⑲
*
最終生成物の収まった袋を見せると、新井は途端に笑顔を見せた。
慇懃な態度を崩さない新井に、葛西は言った。
「あの黒ずくめの男、何者なんですか」
「ですから、敵対勢力です。それ以上は、葛西先生のようなお人は、知る必要がない」
「どうして」
「あなたを守るためですよ。やつが、あなたの作っているこれを狙ってきたとは考えませんかねえ」
「何者か、ご存知なんですか」
「やつがこれまでにしてきたことなら」
「教えてください」葛西は、透明な結晶の詰め込まれた袋を胸元へ引っ込めた。「教えてもらわなきゃ、これは渡せない」
新井の笑顔が凍った。「それは、どうして?」
「……あれは、私の学校の生徒を殴ったと聞いた」
「もしそうなら、悪いやつだ。可愛い生徒に手を上げるなんて」
「違う。私たちが、やるべきだった」
「へえ。じゃあ先生は、やつが正義だから、やつと敵対してる我々三星会には味方できないと、そう仰るわけで」
「そうじゃありません。ただ……」
「ただ、何だってんだよ」
急に据わった声を発する新井に、葛西は気圧されて数歩後退った。
口ごもる葛西にまた笑顔を向けて、新井は続ける。
「人生の精算をしたいんでしょう。クソみたいな連中に奪われた人生を取り戻すために、金が必要なんでしょう」
たくさん迷えと言ったのは、自分が、迷っているからだ。
逃げられるだけ逃げればいいと言ったのは、もう逃げられないところに自分が追い詰められているからだ。
誰に言ったのだったかと思い返し、憂井道哉という二年の生徒のことを思い出した。
たとえば彼なら、どう思うだろう。
教師としての人生。
慰謝料の督促。
教え子との関係。
その全てから逃げ続けた結果、覚醒剤を握り締めてコリアン・マフィアの構成員に睨まれている男の姿を見て、彼なら、どう思うのだろうか。
「わかったんです」と葛西は言った。「僕は、誰かに、駄目な自分を見つけられたかった」
「それをこちらに渡せ」
新井が懐から取り出したものを向けた。
拳銃だった。
「今、すぐだ。今日は、万が一に備えて死体の始末屋も手配してある。ひとつのはずがふたつになるが、先生、どうせ我々との関係を、周りに漏らしちゃいないでしょう。命が大事なら、そいつを今すぐ渡すことです」
「僕は、今日、知った。奪い奪われるばかりの世界でも、誰かが見ていてくれるのだと」
「ああ、もう。めんどくせえ。死ね」
引き金が絞られた、その時。
新井の背後から、漆黒の影が襲いかかった。
*
新井の顔面を殴りつける。襟首を掴んで化学準備室から引きずり出し、廊下の壁に叩きつける。
拳銃を持った手を踏みつける。そのまま踏みにじる。骨が数本折れる小気味いい音がした。
拳銃を奪うと、ブギーマン=道哉の肩に、一基の小型ドローンが乗った。そして、明らかにボイスチェンジャーを通したと知れる声がした。紅子だ。
「新井一茂。二度とこの学校に近づくな。次は命はないものと思え。肉ダルマのお友達もな」
「お、お前。誰を、敵に回したと……」
「身体がでかいだけのボクサー崩れと、三流のチンピラと、スーツの似合わない安いツラのお前だ」
他人をバカにする語彙は豊富なのが羽原紅子という人間だ。マスクの下で思わず苦笑する。
新井の胸倉をもう一度掴み、昇降口の方へ放り出す。這いつくばる尻を後ろから蹴る。
廊下を転がるように遠ざかっていく新井。
「任せていいか?」と道哉。
「ああ。可能な限り追尾する。こちらはお前に」
「ああ、任せろ」
小型ドローンが肩から離れる。
そして道哉は、もう一度化学準備室へ足を踏み入れた。
葛西がいた。汚れた白衣。襟のくたびれたシャツ。力なく笑い、床に座り込んでいる。
テーブルの上には、ガラス器具が並んでいる。だが、いやに長い。数メートルに渡って組み合わせられたフラスコや冷却器の数々は、重工業地帯のミニチュアを思い起こさせた。
葛西はゆっくりと立ち上がった。「これはね、フローリアクターというんだ。固相での連続合成。普通、有機合成ってのはひとつのフラスコに原料や溶媒、触媒を入れて、恒温に保って撹拌して、溶媒を除いて再結晶という手順を取る。次の反応へは、また新たにフラスコを用意する。でもこれは違う。触媒を吸着させた多孔質の担体を三〇〇度程度に加熱し、適切な容量で混合した原料を投入する。出口では生成物ができあがっている。左から入れた分だけ、右から出てくる。メタンフェタミンでの経路確立は、おそらく僕が世界初だ。この設備では、全工程をフロー化した。原料を定量供給すれば、手を触れることなく最終生成物が得られる。廃液の定期的な中和廃棄と、最終生成物の濃縮再結晶は必要だけど」
「なぜ、覚醒剤を?」
よろめきながら壁に背を預ける葛西。「大学院時代に、神経伝達物質に似た部分構造を持つ化合物をフロー合成した。その時の経験があった。覚醒剤を作った理由の半分は、それが高価格で捌けるからだ。もうひとつは、できるからだ。僕は、できることをやった。それだけだ」
「あなたには、もっと他にできることがある」
ベルトに収納していた手製ナパームを壁に向かって投擲。衝撃で起爆機構が作動し飛散、実験室に火の手が上がる。
「お前、何を……!」
「あなたは学生時代の研究の続きをしていた。学問への探究心からつい夜中も入り込み、警備システムを切った。だが夜中に思わず寝入ってしまい、その間に実験系から火が出た。研究内容はすべて消失した」
「ちょっと、待て。その声を知ってる。お前、いや、君は……」
道哉はフードとマスクを取った。
「あなたの力を貸して欲しい」
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