第2話 其亦道也

episode 2 "JUST THE WAY YOU ARE"

 その男の噂はしばしば耳にした。

 虚ろな目。常人の三人分はあろうかという堂々たる体躯。拳は岩石のようだった。乾いていて、傷だらけで、硬い。

 昔はプロボクサーで、引退後はこの世界に入った。界隈の飲食店や風俗店でのトラブルの仲裁など、銃やナイフをなまじ使わない方がいい状況で重宝され、幹部らにも頼りにされている存在と聞く。一度、北朝鮮から境港経由で輸入された覚醒剤の引き渡し現場に立ち会った時に、彼の姿を初めて目にした。漁船に偽装した小型の船とはいえ、積んでくる覚醒剤は一組織で引き取れるような額ではない。そこで、国内の幾つもの非合法組織が手を組む。海上で受け渡された薬物が水揚げされ、出資した各組織に引き渡される現場には、やくざ、東南アジア系、イラン人、朝鮮系中国人、中国人、韓国人が居並んでいた。

 巨額の金が必要な仕事だから手を組んだが、普段から交流することなどありえない。むしろ互いの抗争は日々激化の一途を辿っており、ちょうどその数週間前に、やくざの幹部が朝鮮系中国人の手配した殺し屋に射殺される事件があったばかりだった。

 緊迫した現場に彼がいるだけで、心強かったことをよく記憶している。自分は一番の下っ端で、何かあれば幹部の盾になるよう命じられていたが、この男がいれば死なずに済むと思った。

 その男に、新井一茂は殴られていた。

 場所は都内の食品倉庫。ニンニクと唐辛子の臭いがする。関東に複数の店舗を持つ韓国料理店の倉庫であり、組織内の荒事では決まって用いられる。だがまだ、最悪ではない。ここは2号倉庫と呼ばれており、主に併設された工場で生産された加工食品の一時保管場所だ。

 『3号倉庫に呼び出されたら帰れない』とも言われている。大型の食肉冷凍施設があり、死体を処理するのに便利だというのがその理由だ。

 グローブも何もつけていない拳が腹にめり込む。内臓がまるごとひっくり返るような衝撃に、もうほとんど残っていない胃の内容物をもう一度吐き出した。

「殺すなよ」

 据わった声でそう言ったのは、通称『フクオカ』と呼ばれている丸坊主の男だ。過去に福岡で薬物の流通に関わっていたとかで、この仇名がついている。そして、薬物の卸価格を巡る抗争でやくざの幹部を射殺し、一時帰国。数年して日本へ舞い戻り、今度は歌舞伎町界隈に姿を見せている。系列のやくざはもちろん新宿にもいるのだから、まさに大胆不敵。

 殴られる――湿った床に倒れる。

 元プロボクサー、当時のリングネームは『アポロ君島』。機械のように鋭いジャブと、小手先ばかりと油断した瞬間に放たれる強烈なアッパーカットが武器だった。

 君島はおもむろに右手に鋼鉄のブラスナックルを着ける。彼自身の拳の一部であるかのようなそれは、傷と、錆と、血に汚れている。

 死ぬ、と思った。痛みへの恐怖が、死へのそれに変わった。

「違う顔になりたいか」と君島が言った。

 いいねえ、とフクオカが笑う。「もっと男前にしてもらえよ」

 笑い事ではない。あんなもので顔を殴られたら本当に人相が変わってしまう。

 彼に顔を殴られれば、ひと目で粛清されたことがわかる。組織に不利益をもたらしたものの証が顔面に刻まれる。しかし一方、顔にあからさまな傷があれば表の仕事探しに支障を来す。

 逃げる気力は残っていなかった。

 君島が拳を振りかぶった。

「よせ」とフクオカが鋭く言った。足音を鳴らして歩み寄ると、新井の胸ぐらを掴んだ。「今回の件はお前が始末をつけろ。ガキ共をのした謎のブギーマンとやらについてもだ。君島をお前に貸す。場合によっては使え」

「場合……?」

「その男が、我々三星会の邪魔をするならだ」


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