28.忘却

《1998年11月7日 5:30PM エルハイト市内 第六検死研究所》


 “繭”は閉じ、中から響き始めた重低音がさざ波のように広がっていった。

 シュルツの指が、操作盤に走る。


 IV-11-01-MARIAが目で見た映像。聞いた音。触れた感触。嗅いだ香り。それらの記憶が、彼女の頭脳に保存されている。その中から、消去する記憶を選ばなければいけない。


 “繭”は稼働中のロボットに眠りを与え、頭脳に保存された記憶を引き出すための装置だ。だが、死んだロボット解剖して直接頭脳を診る“検死”に比べれば、得られる情報量ははるかに少ない。頭脳の最外層に保存されている直近七二〇時間以内の記憶だけしか、閲覧も消去もできないのだ。


 IV-11-01-MARIAと出会ってから、すでに七二〇時間以上が経過している。閲覧しうる情報の中から、MARIAが“愛情”を持つに至った出来事を忘れさせる必要があった。


「近寄りすぎたか……」

 まさかロボットなどに“愛される”ことになるとは、まったく予想していなかった。この一カ月余り、付きっきりで面倒を見てきたが。それが間違いだったのかもしれない。


 記憶の消去は慎重に、最低限にするのが基本である。

 ゆえにIV-11-01-MARIAと接触した記憶をすべて消し去ることはできない。記憶は一連の情報なので、断片的な消去は頭脳全体に大きな負荷をかけてしまうからだ。


「……検死を教えたのが、最大の過ちだった」


 後悔の声で、ロベルト・シュルツはつぶやいた。

 MARIAが自分を“愛する”ようになった過程。そこには、検死が関与しているはずだ。MARIAが感情を主張し始めたのは、初めて検死に立ち合わせた日のことだった。検死が彼女の精神回路に影響を与え、以後さまざまな感情を――そのひとつとして“愛情”を――強く錯覚するようになったのだろう。


 検死に関する会話や実技は、忘れさせよう。そして今後は、極力MARIAに接触しない。シュルツはそう決め、忘却処置を進めていった。

 頭脳への負荷を考慮すれば、記憶の消去は最低限が鉄則だ。だから検死以外の出来事は消さずに残しておいたほうが、頭脳の負荷は少なくて済む。

 ――だが。

「………………」

 消してしまおう。十一日前、あの壊れたカフスボタンを街で拾った記憶を。三日前、シュルツにそのカフスボタンを欲しいと願い出た記憶を。そして、ほんの数十分前に起こった口論を。


 ――あなたは。とても、卑怯なひと。


 さきほどのMARIAの声が耳によみがえり、シュルツは思わず首をふっていた。


    ***


 どれほどの時間が流れただろう。

 忘却処置が完了すると、重低音が遠ざかり、繭が開いた。張り巡らされたケーブルはまるでいばらのようで、深く眠るマリアの姿は、茨に包まれたお伽話の姫君のようだった。

 ケーブルが繭の内壁に格納されていく。


「――目を覚ませ、IV-11-01-MARIA」


 シュルツが静かにそう言うと、マリアは長いまつげを震わせた。

「ん……」

 深い眠りから目覚めたかのように。まぶたを開けて、MARIAは華奢な体をゆっくり起こした。


「? ……ドクター。わたし、何してたんですか?」


 紺碧色の瞳を見開いて、彼女は首を傾げていた。

 シュルツは、MARIAを見ようとしない。


「君の精神異常マインド・エラーが見つかったので、それを除去していた」

精神異常マインド・エラー?」

 MARIAは不安げな顔をした。

「その異常……直せますか?」

「ああ。修復済みだ。問題ない」

 モニターに視線を投げたまま、熱のない声でシュルツは言った。

「良かった……ありがとうございます。ドクター」

 彼女は胸をなでおろして、柔らかい笑顔を浮かべている。


「念のため、頭脳全体のシステムチェックを行う。隣室で待機していろ」

「わかりました」

 MARIAは静かに立ち上がると、シュルツに言われたとおり隣の部屋へと出ていった。

 ひとりになったシュルツは、思わず息を吐き出した。


 ――IV-11-01-MARIAは異常な個体だ。


 三原則逸脱を起こしかけ、一歩間違えればそのまま“心臓死”を起こすところだった。

 “発生率0.0001%未満”の異常個体が、まさにこのIV-11-01-MARIAなのだ。三原則逸脱を起こしかけたロボットを目の当たりにするのは、シュルツにとって初めての経験だった。


 ロボットは、どんな状況に置かれると三原則逸脱を起こし得るのか。それは、ロベルト・シュルツが解明を求めてやまない研究課題テーマである。MARIAを殺して徹底的に頭脳を解剖すれば、答えが出るのかもしれない。……だが、


「馬鹿な。そんなことが、出来るわけないだろう」


 IV-11-01-MARIAは、トマス先生から預かっているヒューマノイドなのだから。MARIAは特別だ。死なせることも、解剖することもありえない。


「守らなければならない……これからも」


 彼女がヒューマノイドであることを他人から隠し続け、生活の場所を提供する。それが、自分の任務なのだ。

 余計なことは、何ひとつ考えるな。為すべきことをするだけだ。


 シュルツは一歩を踏み出した。隣の部屋で待つ彼女の頭脳をチェックしなければならない。記憶消去が問題なく完了したかどうか。記憶回路以外の領域に影響はなかったか。

 なにげなく机に視線を馳せた――机の上のカフスボタンが目に留まる。記憶を消される前に、泣きながらMARIAがここに置いたのだ。

 置き遺されたカフスボタンを、シュルツは無表情に見下ろしていた。

「………」

 シュルツは疲れたようにため息を吐き、拳を滑らせカフスボタンを机から落とした。カフスボタンはそのままダストボックスに落ち、カシ……ンと乾いた音を立てた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る