*


 私たちの間には初めから愛なんかなかったのよ、と妻は言った。そしてその日、妻は妻ではなくなった。離婚届に判を押したその日から、生きるための戦いが始まった。

 葛西翔平の初婚は二十八歳の頃。相手は学生時代から付き合ってきた恋人だった。特別なところは何もない関係だった。でも、彼女と一緒に過ごす時間が好きで、好きでいる自分が好きだった。一緒にいる間だけ、自分を誇ることができた。自分が特別になれたような気がしていたのだ。

 きっと、彼女とふたりでたくさんのものを得ていくのだろうと夢想した。同じベッドで目を覚ます朝が好きだった。歯ブラシをくわえて台所に立ちフライパンに卵を落とす彼女の後ろ姿が好きだった。朝食を終えてからふいにキスしてしまう瞬間が好きだった。このまま何も起こらないで時間だけが永遠に過ぎていけばいいのにと思った。

 向こうの両親に挨拶したとき、一番最初に言われた言葉をよく覚えている。『冴えない男だな』だった。お父さん、やめてよと彼女は怒った。怒ってくれることが嬉しかった。葛西翔平は本当に冴えない男だったから。

 化学の教師。収入はたかが知れている。取り立てて容姿に自信があるわけではない。特技といえば、元素周期表を最初から最後まで暗記しているという、天才小学生のようなものだけ。趣味はなかった。仕事を愛してもいなかった。就職活動に本気になれず、人生に対する言い訳のようにして、念のため履修していた教職課程を活かして教員採用試験を受け、合格した。理念も信念も、面接で語るために用意した以上のものは、何もありはしなかった。

 彼女は都内の小さな広告代理店に就職した。デザイナーから営業まで、何でもやらされるんだよと笑っていた。それでいて日々が輝いているように見えた。ずっと影の中を歩いているような自分とは対象的だった。

 そんな彼女から、結婚を切りだされたときは、正直信じられなかった。どうして、と思わず訊き返した。赤ちゃんが、と彼女は言った。

 思えばその時から、何かがおかしかった。

 結婚式はキリスト教式だった。彼女は張り切っていた。人生で一番の晴れ姿だもん、翔くんにはわからないだろうね、と彼女は笑い、そんなところが好き、と付け足して言った。

 自分が父親になるという自覚はまったくなかった。ただ、正しくあろう、という漠然とした気持ちだけがあった。立派でなくてもいい。特技がなくてもいい。収入が少なくてもいい。俳優のような顔でなくてもいい。ただ、誰かに後ろ指さされることはない、恥ずかしくない人生を歩もうと思った。

 こうするのが正しいのかもしれないと、頭の隅で思いながらも、それを実行に移せないことばかりの青年期を過ごした。学生時代は、きっとこの世には誰にも侵すことのできない完璧な正しさがあり、それに向かって走っていくことが輝ける人生であり、それに背を向けてばかりの自分は冴えない男なんだというコンプレックスに悩まされていた。

 何も、得なかった。

 だが何も、失うこともなかった。

 そうして就職し、子供たちと触れ合い、毎日をやりすごし、輝いている彼女からも目を背けるたび、自分の中から何かが失われていることに気づいた。

 若い頃は、何も得なくても、何も失わなかった。

 いつの間にか、何かを得続けなければ自分というものが失われてしまうほど、老いていた。

 微かに残されていたものがすり減っていた。

 それは、憧れだった。

 輝ける人生への憧れ。青年期の自分をあんなにも悩ませた、輝きコンプレックスの源。自分に自信を持つこと、あるいは、自信を持っている人への憧れが、すり減っていたのだ。憧れは老いに奪われたのだ。

 だが、父親になるという事件は、それらすべてを押し流していった。

 まるで自分の中に新たな燃料が充填されたかのようだった。

 目一杯胸を張れなくてもいいから、せめて人並みに正しくあろうと思った。

 やっと、大人になれた気がした。

 なんかいい顔になったね、とその頃彼女に言われたことを、よく覚えている。あの言葉はたまらなく嬉しかった。

 同僚の女教師にも、結婚以来顔つきが変わりましたね、と言われた。今の方が素敵です、とも。

 一年が経って、子供もはいはい歩きをするようになった。

 妻によく似た子だった。罪のないものはそれだけで愛おしいのだと初めて知った。

 初めて知ることばかりだった。戸惑いと誇らしさが同時にやってきた。知らないことを知るたび、子供と一緒に自分も成長しているように思えた。

 さらに半年が経って、妻は仕事に復帰した。復帰記念日に、久しぶりに妻を抱いた。身体は冷たく、柔らかさが失われていた。だが行為はいつになく積極的だった。学生時代の、三度目のセックスと同じくらいに。

 幸せいっぱいな感じですね、と同僚の女教師に言われた。そんなことないですよ、とのろけたふりをしながら、ずっと違和感を覚えていた。

 破局は突然に訪れた。

 妻が、学生時代の友人と旅行へ行くと言い出した。二泊三日。子供は妻が実家に預けた。久々にひとりの時間を満喫できると、脳天気に考えていた。だが二日目の夜、一通のメールを受信した。見知らぬアドレスで、Facebookのアドレスが添付されていた。サムネイルが展開されて、一枚の写真が見えた。

 見知らぬ男だった。その隣に、知っている女が写り込んでいた。

 鼻から下と身体しか見えなかった。だが、なぜか、その一枚の写真だけで確信してしまった。それが妻であると。

 帰ってきた妻に、誰と一緒だったの、と問うた。

 たった一言だけで充分だった。

 どれだけ言葉を交わしても通じ合えなかったのに、別れる時だけは、一言だけで何もかもがわかった。

 妻は翌日、荷物をまとめて家を出た。

 冷静になるには時間が必要だった。だが平日は容赦なくやってきて、仕事も待ってはくれなかった。さすがに様子が少し妙だったのか、数日して、同僚の女教師に「何かあったんですか」と尋ねられた。その言葉に救われたように、彼女にすべてを打ち明けた。

 最初は職員室で。

 次に居酒屋で。

 二軒目のバーで。

 そしていつの間にか、安ホテルで彼女を抱いていた。

 地味な女だった。妻のような輝きはなかった。だからこそ惹かれた。心の隙間を埋めるのが妻なら、潜り込んでくるのがその地味な同僚の女教師だった。

 それからしばらくして、一枚の書面が届いた。

 訴状だった。

 妻が慰謝料を求めていた。理由は、夫の浮気により多大な精神的苦痛を味わったこと。写真が添付されていた。同僚の女教師とホテルから出てきたところだった。

 迂闊だったと知った。おそらく、興信所か何かに行動を監視されていたのだ。

 だが、なぜか、怒りは湧かなかった。

 一週間ほどして、弁護士を名乗る男から連絡が来た。先方と面会、交渉をしろということだった。平日だったが、仕事を休んで向かった。

 指定されたホテルの喫茶に、妻はいた。隣には写真の男。名刺を渡された。弁護士と書かれていた。

 要するに、こうだ。

 葛西翔平は浮気をした。それにより、妻は精神的な苦痛を受けた。離婚理由は百パーセント夫の側にある。故に慰謝料を請求する。また、子供の養育権は妻が持ち、高校を卒業するまで養育費を支払うこと。

 そして離婚届に判を押すこと。

 虚しさだけがあった。かつて愛だと勘違いしたものの成れの果てだった。

 出された書類にすべてサインをし、印鑑を押した。

「ひとつだけ訊かせてほしい」とやっとの思いで口にした。「僕の子なのか?」

 彼らはその質問に答えなかった。別れ際、旅行のおみやげだと言って、妻だった女は一枚のポストカードをテーブルに置き、弁護士の男と腕を組んでその場を後にした。

 カッコウの絵が描かれていた。

 そうしてすべてが失われた。

 いつの間にか、職場にも噂が立っていた。抱いてしまった地味な同僚の女教師は、噂に耐えかねて退職した。以降連絡は取っていない。取るのが怖い。もし彼女も一味だったら考えると、背筋に悪寒が走った。とても確かめられなかった。だがこうも思う。

 あの時Facebookのアドレスを送ってくれたのは、彼女だったのではないかと。

 転勤になった。

 新天地では、何もかもを忘れるためにひたすら職務に邁進した。日々が戦いだった。追いかけてくる虚無感から全力で逃げ続けなければ、飲み込まれてしまいそうだった。お前には何もないと囁き続ける悪魔。誰もが自分を嘲笑っているという妄想。それらすべてを眼鏡と薄笑いの下に隠した三年目で、初めて担任を任された。

 そして野々宮ゆかりに出会った。

 生真面目そうな子、という第一印象は今でも覆っていない。でもそれでいて、子供じみた冒険心も持ち合わせている少女だった。たとえば、年上の男と関係を持ってしまうような、冒険心。

 何事にも一生懸命で、その温度差ゆえにクラスに馴染めずにいた野々宮ゆかり。空回りして肩を落とすその姿が気にかかり、思わず声をかけた。それ以来、彼女はしばしば担任である葛西のもとを用もないのに訪れた。「先生だけ」と話の端々で繰り返し口にしていたことをよく覚えている。彼女にしてみれば、親もクラスメイトも認めてくれない思いを認めてくれた特別な存在が、たまたま担任の教師だったのだろう。

 その時、葛西翔平は、野々宮ゆかりの孤独に、共感してしまっていたのだ。

 馬鹿な話だ。一回りも年下の、まだ子供でしかない、しかも教え子が思い悩んでいることが、まるで自分自身の悩みのように思えたのだから。

 初めて彼女を部屋に上げた時の抗しがたい安らぎをよく覚えている。

 先生だけ、先生じゃなきゃ駄目と繰り返していた彼女が、その時だけは「先生は私が傍にいなきゃ駄目なの」と言った。

 彼女は何もかもを見透かしていた。たぶん無意識に、彼女は正しいものを見ていた。眼鏡を通した彼女の視界に写っている自分こそが、本当の自分なのではないかと思えた。

 気づけば彼女を抱きしめこう口にしていた。

「君がいなくちゃ駄目なんだ」

 そして教え子と寝た。当然のように処女だった。二年目の秋のことだった。

 慰謝料の支払いは滞り、法的措置を示唆する督促状が届くようになった。

 誰かに後ろ指をさされるような生き方をしてきたつもりはなかった。にも関わらず届き続ける書類のせいで、お前は悪いと頭ごなしに怒鳴りつけられているかのような気分に陥った。ゆかりとふたりで過ごす時間にも、その気分は伝染していた。

 正しくないことをしているのだ、と。

 何もいけないことはしていないよ、と彼女は繰り返した。そのころには離婚の経緯を洗いざらい彼女に話してしまっていた。

 そしてある時、気づいた。

 この世は、正しいかそうでないかで線引などされていない。

 ただ、奪うものと奪われるものがいる。

 正しく生きて、誰にも奪われない人がいる。間違った生き方をして、何かを奪われる人もいる。まったく同じように、正しく生きているにも関わらず大事なものを奪われ続ける人と、間違った生き方をしながらも誰かから何かを奪い続けている人もいる。

 簡単なことだった。正しさとは何かを思い悩んでいた学生時代の自分に耳打ちしたくなるほどに。

 そして腕の中には、誰にも奪われたくない女がいた。


 葛西翔平はまどろみから目を覚ました。目の前には実験器具。電磁撹拌機が回り、油浴が泡立ち、溶媒が還流し、最終生成物が溶解した液がフラスコの中に溜まっていく。これを減圧蒸留し、再結晶させて生成物を得るのだ。

 約束の時間が近づいていた。葛西は、反応系の安定を確認すると、化学準備室を出た。

 深夜の学校は静まり返っていた。不気味な気配があった。いつもは命に満ち溢れている若者たちが駆け回っているせいか、夜の校舎でも、彼らが残した命の残滓が、消えかけのろうそくのように燃えているように思えた。

 裏口から建物の外へ出て、裏門の横にある小さな通用口を開ける。外からでも手を差し入れれば開けられるため、主に面倒な警備システムをパスしたい教職員らに重宝されていた。

 しばし立ち尽くしていると、待ち人が現れた。

「やあやあ葛西先生。今日は時間通りに参りましたよ」

 新井だった。今日はストライプのスーツ。シャツの色は相変わらず黒だった。

「いえ……私も今降りてきたところで」

「それにしても、学校ですか。大胆不敵ですねえ」

「誰も見ていませんから」

「盲点というやつですか。学校の先生にしておくのは惜しいなあ」新井は慇懃に笑うと、従わせている若い男のひとりを顎で呼んだ。「おい、お前はここだ。誰も通すな」

「っす」

 その若い男はその場で休めの姿勢を取る。すると、「馬鹿野郎」と一声怒鳴って新井は男を殴りつけた。「中に入って人目につかないように見張るんだよ。そんなとこで突っ立ってたら、宣伝してるようなもんじゃねえか」

「すんませんっす」

 男は恐縮して繰り返し頭を下げている。

 新井が従えていたのは四人。葛西と新井本人を合わせて六人の一行は、出入口の見張りを任された若者を除いて五人になる。

「あの野郎、現れますかね」と柄の悪い男たちのひとりが言った。髪には剃り込みが入っていた。

「顔なし野郎か? さあねえ」と新井。「純ちゃんのときのようにWIREをハッキングしただけなら、やつは俺らが今ここにいることを知らない。来るはずがない」

「でも、来ると思ってんスよね。だから君島さんまで。でしょ?」

 水を向けられた君島という男は、何も言わなかった。他の男たちと見るからに違う身体つきだった。肉体に無駄な部分が一切ない。目つきも違う。前だけを睨み据え、まるで、目では見えないものを感じ取ろうとしているかのようだった。

「あの、その顔なし野郎ってのは……」

「先生は知らんでいいことです」と新井。

 この男が時折見せる有無を言わさぬ口調が苦手だった。

 だが、二年の佐竹純次という生徒が起こした事件の際、生徒の間で話題になっていたのだ。顔のない男が彼らに制裁を下した。彼は地獄から蘇った正義の亡霊、誰にも殺すことはできないのだと。

 その目印は、黒い包帯。

 生徒たちの馬鹿げた噂話だと一笑に付していた。この世にいくらでもある夏の怪談の一つだと思っていた。だから、覚醒剤の密売に関わるこの男たちの口からその名が出るのが意外だった。

 顔のない男――ブギーマン・ザ・フェイスレス。

 一行を案内し、校舎の角を曲がる。

 もうひとりの、金髪の若者が口を挟んだ。「いやー、でも懐かしいっすね、高校って。めっちゃ仲いいセンコーがいたんっすよ。それで……」

「俺は高校は出ていない」と新井。「余計な口を利くな。ヤバいヤマだってことは、わかってるだろ」

 中庭に差し掛かった。

 金髪からの返事がなかった。

 新井と君島が背中合わせになる。剃り込みが脳天気な声を上げながら周囲を見回し、金髪の名前を呼ぶ。

 全員の携帯電話が一斉に鳴った。

 葛西も画面を見た。WIREの着信だった。

 『ミツケタ』と書かれていた。

「新井さぁん!」と剃り込みの気の抜けた声。彼は曲がり角の向こうから金髪の身体を引きずってくる。気を失っているようだった。

「やつだ」と新井。「始末はこっちでつける。存分にやっていいぞ、君島」

「ど、どういうことなんですか。新井さん」

 新井は眉根を顰めた。「敵対勢力です。この君島が始末しますが、非常事態なので今までできあがっている分だけでも今すぐ引き渡し頂きたく。施設は?」

「上です」

 じゃあ行きましょう、と言う新井に促され、中庭から校舎内へ入る道へ足を向けた。

 正面に、影があった。

 人、なのだろうか。

 全身黒尽くめ。鎧のようなものを身に着けているらしいシルエットは、まるで人間ではなく人間によく似た獣のようだった。外灯を背負っているためか、姿はよくわからなかった。フードを被った顔は、影に包まれていた。

 目を凝らす。そして、息を呑む。

 その男には顔がなかった。

 フードの下で、黒い影だけが揺れていた。

 君島が一歩前に踏み出した。その拳には、鋼鉄のブラスナックルがあった。

「お前を待っていた」

 新井に肩を叩かれる。「ここは彼に任せましょう。さあ、施設へ」

「は、はい。こちらです……」

 先に立って新井を案内しようと、再び校舎内への渡り廊下に足を向けた。

 そして目の前に広がっていた異様な光景に、足が凍った。

 渡り廊下に、黒い包帯が散乱していた。


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