっ、道哉」

「おお、怜奈」道哉はベンチから腰を上げた。「全然待ってないぞ」

「はいはい遅れたあたしが悪かったです」彼女は睨むような目つきで応じた。

 道哉の待ち人は、片瀬怜奈だった。

 白地に不可解な柄のTシャツに、ダメージデニムのショートパンツ。ベルトやサンダルなどの小物類は明るめブラウンで統一されている。あまり飾らないだけにかえって着る人間の美しさが際立って見えた。

 彼女は、片手に携えていた、小物と似た色味のストローハットを被り直した。

「じゃ、行こ」

「ところで、どこへ?」

「あれ、言ってなかったっけ」

「聞いてない」

「お買い物」とだけ言って、怜奈は改札口の方へ行ってしまう。

 電車で神奈川方面へ走ること二十分ほど。駅直結の大型ショッピングモールがある駅でふたりは電車を降りた。

 開業は二十年以上前。だが数年前に周辺を含めた再開発が完了し、沿線には大々的な宣伝が打たれた。当時も今も、休日になると買い物客でごった返している。外観は、どことなくリゾート風に統一された、典型的なショッピングモールだ。

 何買うの、と訊いてみてもはっきりした答えは返ってこない。店々を歩きまわるのが楽しいようだった。先に立つ怜奈の髪には、一見しただけでは構造がわからない編み込みが作ってあった。約束の時間に遅れたのは絶対にこの髪型のせいだ。

「怜奈、こういうところ、よく来るの?」

「たまに」

「そのたびに何か買うの? アウトレットっていっても、それなりだろ」

「何も買わずに端から端まで歩いて回ったりした」

「暗い趣味だな」

「この夏休みに始めた趣味だけど」怜奈は眠そうな顔だった。「あんたは?」

「何が」

「ここ、来たことある?」

「えーっと……一花ちゃんと一緒に、一回だけ。どこかの店の限定品が欲しいとかで。あの子はしょっちゅう友達とかと来てるみたいだけど」

「自分では何か買わなかったの?」

「靴買った。スニーカー。アウトレットといえば靴です! って一花ちゃんに言われて」

「変なところに変なこだわりと思い込みがある子よね」

「確かに」

「でも、あたしもアウトレットといえば靴ってイメージある。なんでだろ」

 返事を待たず、ちょっと見てっていい、と言って彼女は雑貨屋に立ち寄る。

 十分ほど、あれはいいね、これは可愛いねと言い交わしながら店内を一周して、何も買わずに店を出る。そんなことを繰り返して、怜奈は一軒の店の前で足を止めた。

 眼鏡店だった。以前、似合わないから絶対に嫌だと言っていたことをふと思い出した。

 店頭に映し出された眼鏡をかけたモデルの映像を眺めながら、眼鏡は顔認証にどう影響するんだろう、などと考えていると、怜奈が言った。

「あんた、眼鏡の女の子とか好き?」

「はあ?」

「いや、ガン見してるし」怜奈は眉根を寄せた。「この間の先輩も眼鏡だったし」

「それは関係ないだろ」

「えー、そうかなあ」彼女は口元にわざとらしく手を添えて笑う。「ちょっと見てっていい?」

「またそれかよ。どうせ何も買わないんだろ」

「じゃあ今度は買おうかな」軽やかな足取りで店内へ足を進める怜奈。

 眼鏡をかけたことも、かけようと思ったこともなかった。一真はともかく一花も視力は良好で、眼鏡というものに縁遠かったのだ。

 怜奈から帽子と鞄を預かる。彼女は、目についた眼鏡を気まぐれにかけてみてはしばし店内の鏡を見て、それから隣の道哉を向いて「どう?」と感想を求めることを繰り返した。

 ありふれた黒いセルフレームはありふれていて彼女らしくなかった。べっ甲柄のクラシックな眼鏡は帽子と組み合わせると芸能人のプライベートを気取っているかのようで、すこしやりすぎに見えた。

 じゃああんたが選んでよと言われて目についた赤いアンダーリムを渡すと、「子供っぽい」「安直」「漫画か何か?」と散々だった。ならばとセルフレームで太めのつるの側面に凝った模様が入っているものを渡した。怜奈は気に入ったようだったが、道哉が気に入らなかった。

「眼鏡の主張が強すぎて、中身が損なわれてる」

「どういう意味?」

「いや、その、綺麗なんだから、もったいないなと思って」

 怜奈は目を瞬かせ、店内に並ぶ他の眼鏡へ視線を落とした。「ま、確かにあたしは綺麗なお嬢さんだからね」

 褒められ慣れているだろう怜奈は涼しい顔だった。自分ではかなり意を決したつもりの道哉は、少し悲しい気分になった。女の子はどう褒められたら嬉しいのか、機会があったら一花に訊いてみようと思い立った。

 指先を顎に触れて、至って真剣な顔で眼鏡を吟味する横顔が綺麗だった。この世の中の何もかもを不愉快に思っていそうな顔。

「ね、道哉」と彼女は言った。「眼鏡ってどんなイメージ?」

「イメージ?」

「ほら、知的とか、地味とか、あるでしょ」

 うーん、としばし考えてから道哉は応じた。「世の中を、ちゃんと見てる人ってイメージ」

「何それ」

「俺じゃ見えないものを見てるっていうか。うまく言えないけど、その人だけに見えるものがあって、それを俺が共有することは絶対にできないんじゃないかって気がする」

「意外と難しいこと考えてるんだね」

「意外とって……そっちが訊いてきたんだろ」

 ごめんね、と応じて怜奈は別の眼鏡をかけた。「どう? 似合う?」

「おお、いいじゃん」

 ほっそりした暗い緑色のメタルフレームだった。テンプルのところに四つ葉のクローバーを象った飾りがついている。かけていると、顔立ちを邪魔しないながらも印象が変わった。普段は人を寄せつけない鋭さのようなものを備えている怜奈が、不思議と地に足の着いた身近な存在のように見えたのだ。

「どんな感じ? 可愛い?」

「三ミリ浮いて歩いてたのが、着地した感じ」

「浮世離れの民としては、いただけないかな……」

「じゃあ、可愛い」と道哉は言った。「すごく可愛い」

 怜奈はしばし斜め上に目線を向けて、その眼鏡を外した。「じゃあ、買う」

「え、本当に」

「検眼してもらってくる。外で待っててくれる?」

 店の奥へ向かう怜奈を見送り、道哉は表へ出た。

 高い日差しを避けて日陰に入る。羽原紅子から連絡が入っていた。新装備のテストをしたいから手を貸せ、という内容だった。

 返事はせずにニュース記事を見ていると、いつの間にかかなり時間が経っていたらしく、怜奈が姿を見せた。

「一時間くらいでできるって」

「じゃあどっかで休んでく? 疲れたろ、結構歩いたし」

「……ご休憩?」怜奈は珍しく歯を見せて笑った。「気安いね、道哉さんってば。もしかして下調べとかした?」

「人前で食事はしない主義なんだっけ。悪かったよ」そもそもここへ来ることは今日知ったのだから下調べも何もあったものではない。「コーヒーくらいだったらレギュレーション違反にならないのか?」

「えーっと」怜奈は苦笑いになった。「今のなしで」

「はあ?」

「いいからいいから。はい、お昼だし何か食べに行こうよ、ね。あたしお蕎麦食べたいな。さっき看板で見たよ」

「え、いいの?」

「まあ、ね」怜奈は道哉の腕を取った。「それもまた道なりというやつで」

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