第29話 巣立ちの歌

 ゴウゴウという風の音を聞きながら、ライカは最近よくこの音を聞くなと思っていた。

 激しく力強く、そして同時にどこか儚い音。


「ああ、そうか」


 ライカは唐突に理解した。

 これは風の音ではないのだと。

 これは自分自身の命の音、いつか治療所の先生が教えてくれた、全ての生物の中に在る命脈の中を命を繋ぐ体液が流れているその音なのだ、と。

 そうとわかってみれば、ライカは自分がいる場所が空の上ではないということに気づく。

 時折、竜の家族と意識を結んだ時に見るような、形の無い、意識だけが佇む空間。


「あの人はどこへ行ったんだろう?」


 ほんの先程まで対峙していたはずの存在。

 ライカをここに連れ込んだと思われる、ねっとりとした悪意の塊が、いつの間にか消えてしまっていた。

 やはりこの血に弾かれて消えたのだろうか? とライカは思考する。

 目の前には赤と金とが斑に混じり合って形作られた、丸い拳大の球があった。

 それはトクントクンと一定のリズムで淡く輝きを放ち、さながら一つの生きた存在のようにも見える。


「というか、これって俺の竜玉なんだよね? なんとなくそう感じるし、でも俺は竜玉を持てないはずだけど」


 ライカがそれを透かすようにじっと見ると、そこにぼんやりと浮かぶ光景があった。

 痩せ細った女性がつよい声で語る。


『人は人の中でしか、本当に生きることは出来はしない』


 幼い頃に何度か会った母。

 ライカは本当はこの女性が怖かった。

 それでも、その言葉の切実さは、ライカの魂の深い部分に揺るがぬ根を張って行った。


『不変と孤独は命を腐らせる毒です』


 独りだけで全てが完結しているヒュドラの友は、孤独から抜け出すために、自らを滅ぼす研究をしていた。


 泣きじゃくる幼い日の自分にセルヌイが優しく話してくれている。


『どうにもならないのですよ。彼女とあなたでは生きる時間が違う。彼女が子供を持てるようになる頃には、あなたはもう次の命として旅立っていることでしょう』


 ライカが、初めて恋をしたメロウ族の少女との生きる時間の違いを知った時、同時に己が家族との生きる時間の違いをも知った。


 きこり小屋で、あてもなく、ひたすら失われた家族を待っていた祖父。

 疑うことも、事情を問うこともせず、ただ温かく迎えてくれた人。

 ライカが、自分が人間であることをなんの抵抗もなく受け入れられたのは、この祖父のおかげだろう。


 そして、初めて目にした小さく固まった人間の群生地は、彼等を率いる者を中心に複雑な仕組みを作り上げ、それぞれ皆がお互いになんらかの繋がりを持って生きていた。

 だからライカも、その輪の中に加わりたくてたくさんの人と繋がりを持ったのだ。

 そう、セルヌイの蔵書に描かれていた世界よりも、現実の人間の世界は遥かに生き生きとしていた。


 喜びを、悲しみや痛みを、分かち合い、まだ訪れていない未来に一喜一憂する。

 それが、成熟を知らない人間の世界。


 夢想のようなひと時、或いは一瞬にも満たない回想を経たライカは、再び自らの竜玉を見詰めて思う。


「俺は、竜と人間と、両方が好きだ。だからそのどっちでもあることがとても嬉しい」


 すると、竜玉はまるでその声が聞こえたかのように小さく震え、交わることの無かった赤と金が解け、溶け合って、ライカの髪や瞳と同じ朝焼けの色になり、更に丸い形も解けて羽のように広がると、ライカの体を包み込み、その中へと溶けていった。

 ライカはそして気づいたのだ。

 自分は竜玉は持てないけれど、人と竜とその双方であることを何一つ違和感なく受け入れることは出来るのだ、と。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 竜王達の共鳴し合う輪が、目に見えない形で彼ら家族を結び合わせる。

 意識のないライカはセルヌイに抱え上げられ、今はその手の中に在った。

 魂と魂が撚り合わされて、そこに一つの宇宙命の樹が生まれる。

 そしてその真ん中に、小さな小さな卵があった。


 『世界』が優しく、時には荒々しく、その卵を揺さぶった。


 歌が聴こえる。

 それは生命の萌え出る原初の詩だ。

 何一つ確かなものなど無かった世界を、まだ形を持たない竜が泳ぐ。

 そして、エールは、あらゆる場所に芽吹いた。

 それら全てが詩を歌う。


 『共に在れ』と。


「あれ? 呼ばれてる、の、かな?」


 ライカは耳をすました。

 微かに聞こえるその声は、身近で懐かしい響きを持っているように思える。


「ああ、うん、今行くから、大丈夫」


 ライカは、その声のほうへと手を伸ばした。


 ― ◇ ◇ ◇ ―


 ぴくりと、ライカの体が動く。


「う、ん?」


 目を擦りながら起き上がる様子は、まだ眠い朝を惜しむ子供のようだ。


「おはようライカ、いい眠りだったか?」


 タルカスが厳かな声で目覚めの挨拶を告げる。


「タルカス」


 ライカは漆黒の巨体を見上げると、そのゴツゴツとしながらも滑らかな体表に反射する光を見つめた。

 そして、自分を持ち上げているセルヌイ、ニヤリと笑ってみせたエイム、どこか拗ねたように尻尾を地面に打ち付けているサッズを見る。


「おはよう、みんな」


 なぜみんながここにいるのだろう? という疑問と、身の内から溢れ出すような『今がその時だ』という衝動が生じた。

 何かが変わっている。

 そして、それは自分の中にある。

 ライカはそう感じて己の胸に手を当てた。

 そこには一遍の歌があった。


「俺、巣立ちの時が来たみたいだ」


 今まで知らなかったその歌を歌いたいという衝動がその言葉を紡がせる。

 驚きと、喜びと、僅かな寂しさ。

 それらがさざなみのように竜達の上を通り過ぎ、そして受け入れられたことをライカは知った。

 いや、心情的に受け入れられない者もいたが。


「なんでお前が先なんだよ! まだ早いだろ! 一番末っ子じゃないか!」


 サッズが羽を振り上げて抗議をする。

 サッズに引き込まれた風が天井の抜けた洞穴を巡って、いくつかの鉱石の結晶を砕いた。


「うんうん、寂しいよな、お兄ちゃんは末っ子にべったりだったもんな」


 エイムが揶揄しながらその尾でサッズを叩き落とす。


「うっせ、竜王にまでなっていながら巣立ち出来ない甘えん坊は黙ってろ!」

「ほう、よく言ったな」


 エイムはギラリとその凶悪な牙を覗かせた。


 ああ、そうかと、唐突にライカは悟った。

 彼の家族はライカとサッズを救うために来てくれたのだ。

 そうして、今まで『守られて』いたことを改めて自覚する。

 そんな強い思いとは裏腹に、ライカは上の兄と下の兄がぐるぐる回りながら噛み付き合うのを、まるで感情が灼き切れたようにただぼうっと見ていた。


 だが……まるで堰き止められていた川が瓦礫を押し流し、再び水に満たされるように、やがて衝動が胸を灼き、ライカは自分を支えるセルヌイの手を離れて宙に浮き上がる。


 すうっとまっすぐに空高く舞い上がる末っ子を、竜王達は追うように緩やかに飛び立った。

 暴れていたエイムとサッズも慌ててそれに習う。


 やがて飛び立ったライカの周囲にぼんやりとした光の影が浮かび上がる。

 金色の光だけを集めたような竜の影。

 それはライカの竜としての姿の影だった。

 細く、竜というよりは優美な鳥のようなその影は、雲よりも高く上がった本体を覆うように翼を広げる。


 歌が響いた。

 竜が生涯でただ一度、巣立ちの時にだけ奏でる歌。

 高く細く舞い上がる翼そのままのようなその歌に、竜王達、そして幼い兄竜の重く深い歌が重ねられていく。


 巣立つ若者の周りをその親族が舞う。

 それは遠い昔、この世界で幾度となく繰り広げられていた光景でもあった。


 命が世界に満ちていた頃を思い出したように、大地や木々も淡い光を帯びてその歌に共鳴する。

 歌の合間に、ライカは不器用な子供が作ったような形の、漆黒のナイフを鞘から抜くと、自分の、編んで背に流されている髪を肩の上で断つ。


「使われることなく役目を終えた守りこそ、最も強固な守りの力。俺は旅立つ巣にこの祝福を残していきます」


 投げられた髪は、光を受けてくるくると回りながら小さく固まり、子供の拳程の大きさの、琥珀のような石に成った。

 ライカの髪にはセルヌイの守りが掛けられている。

 セルヌイかライカ自身にしか断つ事の出来ないという守護の力だ。


「自分の身は自分で守れるってか、偉そうに! 一番ちっこいくせに一番偉そうになりやがって!」


 サッズが悪態をつきながらそれを受け取る。


「あはは」


 ライカは笑った。

 やがて竜の家族の作る輪はゆっくりと広がり、巣立ちを終え、独り立ちした者を残して去っていく。


「幸せに、ライカ」

「うん、セルヌイも、またたくさん蔵書を増やすといいよ」


「あちらに渡る道を忘れずにな」

「うんタルカス忘れないよ、またいつか行けるといいけど、ポルパスによろしくね」


「思いっきり暴れてやれよ!」

「エイムみたいにはいかないよ、エイムもほどほどにね」


「いつか巣立ったら、俺の方がたくさん世界を見るんだからな! うらやましがるなよ!」

「サッズ、少しは勉強しようね、あと、使命は解かないから」

「当たり前だ! ばーか!」


 歌を交わしつつ竜達は離れて行った。

 やがて空の色が茜色に染まりゆく中を、最後の影が融けるように消えていく。

 ライカは旅立ちの歌の最後の一節を高らかに歌い上げ、やがて疲れ果てたように地上に舞い降りた。


 洞穴内ではなくその淵に着くように風に乗って少し位置をずらして、ライカは無事に新しい崖となった場所に降り立ち、そして、困惑することとなる。


「街はどっちかな?」


 既に暮れ行く暗さの中、再び上空に上がったとしても方向を見定めるのは難しいだろう。

 困ったと思ったライカだったが、困ってばかりはいられない。

 移動の当てが無い以上、とりあえずこの場所で一夜を過ごす準備をしなければならないのだ。


「今から薪拾えるかな? あ、しまった! 火打石が無いよ、それに食べ物もない。うわあ、情けない巣立ちになったな」


 ライカは頭を抱えた。

 身一つで旅立つのが巣立ちの基本ではあるのだが、本来それは朝方に行うものなのだ。

 そしてその日の内に行ける所まで行って、そこで成体となって初めての狩りを経験し、体を慣らして行くのが通常の巣立ちである。


 ライカはそもそもが、その身の内で半端に竜と人間がせめぎ合いをしているという特殊な状態だったのだが、あの魔女のエールとの接触のせいで、竜である部分が急成長してしまった。

 そしてそんな異常な成長をしてしまったせいで朝ではなく夕方近くに巣立つこととなったのだ。

 しかも巣立ちと言っても訪れた家族と別れただけという、色々と異例の成り行きだった。

 まあ、竜の巣立ちは生理的なものなので、始まったら待ったなしなのは仕方のないことではあるのだが。


「考えても仕方ないな。一晩ぐらいなんとでもなるか」


 とはいえ、ライカはあまり気にやまないことにした。

 気にしてもしょうがないことは気にしない。

 その辺は実に竜らしい感覚ではあった。

 その時、上空でバサリと音がした。

 巣立ちの後に家族が来るはずもないので、これは他の何かである。

 ライカは慌てて木立のほうへと身を隠す。


「おーい! 誰かいるか?」

『そろそろ暗くなるぞ、低空飛行も危険だ。一度降りよう』

「そうは言うが、見当違いの所に降りたらまずかろう」

『お前の勘は外れんよ、誰よりも私が一番よく知っている』


 聞こえて来たのは、ライカもよく知る人と竜のやりとりだった。


「領主様、アル」

「お、ここにいたか。さっきの派手なのはお前の身内か?」

『ほらみろ、こういう所がお前の恐ろしい所だ。やあ、ライカ。巣立ちをしたのか。もう坊やとは呼べないな』


 ライカはホッとした。

 そしてホッとした自分に笑う。

 孤高を好む竜と、他人との交流を望む人間と、そのどちらでもある自分が、どこか可笑しく、そして嬉しかったのだ。

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