⑩
「道哉さん、島田先輩にご用事があったんじゃなかったんですか?」
日曜日の朝、出掛けの一花にそう問われて、稽古上がりの道哉は答えに窮した。
場所はいつも通りの道場縁側で、道哉は稽古着でいつものように座って休んでいる。だが一花の方は、いつものような浴衣ではない。襟のあるフレンチスリーブの白いワンピースに赤いハイカットのスニーカー。腰にアクセントの細いベルトを巻いて、ナイロンのリュックを背負っていた。甘すぎないが、文句なしに可愛い。島田の好みに合うだろうか。
「用事……うん、あった。けど、いいや」
「いいんですか?」
「どうせ補習も終わったし、もう休み明けまで学校行くこともないからなあ」
「書道部の活動日、あとでWIREしときます。あと、エアコンは来週です」
「……マジで」
道哉の暮らす離れのエアコンは相変わらず壊れている。一連のいいご身分ですね問答の後、渋る一花の許しを貰い、新しいものを一台入れる手筈が整ったのが数日前。
「電気屋さんが忙しいみたいで、来週の水曜日あたりになるそうです。やっぱり夏はご多忙なんですねえ」
「何でちょっと嬉しそうなの……」
「そんなことないですよぅ」
「また学校の図書室に避難しようかな。確かお盆以外は開いてるよね」
「あ、それじゃあ道哉さん、中庭の芝生が枯れちゃったの見ました?」
「芝生? 中庭通ってないから」
「一説には亡霊が降りたとか何とかです。夏は怪談の季節ですね」
「信じてる?」
「いえまったく」けろっとした顔で言って、一花は頭を下げた。「行ってまいります」
「いってらっしゃい」
「お兄ちゃんも」
いつの間にか道哉の背後に立っていた一真。「はい、行ってらっしゃい。遅くならないようにね」
一花はもう一度頭を下げてすたすたと歩いて行く。
「ねえ道哉、寂しいものだね、妹が大人になるって……」
「一真さんも人間だったんですね……」
「拳のために何事にも動じない心を鍛えたつもりだったんだけどね」一真は珍しく縁側に腰を下ろした。「冗談はともかく。ちょっと道哉に頼みがあってね」
「……頼み? 一真さんが、俺に? お茶を淹れろとでも?」
「ああ、火は使うなと一花にきつく言われてしまって。玉露をひとつ頼むよ」
「このクソ暑いのに?」
「冗談だ。湘南の本家に行ってきてくれないか?」
「え……俺がですか?」
「そうそう」一真は封書をひとつ縁側に置いた。「父から手紙が来た。お盆に顔を出してはくれないか、ってね」
驚くべきことに点字だった。榑林父子の間には深い溝が横たわっているが、これは父なりの、精一杯の譲歩なのかもしれない。
「一真さんは行かないんですか?」
「僕は目がこれだから、長距離の移動は何かと面倒が多くてね」
道場を畳むことに賛成した親族を片っ端から叩きのめした男の言葉とは思えず、道哉は苦笑する。「やっぱり、まだ許していないんですか」
「もちろん。ただ、僕だってこのまま永遠に絶縁しているつもりはないんだ」
「譲歩の印として俺を送ると?」
「そういうこと。頼まれてくれないか?」
「別に、嫌ではないですけど……お盆ですね?」
「予定はあった?」
「ないです」
「じゃ、よろしく頼むよ」
悪い提案ではなかった。道哉にしても、お世話になっている伯父のところに顔を出すのはやぶさかではなかった。ただ、お盆の時期は行楽客で人が多い。必ずしも心地いいとはいえない場所にわざわざ足を運ぶ億劫さはあった。
一真は不安さなどひとつもない足取りで室内へ戻る。
対する道哉は、特にすることもなくシャワーを浴びて離れの部屋へ戻った。
午後の暑さを思いながらベッドに倒れ、テレビをつけると、高校野球の特集番組を放送していた。同い年の若者たちが青春の一ページを刻んでいる姿が眩しかった。違う生き物を見ているかのような気分だった。この世には、彼らのような熱く輝ける者たちと、そうでない者たちがいるのだ。
携帯電話が鳴った。怜奈からWIREの着信だった。こう書かれていた。
『何で生きてんの?』
思えばWIREで怜奈とやり取りするのはこれが初めてだ。あまりにも何が言いたいのかわからない。首を傾げながら、『頭大丈夫か?』と返しておいた。すると、数分して電話がかかってきた。
「いや、あたし結構悩んでるんだけど」
「はあ? なぜ生きるのかか?」
「そうそう」
「今何してる?」
「冷房の効いた部屋で海外ドラマ観ながらあんたと話してる」
「こっちはエアコンが壊れた部屋で高校野球観てるよ」
「ふぅん。面白い?」
「超高校級のスラッガーをみんなでヨイショしてる」
「つまんないね」
「だろ? そっちは?」
「話が一向に進まず謎が明らかにならず登場人物同士が延々と疑心暗鬼に囚われてる」
「つまんねーな」
「でしょ? あんたと話してる方が面白い」
「それはどうだろ」
「本、返したいんだけど」
道哉はベッドから身を起こした。「へっ? 何だよ藪から棒に」
「今から会えない?」
「いいけど、それが用事なら先に言えって」
「やだ」
「やだって何だ、やだって」
「や、だって」怜奈はやや口ごもった。「何か不愉快だし」
「はあ……」道哉は思わず首を傾げた。「学校でいいか? ちょっと確かめたいことがあって」
「うん。いいよ」
「じゃあまた後で」
道哉は電話を切った。
高校野球の特番では、後にプロで大活躍するだろう超高校級のスラッガーを擁する学校の今年の戦力が紹介されている。彼らに滅多打ちにされただろう敗退校の投手が不憫になり、道哉はテレビを消した。
母屋の一真にひと声かけてから、呑気に歩いて学校へ向かった。
少し歩けば都心環状線。昭和三十九年の東京オリンピックを契機に整備された道路だ。同じくオリンピック時の公共事業である首都高速に繋がる通りは、やはり車で溢れている。心なしか、これから行楽地へ向かう家族連れや若者のグループが多いように見えた。
学校は、その喧騒から通り数本隔てたところにある。
夏休み中でも、誰かしらの姿が見えるのが不思議なところだ。今日は壁の補修に来たらしき業者と、立会いの貧乏くじを引いたらしき教諭の姿が見えた。図書室は閉まっているようだった。
道哉は校門を抜けると、中庭へ向かった。
ここに来るのはいつも昼休みで、どこかしらに必ず生徒の姿がある。今は当然、誰もいない。左右を見渡すと、確かに芝生に枯れた場所があった。
近づいてみる。覚えのある場所だった。
ちょうど、怜奈が花を摘んでいた場所だった。
「不愉快……いや、不可解」
道哉はもう一度周囲を見回す。他に草が枯れている場所はない。
考えあぐね、建物の下の日陰へ戻った。中庭を横切るコンクリートの渡り廊下に腰を下ろすと、じわりと温かかった。
携帯電話に目を落とす。怜奈は駅の反対側から来るため、もうしばらく時間がかかる。どうしようか、と腕組みした時だった。
「憂井くん?」
「……葛西先生」
黒縁眼鏡の優男、疲れた姿に汚れた白衣が妙に似合う、葛西翔平教諭だった。
「どうしたの。今日、休みだし日曜日でしょう」
「待ち合わせです。友達と。ここしか思いつかなくて」と道哉は応じた。「ここ以外に共有した時間がほとんどないから」
「別に駅前とかでもいいじゃないか。誰に憚るわけでもない」
「そういう相手じゃない気がするんです。そういう相手にしちゃいけないっていうか」
「君は……」葛西は道哉の隣に腰を下ろした。「面白いことを言うね。相手は、女の子?」
「どうして?」
「男子をセンチメンタルにできるのは女子だけだから」
「俺、センチメンタルっすか」
「そりゃね」葛西は穏やかに微笑む。「たくさん悩むといいさ。そうやって辿り着いた先にしか君の道はないんだからね」
「いいんすか、そんなモラトリアムで甘やかしなことを三年生の担任が言って」
「何となくね、わかるんだよ。世の中には、『私は迷ってなどいない』と自分に言い聞かせながら一直線に進んでいくタイプと、『迷ってちゃダメだよな』と思いながらも迷い続けるタイプがいるんだ。君は後者だ」
「無理にいいこと言わなくてもいいですよ。そういうのも何となくわかります」
「おっ、生意気な」
「センチメンタルなので」
笑顔を作りながら、道哉は慎重に葛西の様子を窺う。
この男は、製造者なのか、中毒者なのか、どちらだ?
紅子は周辺を探ると言っていたが、目の前に現れてくれたのだから、好都合だ。
「そういえば先生」まずは動揺を誘ってみることにする。「今日は、野々宮先輩は?」
「野々宮くん? は、またそれは、どうして?」
「いえ、何だかいつも一緒にいる印象なので。気のせいですか?」
「気のせいだよ」
繰り返し。
右上に視線が逸れる。左手が右手に重なる。妙に笑顔。座り心地の悪いコンクリートのはずなのに身動ぎひとつしない。
当たりだ。彼は嘘をついている。
「今日はどうして学校に? 受験生でもないのに、勉強ですか」
「違うよ。仕事だ。ちょうど集中して実験ができるからね。学生時代の続きだよ。あの頃は就職活動だ何だで忙しくて、研究も中途半端になってしまったから。設備を借りて、あの時の研究の続きをやってるんだよ。実は、多少学校の予算をこっそり借りてはいるけど……黙っててくれよ?」
早口。言葉が増える。訊いてもいないのに『実は』と言い出し、その話が真実であることを主張し、相手の共感を得ようとしている。
野々宮との関係も嘘。
研究のためここに来ているのも嘘。
何もかもが嘘だ。
だが、どうしてだろう。この葛西という男が、あるところでは真実を語っているような気がする。
嘘の中に、狡猾さがない。何かに追われて、必死でいる。
放って置けない弱さが、人を惹きつけるのかもしれない――何歳も年上の男を前に、道哉はふと、そんなことを思う。
問題は、言葉が嘘であるとして、真実は何であるかだ。
彼は、ここで、何をしている?
「先生、研究って、どんなことを?」
「高校生には難しいからなあ。特に補習に引っかかるような生徒には」
そう言われてしまってはぐうの音も出ない。
むっとして押し黙っていると、葛西が腰を上げた。
「じゃあ、僕はこれで。憂井くんの待ち人も来たみたいだから」
「待ち人って……」
目線を上げると、片瀬怜奈の姿があった。彼女はストローハットを取ると、「よっ、道哉」と言った。
インディゴブルーのスキニーデニムに白いシャツ。至ってシンプルだが元来のスタイルのよさが映えていた。
逃げるように立ち去る葛西。
怜奈は怪訝な顔で呟く。「……今の、化学の先生だっけ。三年の担任の」
「そうそう。何か話しかけられた」
「あんた結構教師に好かれるよね」
「そうか?」
「うちの有沢ともよく喋ってるじゃん」
「有沢先生かあ」
「嫌い? ああいう、燃え尽きかけてる感じ」
「別に」道哉は立ち上がった。
「本題」怜奈は鞄から文庫本を取り出した。「ありがと。面白かった」
「それはよかった」
「あんた、今日これから暇?」
「今日は……」
暇だよ、と応じようとしたときだった。
マナーモードにしていた携帯電話が震えた。
「悪い、今日は家の用があって」と道哉が言った。
「あ、そう。残念」
「悪いな。今度は俺から誘うよ」
「別に誘ってないから」
唇を尖らせる怜奈をひとしきりなだめてから別れる。
ひとりになって、道を急ぎながら携帯電話を確認する。羽原紅子からの連絡専用に設定した震え方だった。
並んでいた文言に目を疑った。
誰もいない歩道橋の真ん中で、道哉は紅子に電話をかけた。コールが繋がるやいなや道哉は言った。
「どういうことだ。説明しろ」
「読んで字のごとくだ。松井が、新井から覚醒剤を買った」
「なんであいつが」
「佐竹を介して伝手はあったからな。松井の方が素人だからか、例の取引の隠語も使わなかったよ。おかげで場所がわかった。加えて取引場所には売人ではなく、新井本人が現れた」
「そんなに生徒にクスリを売りたいのか」
「憤るのは後にしろ。おかげでやつの居所が突き止められる。青空迷彩のドローンで取引場所からやつを追跡している。WIREにもSNSの類にもこれまで尻尾を出さなかったんだ。ついに掴んだぞ。君の提案に乗ろう」
「俺の提案? つまり、やつを」
その通りだ、と彼女は言った。「今夜、決行だ」
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