62.お別れ
《1998年12月21日 9:40AM エルハイト市内 ビアンカ・メグレー孤児院》
帰ろう。
父と暮らした、クレハの街に。
帰ったところで頼れる人がいないことくらい、マリア自身にも分かっている。それでもマリアは、
故郷クレハは、このエルハイト市から南東に八百キロの距離にある。帰るのならば、鉄道だ。行き方は知っている――かつてエルハイト市に来たときも、クレハ市から列車を乗り継いできたのだから。今回は、記憶を逆方向にたどればいいのだ。
――これからは、わたし一人で生きていくんだ。
人間社会で人間のふりをして暮らすヒューマノイドは、まだ国内に五万体近くいるという。ならば平気だ。自分もまた、その中の一人に加わるだけなのだから……
鉄道の駅に向かう途中。マリアには一か所だけ寄り道をした。
マリアの無事を祈ってくれているはずの、あの少年のところへ。
「マリア!」
孤児院で面会を申し出るや、クリスは学舎の中から飛び出して彼女の胸に飛び込んで来た。
「よかった……よかった。マリア!」
孤児院の先生がマリアを見つめる目は、どこか不審げだった。昨日、唐突に消えてしまったのだから無理もない。――持病で体調が悪くなったため、薬を取りに戻っていた。などと苦しまぎれの言い訳をしたのだが。
だが先生はそれ以上聞かず、クリスと彼女を二人きりにしてくれた。
声をひそめて、マリアはクリスに言った。
「落ち着いてクリス。わたし、大丈夫だから。ね?」
「……うん」
小刻みにふるえる、小さな肩。涙まじりの高い声。この少年の温もりを、絶対に忘れないでいようとマリアは心に誓っていた。
「もう……マリアに二度と会えないんじゃないかって、思ってた。もう大丈夫だよね? これからは、ずっと一緒に――」
「ごめんね、クリス」
マリアは、少年の声をさえぎるように言った。
「わたし。お別れを言いに来たの」
クリスの体がぴくりと震えた。
「お別れって――どういうこと?」
琥珀のような、大きな瞳を見開いて。少年は、表情の失せた顔でマリアを見上げている。
マリアは、少年の体をそっと引き離した。
「故郷に帰るの、わたし」
「……故郷?」
「えぇ。“わたし”じゃなくて、本物の“マリア・エレット”が生まれ育った街」
マリアは、精いっぱい楽しそうな声を作っていた。
「とっても素敵な街なのよ? わたしも数年間はその街で暮らしていたの。父と一緒に」
クリスの視線が、突き刺さる。マリアは彼を見つめ返すことが出来なかった。もしも視線を合わせたら、心の中を見透かされてしまうのではないかと思って怖かったのだ。
「マリア。どうして帰るの?」
返す言葉が思い浮かばず、マリアは笑顔を顔に張りつけたままでいた。
クリスは、なおも問いを重ねる。
「ねぇ……どうして? 帰って、どうするの? ――――なんで泣いてるの?」
泣いてなんかいないわ。そう答えたかった。でも、涙は勝手に流れていく。
マリアの顔を見つめ続けていたクリスは、
「ドクター・シュルツに、ひどいことされたの?」
凍りついたように、マリアの顔がこわばった。
「あいつに、出て行けって言われたの?」
「違うわ。あんな人、関係ない。でも――もう、あの人のところにはいられない」
「あいつのところを出てったら、マリアは誰に守ってもらうの?」
マリアのおびえるような顔を、クリスが見逃すはずがなかった。
「だめだ! マリア、行っちゃだめだ」
クリスは彼女にすがりついた。
「昨日の“狩り”で捕まったヒューマノイドたちが自殺したっていうニュース、マリアは知らないの? 訳のわかんないことだらけだ……この街も、よそも、どこも危ない。マリアひとりで生きてくなんて、無茶だよ!」
抱きつく両腕に力を込めて、クリスは彼女を放そうとしない。
「僕が大きくなったら、必ずマリアを助けるから。だからそれまで我慢して。今出て行っても、マリアはきっと生きていけない」
クリスの言葉ひとつひとつが、彼女の胸に刺さっていく。『自分の身も満足に守れない、出来損ないのロボット』……シュルツに言われたばかりの言葉と重なり、彼女はクリスの手をほどいていた。
マリアが踵を返して立ち去ろうとすると、
「待って!」
叫ぶように、クリスは彼女を引きとめた。ふり向かない彼女に向かって、クリスは怖れるように問う。
「マリアは……僕のこと好きじゃないの?」
幼い声は。ふるえていた。
「大好きよ。――でも。ごめんなさい」
ふり返らない。マリアは逃げるように駆けて行った。
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