その夜は一夫の店に一泊した。Googleで店の名を検索してみると、口コミサイトの高評価や、綺麗な写真で湘南の店を紹介する個人のページなどが多数見つかった。その凝った内装は道哉には『何だかおしゃれ』としかわからなかったが、その道のプロが手掛け、その道の玄人たちに高く評価されているらしい。それは店舗だけでなく料理も同じだった。

 翌朝荷物をまとめて帰ろうとすると、「実はプレゼントがあるんだ」と一夫が言うので、表の通りへ出た。

 すると、一台のバイクが置かれていた。

「……これは?」

「カワサキ、エストレヤ250。空冷単気筒のネオ・クラシック。乗り方や整備の基本を学ぶのにも、バイクの面倒さを学ぶのにもいいマシンだよ」

「エストレヤ、ですか」

「気に入らなかった?」

「いや、雑誌とか見ても、どんなのがいいのかよくわからなくて」

 あまりスポーツ然とはしていない、丸目単眼のレトロなバイクだ。車体色は黒。タンクにオレンジ色で縁取りのようなラインが引かれている。教習車に比べるとほっそりしていて頼りないが、シンプルな機構ならではの美しさも感じられた。

 構造が単純だからバイクがどう動くのかの理解に最適だと語りながら、一夫はバイクの各部の名前と機能を説明してくれたが、正直半分もわからなかった。空冷、シングル、バーチカル、フューエルインジェクション。暗号だ。

 しかしふと疑問に思った。

「伯父さん、単気筒は駄目って言ってませんでした?」

「え? それは単気筒でSS気取るなって話だよ」

「よくわからないんですけど、バイクって難しいんですね」

「いや、単純だよ。走り出せばどんなバイクも最高の相棒だからね」

 そんな曖昧な言葉で丸め込まれないぞと身構えてみても、今ひとつ空転してしまう。紅子といい一夫といい、二輪の愛好者にはとんでもない変わり者が多いのかもしれない。

 あるいは、単に面倒くさい人種なのだ。

「でも……いいんですか?」

「ああ。君にあげようと思って、名義変更も済ませてきた。ヘルメットもある。以前通販で買ったんだけどサイズが合わなくて。多分君ならぴったりだ」

「でも、荷物もあるし……」

「荷掛けネットあるよ」

「でも靴とか……」

「今履いてるのドクターマーチンじゃん。夏でもブーツって、海に入る気ないね?」

「手袋」

「そう言うと思って買っておいた」

「でも道がわからないし……」

「そこそこ、ハンドルバーにケータイホルダーついてるでしょ」段々得意気な顔になって一夫は続ける。「困ったら、迷えばいいのさ。夏休みなんだから」

「またそれっぽいことを……」

「ま、いいバイクだよ。教習車よりは多少扱いにくいし、最初はエンストしやすいし」

「教習所でさんざんしたんで大丈夫です」

「おっ、その意気その意気。本当はキャブのにしたかったんだけどね」一夫は道哉の肩を叩く。「遅くなったけど、高校入学祝いだと思ってよ。君には何もしてあげられなかったから」

 そう言われては返す言葉がなかった。ありがとうございます、と道哉は深く頭を下げた。

 身支度を済ませて跨る。いつの間にか、伯父だけでなく店のスタッフ数名にも見送られていた。

 ローに入れて発進。その瞬間、手を振る伯父の姿が意識から消えた。

 翼が生えた。

 潮風を浴びながら海岸沿いの道を走る。遠くの波音をかき消すようなエンジンの鼓動音。まるで空を飛んでいるかのようだった。手元を少し捻るだけで、感じたことのない速度で身体が前に突き進んでいく。シフトやクラッチの操作にマシンが確実に応えるたび、一体感に包まれていく。

 風と一つになる。

 その高揚に身体が震え、道哉はやや高台の路肩にバイクを停めた。

 ゴーグルを上げてヘルメットを外す。

 車が数台通り過ぎていく。

 海は行楽客でごった返している。波を求めるサーフィン愛好家や水着の海水浴客。その向こうには江ノ島。思えば今はお盆休みだった。ひとりでバイクに乗っている我が身が急に愚かしく思えた。

 別に、孤独を誇りたいわけでも、克服したいわけでもない。

 道哉はカーナビ代わりの携帯電話を取り、電話をかけた。

 数コールで聞き慣れた声がした。

「もしもし? 道哉?」

「よお、怜奈」

「……何、どうしたの」片瀬怜奈の声にはあからさまに不審が滲んでいた。「あんたから電話してくるなんて、何かあったの?」

「いや、別に、何もないけど」

「はあ?」

「今、湘南に来てるんだ。片瀬江ノ島」

「……もしかして、あたしが片瀬怜奈だから?」

「そういえばそうだな」

「あたし、もしかして今、バカにされてる? あのさ、いくら休みで暇だからって……」

「ひとりだから」と道哉は遮って言った。「今度は、怜奈と一緒に来たいと思って」

 しばし返事がなかった。不安になって怜奈、と名を呼ぶと、彼女は言葉に詰まりながら応じた。

「ちゃんと誘ってくれたら、行くよ」

「そっか。よかった」

「いつ?」

「いつっていうか、その……」道哉は、またがったバイクに目を落とした。「来年?」

「は? 来年?」

「いや、一般道での二人乗りは免許取得から一年以上経過することが条件で……」

「ふぅん」怜奈は、やや苛立っているようだった。「じゃあ、来年ね」

「来年?」と思わず問い返す。

「乗せてくれるんじゃないの?」怜奈の声が急に力を失くした。「もしかして、あたし勘違いした?」

「してない! 来年。一緒に来よう。二輪免許取ったんだ。バイクも譲ってもらった。だから」

「……うん、わかった。来年ね」

 それから互いに口ごもる。

 ほんの数秒で気恥ずかしさが襲ってきた。

 必死で話題を探す。何か怜奈と話したいこと、訊きたいことがあったような気がする。

「怜奈。あの、そういえばさ」見切り発車で口を開いて、思い出した。「この前、家の蔵で変なものを見つけてさ」

「蔵って、あの庭に建ってるやつ?」

「そうそう。この間開けてみたんだけど、よくわからない掛け軸があって。怜奈ならわかるかなと思って」

「掛け軸ねえ。絵? 文字?」

「文字だった。四文字熟語で、期だか、道だか……」

「それもまたみちなり」

「はい?」

「其れもまた道なり、でしょ。確か、憂井宗達の座右の銘だよ」

「どういう意味なんだ?」

「そりゃ、読んで字のごとくっていうか。憂井宗達って、著書や書簡を見てみると、東京オリンピックの頃を境に思想的に大きく変化してるの。それまでマルクス主義に傾倒しプロレタリア文学運動にも参加していたんだけど、六十四年に日本共産党を除名されてるし。変化や転向を強いられた時代を見つめ続けた偉大な文学者なわけ。その彼の座右の銘」

「だから、意味は」

「あんた、本当に知らないの?」

「いや……読んで字のごとくってことは……どんな道でも、道?」

「もちろん道路という意味だけじゃなくてね。この世にはたくさんの正しさがあるから、変化や転向を強いられてもそれは間違いではなく正しいことだ、それもまた道なんだってこと」

「へえ……」

「へーじゃなくて。これ、多分あんたの名前の由来なんじゃないかって、あたしは思ってるんだけど」

「俺の名前?」

「其亦道也。なり、だと断定になって、迷いがない。でも、かなにすると、迷いが加わる。道哉。あんたの名前」

「迷い、か」

「お父様からは何も?」

「ああ。そういう話をする前に、死んじゃったから」道哉は海の方へ目を向けて言った。「悪いな、変なこと訊いて」

「いいの。どうせ暇だったし」

「例の海外ドラマは?」

「謎が全部明らかになる前に人気が失速してシリーズ終了しちゃった」

 世知辛いな、と応じる。

 そろそろ走り出したかった。

「暇ならそのうちどっか行こうぜ」

「社交辞令?」

「いや、いや、そんなつもりは」

「この間だって同じこと言ってたじゃない。あたし行きたいところあるから、つきあって。絶対だからね」

 わかった、わかったと応じている間に電話は切れた。

 道哉は携帯電話をハンドルバーにセットし直すと、ヘルメットを被って独りごちる。「それもまた道なり、これもまた道なり」

 エンジン始動。教習車とは違う、自分だけの音を奏でる単気筒に、ふいに頬が緩んだ。

「目指せ、無事故無違反」



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Boogieman: The Faceless episode 2 "JUST THE WAY YOU ARE"

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